「セックス・アンド・デス」

セックス・アンド・デス―生物学の哲学への招待

セックス・アンド・デス―生物学の哲学への招待

  • 作者: キムステレルニー,ポール・E.グリフィス,松本俊吉,Kim Sterelny,Paul E. Griffiths,太田紘史,大塚淳,田中泉吏,中尾央,西村正秀
  • 出版社/メーカー: 春秋社
  • 発売日: 2009/07/01
  • メディア: 単行本
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キム・ステレルニーとポール・グリフィスによる生物学哲学の入門書である.ソーバーの「進化論の射程」が訳出されたのに続いての生物学哲学書の訳出で喜ばしい.題名は原題のままであるが,特に「性と死」について扱っているわけではないので,私はあまりいい題名ではないと思う.なお全訳ではなく一部省略されているが,省略された部分はウェブページhttp://www.shunjusha.co.jp/sex_and_death/で公開されており,実質的には全訳といってよい.*1
原書の出版は1999年で,そこまでの20年ぐらいの間の様々な生物学哲学における議論を取り上げて議論するという体裁になっている.そういうわけで本書の議論は10年前とかなり古いものであり,最新の議論や理解から見るとやや物足りない部分も多い.しかし当時問題になっていた多くの論争を扱っており,論争の歴史的な理解にとっては有用な本だと思われる.


第1章では大まかな議論の所在が示される.人間の本性と道徳性の問題,利他的な行動を巡る問題,遺伝と環境の関係,生物学と社会科学の関係,環境保全の問題などが取り上げられると予告されている.
第2章ではフレームワークとしては進化の現代的な総合を基盤とした「定説」と「それへの挑戦」という形で見ていくことが本書の基本になると宣言されている.「定説」とされているものもやや古く狭い考えで,今やあまりいいフレームワークではないように思われる.


まず取り上げられているのはドーキンスの主張を巡ってのものだ.これは1980年代に様々になされた 議論を総括しているのだろう.今となってはあまり生産的には思えない議論が多いが当時は盛り上がっていたのだろう.


第3章では遺伝子淘汰の議論が取り上げられている.(本書ではこれが「定説」への挑戦であるという理解がされているが,かなり違和感があると言わざるを得ない)
著者はこの主題に対して,「遺伝子という永続的なもののみ累積的に進化が可能であること」とか「コピーによる系列」などの問題や,「遺伝子以外にも自己複製要素がある(細胞膜,メチル化情報,共生生物)」ということを取り上げていろいろと考察している.しかしここはあまり議論として面白くなかった.
私の理解ではドーキンスは「自己複製子こそ特別の立場にあること」自体を言いたいわけではない.ドーキンスの議論のポイントは「様々な進化適応を理解するときに,個体の視点から(包括適応度により)解釈しても遺伝子の視点から解釈しても等価だが,遺伝子の視点から見た方が理解しやすい」ということだ.だから本書の議論はポイントを外しているように思われる.
なおソーバーの超優性にかかるドーキンス批判について,著者は対立遺伝子についても環境と考えれば何ら問題ないと的確に論破している.同じくソーバーの「簿記論法」について,ソーバーの「相互作用子こそ説明レベルとしてふさわしい」という主張にも疑問を呈している.この対ソーバーの議論については適切な議論であるように思われ,私も同感だ.


第4章では遺伝子の実体についての議論を行っている.遺伝子の定義については,表現型から切り離して定義するのは問題があるし,分子的な厳密な定義も難しいので,表現型に絡めた形で決めるほかないとしている.ここまではよくわかる.しかしここでもドーキンスの主張にかみつく形になっていて,遺伝子淘汰説に立つなら,遺伝子は単一で文脈依存的でないものでなければならないが,そうなっていないからリサーチプログラムとしては問題だという流れの議論になっている.ここの議論については私としては理解できない.厳密に単一のものである保証がなくても,文脈依存でも,ある表現型に差を持つ遺伝子を仮定し,その遺伝子が特定文脈で増減するかどうかを考察し検証できればリサーチプログラムとして十分有用であるように思われる.


