Bad Acts and Guilty Minds 第7章 エピローグ:お勘定

Bad Acts and Guilty Minds: Conundrums of the Criminal Law (Studies in Crime & Justice)

Bad Acts and Guilty Minds: Conundrums of the Criminal Law (Studies in Crime & Justice)


さて本章も最終章だ.

カッツはまず刑法はそれ自体重要だが,さらに広い意味でも役に立つのだと説いている.
刑法は毎日の人の営みの「意図」や「原因」について突き詰めて考える訓練をしてくれる.そして文芸批評,心理学,歴史,哲学はこのような概念の上に乗っているのであり,それらを行う人にとっても刑法の議論は重要であるはずだというのがカッツのいいたいことだ.


<文学とルールの意味>
文学の意味と解釈はすべて作者に依存するのか.そうではない.それは刑法の意味が立法者の意図に制約されるわけではないのと同じだ.法の解釈は立法者の意図を超えるし,文芸批評家は新しい意味を見つけることができるのだ.


<心理学と故意>
魔女や幽霊を撃ったと思った被告は,意図して人を殺したと言えるのか?この問題を考えていくと,意図は「単にあるかないか」という性質のものではないことがわかる.
彼が何を意図していたかは,彼が何を信じていたかに依存するのだ.そしてそれは程度の問題になる.心理学は「意図」や「信念」という概念には細心の注意を払うべきだ.それは単にあいまいというだけではなく,周りの広い状況に依存する概念なのだ.


<歴史と因果>
歴史家はしばしば「原因」について自信たっぷりに記述する.しかしそれは極めて弱いものだ.それは仮想現実の仮定に依存しているし,ある特定の事象について原因は多数あり得るものだからだ.
歴史家はよく「真の原因」と単なる必要条件を区別しようとするが,しかしこれを区別する方法はないのだ.


<哲学と刑法の統一性>
刑法の議論に哲学は多くの助けを与えてくれる.しかし逆も真なのだ.刑法は哲学の議論に有用な言語,心,倫理に関する具体的なケースを数多く用意することができる.多くの刑法の論争は哲学的な議論に還元できるのだ.特に重要なのは(1)意図の問題,(2)可能世界の問題だ.


以上がカッツの議論のあらましだ.本書を読んできて,ちょうど殺人の研究が(それは単にアンケートに答えるのではなく,人生の真実の決断が反映されているという意味で)進化心理をのぞく窓として有用だったように,刑法は人を処罰するのが良いのかどうかという重い判断の集積であり,そこにはヒトの心理や認知を考える上で非常に面白い問題が浮き上がるということがよくわかった.
またアメリカの刑法がいかに日本の刑法(大陸の啓蒙主義刑法)と異なるのかがわかって非常に興味深かった.私達の刑事制度は明治時代にドイツとフランスの法を手本にした影響が非常に色濃く出ている.もし英米をお手本にしていたらどうなったかと考えるのも面白い.とりあえず,アメリカのテレビシリーズ(Law & Order, Boston Legal などが秀逸)が大変面白く視聴できるというおまけがついた読書でもあった.