「進化のなぜを解明する」

進化のなぜを解明する

進化のなぜを解明する


ショウジョウバエの種分化の研究で有名な遺伝学者ジェリー・コインによる進化の証拠についての本である.原題は「Why Evolution is True」.*1 ドーキンスの「進化の存在証明」でも良書として紹介されていた本で,やはりダーウィン生誕200周年の昨年の出版.ドーキンスの本と同じく創造論者との論争を念頭においた上で進化があったことの証拠を示している本である.全体として進化生物学の主流の中庸的な見方が提示されており,わかりやすく丁寧な仕上がりになっている.また証拠について,予想と検証という手続きを重視しているのも特徴だ.


まず序章では問題意識が書かれている.「進化」という明白な事実が一般大衆に受け入れられていない衝撃,その背後にある創造論者の「ただの理論」という主張などに触れながら.きちんとした科学的な理解をして欲しいという願いが述べられている.この中では今やガラパゴス諸島にまで教会系の学校が進出し創造論的生物学教育をし始めたという衝撃の事実が紹介されている.


第1章で進化とは何かを説明した後で,第2章から進化の証拠について説明していく.
第1章の進化を説明するところでは集団遺伝学的な定義を使わずに,時間的な変化,漸進性,共通起源,種分化,自然淘汰,その他のメカニズムという形で説明している.一般向けにわかりやすくという意図と,種分化の研究者としてのこだわりが見えるようで面白い.
ここで進化が事実であった場合に予想されることをまとめ,第2章以降で検証していくという流れになる.また予想と検証という形式ではないが,進化があったと仮定して始めて解釈可能な事実やデータを補強証拠として挙げるとも予告されている.(このような説明はretrodictionと呼ばれるものだ)

予想は以下の通り.

  • 進化的変化は化石に残っているだろう,新しい化石ほど現生種に似ていて,時間の経過とともに系統を形成していることが見られるだろう.
  • 化石記録には種分化の事例も見つかるだろう
  • 主要なグループを結びつける共通祖先の実例も見つかるだろう
  • 種間差は遺伝的な差異に基づいているだろう
  • 意識的なデザインではあり得ないような,進化プロセスに制約されたぶざまなデザインが見られるだろう
  • 自然淘汰が実際に生じているところが観察されるだろう


第2章では化石が取り上げられる.コインの議論の特徴は化石を重視しているところだ.これは化石の証拠はボーナスだとしているドーキンスと対照的だ.これは創造論者の主張に真っ向から対抗しようということでもあり,また一般向けにわかりやすくという配慮でもあるだろう.
化石とは何かについて丁寧に説明した後,変化を示している化石系列として有孔虫,放散虫,三葉虫,種分化の実例として浮遊性放散虫,共通祖先の実例としてティクターリク,始祖鳥と羽毛恐竜,クジラの祖先化石があげられている.ティクターリクやクジラの祖先化石については,どの場所のどの地層からでそうだという予想に基づいて探索され,実際に見つかったことも重要な検証事例として紹介されている.


第3章の前半はretrodictionにかかる痕跡器官,偽遺伝子,胚発生の形式をあげている.胚発生の様々な様式が進化の光を当てて始めて理解できることについては丁寧に説明されている.*2
後半はぶざまなデザインの実例が紹介されている.カレイ類の眼,哺乳類の反回神経をあげた後でヒトについてもいろいろ紹介されている.尿道前立腺を突っ切っていること,骨盤の穴から出産すること,卵巣と卵管のあいだに割れ目があることなどだ.


第4章は生物の地理的分布について.これはコインにとってはretrodictionということになる.大陸規模の実例としてはおなじみのオーストラリアの有袋類のほか,サボテンとトウダイグサの類似,ゴンドワナ起源の動植物などがあげられている.島の生物地理学についてもガラパゴス木フィンチほかいろいろと丁寧に説明されている.


