「悩ましい翻訳語」

悩ましい翻訳語―科学用語の由来と誤訳

悩ましい翻訳語―科学用語の由来と誤訳


本書は現在読んでいるドーキンスの「進化の存在証明」などの翻訳で知られる垂水雄二による翻訳にかかるエッセイだ.私のように時々原書にも当たりつつ多くの訳書を読んでいる読者にとっては大変興味深い本だと言うことができよう.中身は様々な訳語についての蘊蓄話が中心で楽しく読める.


African wild dogはリカオン,Guinea pigはモルモット,RabbitとHareの区別あたりのところは割とよく知られたところだが,Locustはイナゴと訳すべきではない(群生相のトノサマバッタ類)とか,Fruit flyは生物学的な文脈ではほとんどの場合ショウジョウバエでありミバエとすべきでないとかあたりはなかなか細かい.
RobinとかBlackbirdなど英国ではごく普通種だが日本にはいない鳥をどう訳すかは確かになかなか難しい.文学的にはコマドリとかクロツグミでいいと思うが,実際には別種であるし,コマドリは裏庭に来るような鳥ではなく高山性の鳥なので,翻訳家としてはなかなか悩ましいところだろう.もっとも生物学の本であれば,きちんとヨーロッパコマドリとかクロウタドリとかするほかあるまい.

私があまり知らなくて勉強になったのは植物名だ.Oakは「樫」と単純に信じていたが,これは落葉広葉樹で日本で言えばミズナラのような樹を指すとは知らなかった.Palmはシュロではなくヤシ,Lily of the valleyは谷間の百合ではなくドイツスズランだそうだ.このような慣用句のような名前は難しい.WoodsとForestの語感の差(前者は用材林,後者は人を寄せ付けない野生の森)なども参考になる.またNatural HistoryとかWildlifeなどの語の蘊蓄にも深いものがある.


訳語として定着してしまったがおかしいとぼやいているところにも味がある.ニューロンのFireは発火ではなく発射の方が適切だろうとか,Fibreは生物学では繊維だが,解剖学では線維に訳し分けなければならないとか,Immunityは二回目にはかかりにくくなることなのに,病を免れる免疫という語は少し違うとかのところは,読んでいてにやりとさせられる.また後半には心理学用語として定着している訳語が実にわかりにくいと愚痴っているところもあって面白い.確かにControl groupを「対照群」とせずに「統制群」としたり,Imprintingを「刻印付け」,Generalizationを「汎化」とか言うのは面食らってしまうところだ.
分野により訳語が異なる話としてはAnthropomorphismの話も面白い.動物行動学などでよく出てくる「擬人主義」だが,神話学や宗教学では「神人同型同性説」のことになり,辞書にも最初にそちらが出てくるため,人文系の学者はこの訳語にこだわるそうだ.


文科省の動物分類名の改訂にも噛みついている.食肉目をネコ目,齧歯目をネズミ目などと言い換えようというものだが,これには私も大いに同感だ.学名のラテン語の意味からあえて離れようという方針は理解できないところだ.


Natural Selectionについて著者は「自然選択」より「自然淘汰」がよいと主張している.既に定着しているという理由のほかに,淘汰という言葉はふるい落とすという意味だけではない(洗って選り分ける,精選するというのがもとの意味だそうだ)という理由も付されていてなかなか深い.Dinosaursについてもともとオーウェンは,恐ろしいトカゲではなく巨大なトカゲという意味で用いていたから「恐竜」という訳語は厳密には誤りだそうだ.Warning colorは「警戒色」と訳すのは誤りで「警告色」だというのはその通り.Herbivoreは「草食動物」と訳されるが,草とは限らないので「植物食者」と呼ぶべきだとかというところも細かい.Diploidが「倍数体」ならHaploidは「半数体」ではなく「単数体」とすべきだというのもその通りで,私もいつもそれじゃ4倍になってしまうじゃないかと気になっていたところだ.


カタカナ表記についても,ビタミンなのかヴァイタミンなのか,ウィルスなのかビールスなのかという問題も取り上げている.これは原語読みにするか英語読みにするか,Vなどの発音をどう表記するか(ブとするかヴとするか)という両方の問題があってなかなか悩ましいところだ.


本書では訳語の当てはめについての話が基本で,日本語にないような英語の文章表現を日本語に置き換える時の問題とか,様々な文脈や原典をどうするかなどのさらに深い部分には踏み込んでいない.単なる単語の当てはめでこれだけ悩ましいということを思うと,翻訳という作業全体がいかに大変かということがひしひしと実感される.いつもお世話になっている訳者の皆様にはここで改めて感謝の意を表したい.