「進化論の時代」

進化論の時代――ウォーレス=ダーウィン往復書簡

進化論の時代――ウォーレス=ダーウィン往復書簡


本書はダーウィンとウォーレス*1の往復書簡集である.ウォーレスはダーウィンと独立に自然淘汰学説に到達し,その論文をダーウィンに送ったことが,リンネ協会におけるダーウィンとウォーレスの自然淘汰学説の共同発表につながり,さらにダーウィンによる「種の起源」の執筆のきっかけになったことで知られる.ウォーレスはダーウィンを深く尊敬し,自然淘汰説はダーウィンの業績だと主張し,最後まで自分の業績とはしなかった.2人の間には文通を含め様々な交流があり,意見の相違もあったが,いかにもヴィクトリア朝らしい礼儀正しい関係であったようだ.


本書では,この2人の間で交わされた書簡のうち現在入手可能なものが新妻昭夫により丁寧に注釈されて訳されている.この往復書簡を読んでいて特に印象深く感じるのは,ダーウィンもウォーレスも互いに相手を当代きってのevolutionary thinkerだと認めて,本音をぶつけたやりとりをしていることである.
ダーウィンのまわりにはフッカーやハクスレーもいたが,おそらく自然淘汰にかかる考察についてはウォーレスを最も重要な議論相手と考えていたのだろうと思われる.それはひとつは,自然淘汰について独立に到達したこと,また警告色や動物地理についての業績からウォーレスを高く評価していたこともあるが,もうひとつは,おそらくウォーレスの独特な人柄によるもので*2 ,ウォーレスはどんなにダーウィンを尊敬していても,進化的な議論についてはまったく遠慮なく意見を述べている.このような率直な意見はダーウィンにはとても有用だったのだろう.
2人の間の意見の不一致には,性淘汰を巡る論争,人間の精神の進化を巡るウォーレスの自然淘汰からの撤退が有名だが,そのほかにも様々な論争が書簡でなされている.それでも2人の間には不和は生じず,時に近況報告を交えながら,意見のやりとりが続いている.その背景には,ダーウィン自然淘汰説についてウォーレスが非常に謙虚な姿勢を崩さないことに感謝していたし,またウォーレスがダーウィンの人柄.学識を深く尊敬していたこともあるのだろう.いずれにしてもそのような2人のやりとりは書簡集をとても温かいものにしている.(私が特に気に入っているのは『マレー諸島』が出版されたお祝いの手紙の中で,ダーウィンが蝶の採集の記述を見て嫉妬を覚えたと書いているところだ)


内容的に私が興味を引かれたのは以下のようなところだ.

  • ごく初期からダーウィンは種内多型を気にしていた.単純な自然淘汰では説明しにくいことを気にしていたのだろう.(ヒョウの黒型(クロヒョウ)についてのやりとりがある)
  • ベーツ型擬態種のチョウにおいてメスのみに擬態型が見られることについて,ウォーレスは「メスの方が保護の必要性が高い」という理由で説明している.(これは性的二型の鳥類でメスの方が保護色になっていることを説明しようとするウォーレス説と同じ理由付けになる)このウォーレスの「保護の必要性」というのはややあいまいな概念だが,そのポイントは「卵を持つ分,飛翔が緩慢になって補食されやすい,産卵時に補食されやすい」というもので,基本的に「卵を持つ分,捕食者にとって望ましいので補食圧が高い」という現代の有力な考え方とほぼ同じになる.自然観察におけるウォーレスの感覚の鋭さを示しているようで興味深い.
  • 自然淘汰』という用語と『最適者生存』という用語とどちらがいいかという議論において,ダーウィンは「自然淘汰という用語が否定されるかどうかは,いまや『最適者生存によって』決まるだろう」と書いている.これはミーム的な議論の嚆矢と評価できるだろう.
  • ダーウィンは遺伝について非常に興味を持ち,実験も行い,深く考察していたが,ウォーレスはここについてあまり深く考察している様子がない.
  • 種間雑種の不稔性が自然淘汰で進化できるかどうかを巡って,ウォーレスは群淘汰的な議論で満足しているが,ダーウィンは一旦そういう議論に説得されそうになりつつも,個体淘汰的な視点からどのような淘汰が生じるかを考え直す(そして群淘汰的な結論を否定する)と言うことを繰り返している.ダーウィンは,何が問題なのかについて(残念ながら)明晰な議論はできなかったが,時代を100年先駆けたevolutionary thinker振りをよく示している.(新妻はこれを不毛な論争と評価しているが,私には時代を先駆けた貴重な議論であるように思われる)
  • 性淘汰についての議論を見ると,ダーウィンはウォーレスの考え方の納得できない部分(なぜオスが美しくなるのかが説明できない.保護色が有利ならオスもそうなるのではないか)を再三指摘しているが,ウォーレスはダーウィンの考えの弱点(そのような選り好みをする性質がなぜメスに進化したのか,かえって不利ではないか)を往復書簡では指摘していない.後年著した「ダーウィニズム」では指摘しているにもかかわらずこれを直接問うていないのは不思議だ.ダーウィンの死後そう考えるようになったのかもしれない.
  • 性淘汰については2人は何度も何度も議論しているが,人間の精神の進化については議論らしい議論はない.ダーウィンはウォーレスの心変わりを嘆いているだけだ.(観察によって心霊現象の存在を信じているウォーレスに対して)説得しても無駄だと思ったのか,ここについてはダーウィンも強い議論ができないと認めていたのか(なぜ狩猟採集生活で不必要な数学などの高度な能力が進化したのかというのは当時としては難しい問題だったのだろう),ちょっと興味深い.
  • ダーウィンは海を越える生物の拡散について,機会的漂流を原因とする自説にかなりこだわっている.偶然の移動であればそれがどのような原因であろうとも(ウォーレスは風によって種子が運ばれた可能性を指摘してダーウィンと論争になっている)自然淘汰による進化説にとっては特に問題ないはずなのでこのこだわりは興味深い.