第5章からは,進化のメカニズムの説明が中心になる.
自然淘汰による見事な適応の実例については日本ミツバチのスズメバチ熱死させる適応,キツツキの舌などがお気に入りのようだ.自然淘汰について簡単に説明した後*3自然淘汰の実例が観察できるという予想に移る.
ここはコインもダーウィンの伝統に従って家畜の育種事例から始めている.そこからレンスキ,ホール,レイニーによるバクテリアの実験,薬剤耐性,ガラパゴスフィンチなどを紹介している.なおコインはここで創造論者による「自然淘汰では進化し得ない形質」の議論について触れて,鞭毛,血液凝固が自然淘汰で説明できることを解説している.


第6章は性淘汰について
ここは限られたページで性淘汰,さらにそもそも有性生殖は何故あるのかという2つの大問題を解説しようとしていて意欲的だ.もっともさすがに説明は包括的な浅い部分に止まっている*4.進化の証拠という本書の趣旨からすれば十分だということだろう.
ここでは配偶様式と性的二型のあいだに相関関係があると予想でき,実際に観察できることが,進化理論が正しいことの証拠との1つとして取り上げられているのが興味深い.


第7書は種分化について取り上げている.コインはこの分野の研究者であり,本書の中でも読みどころの1つと言える.
まず「種」概念については,師匠でもあるマイアの生物学的種概念を支持し,「種」は実在するのだという立場に立っている.*5 コインは様々な例をあげて議論しながら,種分化は何らかの偶然によって繁殖障壁が生じることによって生じ,その大半は地理的な隔離だとまとめている.
ここから予想として以下の4点が挙げられている.

  • 繁殖障壁は地理的隔離から生じる進化的変化の副産物である
  • 隔離が生じた近隣にもっとも新しく分化した種が見つかるだろう
  • 今まさに隔離され分化しつつある個体群が観察できるだろう
  • 隔離された個体群間では時間とともに繁殖障壁の強度がゆっくり進むだろう

そして最初と4番目の予想は隔離実験によって,2番目と3番目の予想は実際の観察によって検証されたとしている.このあたりはコインの専門分野であり,かなり詳細な部分まで解説されていて面白い.
また同所的種分化の議論についても触れ,理論的に可能性はあるが,実際に自然下で頻繁に生じるとは思われないとコメントしている.まれな実例*6にも触れた後で,もっとも驚くべきことは同所的種分化は機会があっても生じないことの方が圧倒的に多いことだともコメントしている.このあたりも背後に論争の激しさを感じ取ることができる.
また特殊な種分化形式として植物の異質倍数体の種分化も紹介され丁寧に解説されている.


第8章はヒトの進化について
化石記録を概説した後で,チンパンジーとの遺伝的な差,人種というところまで解説しているのが特徴だ.人種の存在を社会的構築物として否定する議論を否定し,確かに地理的に離れていて集団間に差が見られることは事実であると認めた上で,分かれてからの時間が短く,ヒト全体で極めて均質な集団だ*7とまとめている.また「ヒトは現在でも進化しているのか」という(よく聞かれる)問題に関しては,確かに文明によって多産多死ではなくなったことにより全般的に淘汰圧は下がっているし,また淘汰圧がなくなったような形質もあるだろうが,ゆっくりであっても何らかの進化は続いているだろうとまとめている.このあたりの説明は遺伝学者らしく冷静で丁寧だ.


最終章ではヒトの心について論じている.
コインは,このような物質的な証拠をいくら挙げても一部の人は進化を受け入れたくないのだろうと言い,それは進化を受け入れることにより倫理や道徳に深刻な問題が生じると考えているからだろうと推測している.これはドーキンスが「The God Delusion」(邦題:神は妄想である)で延々と論じている部分でもある.
コインは価値の問題は科学の範疇の外にあるとまず整理した上で,道徳性が遺伝に拘束されているかどうかは事実の問題だからある程度論じることができるとする.