第5章では遺伝子淘汰説への反論としてなされた「発生システム論」について考察している.結論として著者のうちグリフィスは「発生システム論」に好意的だが,ステレルニーは「延長された自己複製子」として考えれば十分でないかという意見のようだ.私としては,要するに遺伝子が発現するときに様々な環境の影響を受けるというだけの話であり,何故このような議論をしているのか良く理解できないという印象だ.この手の「とにかくドーキンスの議論が嫌い」という人が作り上げた議論は何が言いたいのかよくわからないという共通点があると思う.


第6章,第7章ではメンデル遺伝学と分子遺伝学の関係が議論されている.理論間の関係が置換なのか吸収なのか統合なのかと,さらに片方が片方に還元できるかという議論が延々となされている.結局「優性」のような現象が分子的に理解できるかということを巡っての議論ということのようだが,何のためにこのような議論があるのかはわかりにくい.私にとってはこの中で紹介されているステントのコメント「分子遺伝学はいずれ古典遺伝学を還元できるに決まっている.もしそうでないかもしれないというならそれは哲学の方がおかしいのだ」というのがもっとも納得できるコメントのように思われる.還元は原理的に可能で,後は便利な方を使えば良いだけではないだろうか.


さて第8章ではまた淘汰の単位の話に戻っている.(この構成はわかりにくい.一応3-5章は遺伝子の話,8章は生命体の話ということらしいが続けて行った方が良かったのではないだろうか)
最初に生物の「個体」というときにそれは(無性世代と有性世代が交替するようなものを考えると)定義は実は難しいのだということを前振りしてから「利他行動」の説明についての議論がなされている.
利他行動が「実は利己的」だという説明方式,「集団のため」という説明方式.互恵,血縁などの議論,ウィン=エドワース,D. S. ウィルソンの議論の歴史をとりあげて様々に議論しているが,わかりにくい.著者たちは(訳書では省略されている第5節以降において)広義の個体淘汰説とウィルソンの集団淘汰説が等価であると認めつつもさらに個体とは何かという議論を続けていて,読んでいる印象としては何のために議論しているのかが理解しにくいものになっている.
このあたりは本書が10年前の本であることの限界なのだろう.現時点で整理するなら,遺伝子淘汰も個体淘汰もウィルソンのマルチレベル淘汰もすべてハミルトンの定式化した遺伝子頻度の方程式に従っている限り等価であり,後はリサーチプログラムとしてどれが有用かという観点からだけの議論であると明解に整理した方がよいと思われる.*2


第9章では【種】問題を扱う.様々な種概念,その様々な問題点を挙げて議論しているが,本書の立場はある程度凝集している固まりとしての【種】の実在を認めたうえで,系統的なアプローチに好意的ということになろう.体系学論争については分岐学の立場は明解で優れた面が多いが,これですべてが解決するわけではないというまとめになっている.また省略された4節では「種淘汰」の問題が取り上げられていて,本書ではこれはあり得る議論だとまとめている.なお「有性生殖が種淘汰により維持されているという可能性」についてはそれだけでは説明できそうにないとポイントを押さえている.


第10章はいわゆる「適応主義」の問題.
機能ということに関する物理学と生物学の違い,いわゆる適応主義とは何か,構造主義についての議論を整理しつつ,グールドからの批判にかかる論争を扱っている.結局それは何を説明したいのか,制約をどのように考えているかという問題に帰着することがわかってくるしかけになっている.最終的にはグールドの批判に対するメイナード=スミスの「制約を明らかにするための発見法的デバイス」,ソーバーの「リサーチプログラムとしての有用性」という見解に親和的な議論がなされている.


第11章では生態学の問題を扱っている.マッカーサーに代表されるような生態学を普遍的な法則の発見として位置づけようという動きに対して,初期条件にかかる偶然性や歴史的な経緯の問題から,その試みは難しいだろうと否定的だ.また平衡状態を仮定するのはともかく最終的にはそれは実証の問題であるという指摘,ニッチ構築に関する議論などもされている.