新妻による解説は,注釈だけでなく,書簡集をいくつかの時代に分け章立てし,章頭で背景を大まかに解説しており,非常にわかりやすい試みになっている.
なお細かな話だが,新妻は,「ダーウィンはパンゲネシス説にこだわったために獲得形質の遺伝という誤りを起こしてしまった」と解説しているが,これは因果が逆だと思う.ダーウィンは観察によって獲得形質が遺伝することがあると考え,それをそのほかの様々な遺伝現象(特に重要なのは遺伝形質が常に混じり合ってしまわず粒子的に伝わるというところだ)とあわせて理論に組み込むために苦労してパンゲネシス説を組み立てているのだと思う.


本書は私のようなダーウィンファンで,ダーウィン,ウォーレスの著作,伝記を読み込んでいるものにとっては本当に興味深く,まさにこれまで様々なダーウィン関連本を読んできた読者へのボーナスのような本だと感じられる.また当時2人が興味を持ち,情報交換し,議論している博物学的な詳細も大変楽しい.このような極めてナローな焦点の本が出版されたことに深く感謝する次第である.



関連書籍


本書に関連するダーウィン本,ウォーレス本をいくつか列挙しておこう.


種の起源〈上〉 (光文社古典新訳文庫)

種の起源〈上〉 (光文社古典新訳文庫)

種の起源〈下〉 (光文社古典新訳文庫)

種の起源〈下〉 (光文社古典新訳文庫)

種の起源については,最近新訳が出版されている.



ダーウィン著作集〈1〉人間の進化と性淘汰(1)

ダーウィン著作集〈1〉人間の進化と性淘汰(1)

ダーウィン著作集〈2〉人間の進化と性淘汰(2)

ダーウィン著作集〈2〉人間の進化と性淘汰(2)

人間と性淘汰という二人の意見が合わなかったことに関するこの本はウォーレスとの議論の背景として最も重要な本だろう.私の読書ノートはhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20090804から



人及び動物の表情について (岩波文庫)

人及び動物の表情について (岩波文庫)

私の読書ノートはhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20061216




マレー諸島―オランウータンと極楽鳥の土地〈上〉 (ちくま学芸文庫)

マレー諸島―オランウータンと極楽鳥の土地〈上〉 (ちくま学芸文庫)

マレー諸島―オランウータンと極楽鳥の土地〈下〉 (ちくま学芸文庫)

マレー諸島―オランウータンと極楽鳥の土地〈下〉 (ちくま学芸文庫)

熱帯の自然

熱帯の自然

ダーウィニズム―自然淘汰説の解説とその適用例

ダーウィニズム―自然淘汰説の解説とその適用例

私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20090415



伝記など

ダーウィン―世界を変えたナチュラリストの生涯

ダーウィン―世界を変えたナチュラリストの生涯

素晴らしい伝記.二部編成でセット18000円という価格もものすごい.


名著誕生2 ダーウィンの『種の起源』

名著誕生2 ダーウィンの『種の起源』

ブラウンも大著の伝記を書いているが邦訳されていない.これはそのコンパクト版とも言うべき本.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20071011


博物学者アルフレッド・ラッセル・ウォレスの生涯

博物学者アルフレッド・ラッセル・ウォレスの生涯

私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20091009


ダーウィンが信じた道―進化論に隠されたメッセージ

ダーウィンが信じた道―進化論に隠されたメッセージ

私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20090727


ダーウィンの足跡を訪ねて (集英社新書)

ダーウィンの足跡を訪ねて (集英社新書)

私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20060815



関連本

種の起原をもとめて―ウォーレスの「マレー諸島」探検

種の起原をもとめて―ウォーレスの「マレー諸島」探検


ダーウィン『種の起源』を読む

ダーウィン『種の起源』を読む

私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20090324


ダーウィンのミミズの研究 (たくさんのふしぎ傑作集)

ダーウィンのミミズの研究 (たくさんのふしぎ傑作集)

新妻はこんな本も書いている

ミミズと土 (平凡社ライブラリー)

ミミズと土 (平凡社ライブラリー)

*1:Alfred. R. Wallace 最近はウォレスと表記されることが多いが,新妻氏は昔よりウォーレスと表記している.本書評においてはウォーレスという表記に従う

*2:ウォーレスは,自分で正しいと思ったことについては非常に率直であり,どんなに親しい人の間でも激しく意見を戦わせ,しかし一歩議論を離れるとそれが私的な交流関係に影響を与えることはなかったらしい.