まず自然淘汰で進化したなら行動がすべて利己的になるはずだというのは間違いであり,ドーキンスの「利己的な遺伝子」は自然淘汰は動物が利他的になり得ることを説明している本なのだと指摘している.そのうえで進化心理学を解説している.コインの進化心理学への評価は「原理的に正しいアプローチだが,実際に主張されている内容のなかには通常の生物学的な検証水準に達していないものがあるのではないか」*8 というものだ.
いずれにしてもコインの主張したいポイントは,「行動基盤の遺伝性があるにしても私達は意思の力で自分の行動を変えることができる.つまり私達は自分自身で人生の意味や目的,道徳性を定めることができる」ということだ.これはドーキンスの考え方とほぼ同じだといってよいだろう.その意識的に選び取る基準となる道徳性の中身が進化的に作られた構造を持っているかもしれないという部分には踏み込んでいない.一般向けの最初の議論としてはそこまで踏み込むとかえって混乱するだろうから,この段階で十分ということだろう.
コインは最後に,自然のありのままの姿を知ることは畏敬の感情と精神的な充足を与えてくれること,進化を受け入れても社会の道徳が崩壊するわけではないことを強調して本書を終えている.


全体の議論は広範囲で,穏やかで,丁寧な語り口だ.議論は進化生物学の主流の見解によっており*9,安心して読める.特にアメリカの一般の読者を念頭においており,宗教に対しては踏み込まずに,進化自体の証拠については,ドーキンスほど網羅的ではなく,一般の人にとって説得的であると思われる部分を中心に記述している.創造論者の主張に触れる機会のある人にはちょうど手頃な本なのだろう.また専門である種分化については特に詳しく優れた解説になっている.日本の読者にとってもドーキンスの「進化の存在証明」と合わせて読みたい良書だと評価できる.


なお翻訳はわかりやすい文体でなされているが,進化生物学について特に造詣の深い訳者というわけではないようだ.*10 監修をつければもっといい本に仕上がっただろう.とはいえ,このヴォリュームで2400円に抑えた努力には敬意を表したい.



関連書籍


Why Evolution is True

Why Evolution is True

原書


進化の存在証明

進化の存在証明

ドーキンスによる同趣旨の本


The Greatest Show on Earth: The Evidence for Evolution

The Greatest Show on Earth: The Evidence for Evolution

同原書
私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20100218

*1:それにしてもどうしてこんな邦題をつけるのだろうか?本書は進化が事実であるかどうかを扱っている本であって,(後半に自然淘汰や性淘汰の説明はあるが)「何故」を主に扱っている本ではない.

*2:これは何故かドーキンスが取り上げていない部分だ

*3:ここはドーキンスにとっては何冊も本を書いているところになる

*4:もっとも興味深い問題であるメスが何故そんな形質を選ぶように進化するのかという部分に達していないのは残念だ.もっともそこを解説するのはこのページ数では不可能だということも理解できる

*5:実在の根拠としてはマイアのニューギニアの鳥の種分類と現地人の分類の一致があげられ,さらにそれがヒトの認知の問題だという反論について,鳥類自身が繁殖相手の区別が可能であることをもって再反論している.なかなか背景での議論の激しさを醸し出している

*6:カメルーンのシクリッド,ロードハウ島のヤシがあげられている.ヴィクトリア湖ぐらい広いと同所的とは言えないということのようだ

*7:個人的な推測だと断りつつ,人種は起源が若いので理性や行動に重要な違いを進化させるまでにいたっていないだろうとしている

*8:特にEEAという概念には懐疑的だ.それがすべての意味で極めて安定した環境であったという主張だという前提で批判しているが,実際の進化心理学者の前提とはややずれている印象だ

*9:種分化については自らのよって立つ視点からしっかりとした議論がなされている

*10:artificial selection を人工淘汰と訳したり,ヒトとチンパンジーの分岐年代を7000万年としたりしていてちょっと残念だ.ヒトについてraceが使われている部分は「種族」ではなく「人種」とすべきだろう.またヒトとチンパンジーの遺伝的差異が1.5%というところの説明はタンパク質,アミノ酸,塩基について理解できていないようで,訳文全体の意味が通らなくなっている.