省略された原書第12章では生命史にかかるグールド史観(およびそれを巡るドーキンスとの論争)を扱っている.今日的にはあまり問題にされることもなくなっていて,かなりなつかしい.
グールドは(1)生命史は進歩ではなく複雑さの増大として捉えられるが,その本質は複雑性における分散の増加に過ぎない(2)カンブリア爆発は何か特別な出来事であり,その後ボディプランから見た生命の多様性・異質性は減少している(3)生命史全体では進化を統制する力としては自然淘汰より偶然性が大きい,という3つの主張を行っている.
(1)についてはドーキンスは軍拡競争などに見られる適応の進展という方向性を主張しているが,著者たちは(まったく異なる系統間では判断できないこと,循環的な解決になることもあり得ることから)懐疑的だ.しかしメイナード=スミスとサトマーリによる「主要な移行」についてはグールドの主張する壁自体の移動と捉えることができると好意的に紹介している.(2)についてはボディプランのみが異質性の基準とするグールドの主張には懐疑的だ.今日的にはゲノム間距離と発生に与える影響という議論になるべきところだと思われる.様々な適応が後に積み重なると,発生初期に決まる部分は固定化しやすくなるのだろう.(3)についてはこれは程度の問題で,特定分類群の出現という意味では偶然が大きいだろうが,ある環境における適応については収斂現象が見られるように法則的なものもあるだろう,また大量絶滅は重要な出来事だが,進化の「定説」を否定するものではないとまとめている.


第12章(原書第13章)では社会生物学進化心理学にかかわる論争を取り扱う.
社会生物学論争では,避けられたはずの混乱があったことをまず押さえている.遺伝的決定主義の誤解,自然主義的誤謬,政策へのインプリケーションを巡る過剰反応は避けられたはずの問題だと指摘している.
その上で行動を直接表現型として分析しようとしてウィルソンのプログラムには無理があるとし,行動に影響を与える心理メカニズムを適応として説明しようとする進化心理学のプログラムを説明する.


著者たちは進化心理学については上記プログラム自体は問題なしとするが,実際にはなお問題があると批判的だ.ここはやや詳しく見てみよう.

  1. まず進化心理学者はモジュールに対してコミットしすぎであると批判している.著者は進化心理学者は実証抜きにモジュールを主張しているかのようにいっているが,これは誤解であると思われる.まず仮説としてモジュールを持ち出しているのであり,そして脳損傷患者のケースやファンクショナルMRIなどでそれが実証されつつあるということではないだろうか.また一般知性などの説明については特定脳部位によるモジュールにこだわってはいない.
  2. 著者たちは,進化心理学者のモジュールの主張は「認知科学による視覚情報処理」からの類推だが,視覚処理は一般知性で処理するには情報が不足しているのにできてしまうから特別な計算モジュールを仮定しているのに対して,4枚カード問題では,情報は足りていて一般知性では何故か計算できない処理ができるからモジュールの存在を主張しているが,これは異なった問題だといっている.ここには何重もの誤解があるように思う.まずモジュールの主張は視覚情報処理のアナロジーだけで行っているものではない.また何故一般知性で4枚カード問題ができないかというのは極めて興味深い問題だが,それはそれで単一のモジュールではないであろう一般知性がなぜバイアスを持っているのかについての適応問題として独立に考察されるべき問題であり,意識することなく計算ができてしまう一般知性とは別の計算モジュールがありそうだと仮定することに問題があるとは思えない.そしてそれはまた独立に検証されればいいはずだ.
  3. そして多くの問題がモジュールでは説明できないというフォダーの批判も引かれている.フォダーの持ち出す例(語用論)がモジュールで説明できないものだとは思えないし,またそもそも進化心理学者は「すべて」の処理が単一モジュールによるものだと主張しているわけでもない.


省略された原書第14章では引き続き進化心理学の批判を行っている.
ここではダーウィンが感情の進化についてとった説明と進化心理学的説明を対比させて,ダーウィンは表情などにより感情を定義してから説明しているのに対し,進化心理学者は先に適応的説明から始めて,だからこのような感情があるはずだと議論していると位置づけ,ダーウィンはまっとうな方法だが,進化心理学者はおかしいと批判している.
ここもかなり違和感がある.

  1. 例えば「怒り」などの感情について定義がなく,素朴心理学的だということなのだろうが,前提として記述を省いているだけで,今後ファンクショナルMRIなどで定義されれば良いだけではないだろうか.ダーウィン進化心理学者の説明の最大の違いは,ダーウィンは「感情の表出」において至近的な説明を中心に行っているのに対し,進化心理学者は適応的な究極因の説明を中心に置いているということだと思う(なおダーウィン自身も最終章では簡単に究極因も説明している).
  2. あるモジュールの入力が文化によって異なりうるということをもって進化心理学的な説明が妥当ではないとも主張しているが,ここも理解しがたい.入力条件を経験や周囲の文化によって調整するという仕組みがユニバーサルであれば説明としては何ら問題がないと思われる.
  3. 進化心理学は実証なく素朴心理学的な主張をしているという割には,「日本人に「甘え」の感情がありこれはユニバーサルでない」という主張を何ら実証なく繰り返しているのも相当違和感がある.

ロバート・フランクのコミットメント的な感情の説明には好意的であるが,コスミデスたちの主張に対して不可解に反発しており,全体として著者たちは進化心理学の主張が理解できていないのではないかという印象をぬぐいきれないものになっている.

というわけでこの進化心理学にかかる2章の議論は私にとっては不満の残るものであると言わざるを得ないだろう.



第13章(原書第15章)では普遍的生物学,創発現象などが取り扱われている.
普遍的生物学とは,地球上の生物に限らず宇宙に存在しうる生命について普遍的に論じる学問が成立するかという話題だ.ここは大変楽しそうにいろいろと論じている.最終的には当然可能だが,テストなど難しい問題が多いだろうという常識的な落ち着きどころになっている.最後はカウフマンの自然淘汰の力を大きく制限する創発現象という考え方の吟味だ.著者はなかなか興味深い論点が含まれているが,これはむしろ「マルハナバチは空力学的に飛べるはずはない」ことを立証した論文のようなもので,何故カウフマンが指摘する問題を超えて自然淘汰が可能なのかより深く理解するきっかけとして意味があるのだろうとしている.


こうやって読んでいくと,生物学を舞台に様々な論争が行われていたことがあらためてわかり,当時の雰囲気も思い起こされてなかなか趣の深い本だ.そしてドーキンス進化心理学は誤解されやすいのだということがわかる.それはやはり人間とは何か,人生の意味とは何かというところにつながり,生物学の論争にとまらない性質を持つからだろう.そしてそうなったとたんに様々な奇妙な誤解が紛れ込むのだろうと思われる.



関連書籍


原書

Sex and Death: An Introduction to Philosophy of Biology (Science and Its Conceptual Foundations)

Sex and Death: An Introduction to Philosophy of Biology (Science and Its Conceptual Foundations)



合わせて読みたいソーバー本.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20090622
ドーキンスの主張に対する「超優性」「簿記論法」の議論は本書とも関連する.

進化論の射程―生物学の哲学入門 (現代哲学への招待Great Works)

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  • 作者: エリオットソーバー,Elliott Sober,松本俊吉,網谷祐一,森元良太
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同原書

Philosophy Of Biology (Dimensions of Philosophy Series)

Philosophy Of Biology (Dimensions of Philosophy Series)

*1:なかなかアップされなかった原書第14章がつい最近アップされた.本書評はこの部分も含んだものである

*2:そういう意味では本書の3-5章,8章を通じて最も重要なのは8章5節の記述ではないだろうか,6,7章を削っても8章は省略せずに本書に収録した方が良かったのではないかと思う.読まれる方は是非ウェブで8章5節を読むことをお勧めする