
- 作者: グレゴリー・コクラン,ヘンリー・ハーペンディング,古川奈々子
- 出版社/メーカー: 日経BP社
- 発売日: 2010/05/27
- メディア: 単行本
- 購入: 6人 クリック: 113回
- この商品を含むブログ (21件) を見る
本書は出アフリカ以降の人類進化を扱った本である.著者のグレゴリー・コクランは物理学者でかつ人類学者,ヘンリー・ハーペンディングは集団遺伝学者でかつ人類学者と紹介されている.コクランは胃潰瘍や子宮頸癌の病原体原因説で有名な学者だ.また二人の共著でアシュケナージ系ユダヤ人の高IQが進化的な適応現象だという論文を書いていることでも知られている.
本書の中心的な主張は,ヒト集団においては出アフリカ以降,過去よりも速い速度で進化が生じているというものだ.これはハプロタイプの進化速度というデータから見ておよそ100倍だと主張されている.そしてそれは大きな環境の変化に対して有利な遺伝子変異が急速に自然淘汰を受けている結果だというものだ.
著者たちは数万年,あるいは数千年という期間は(進化心理学が主張するように)複雑な心的な適応が生じるには短いかもしれないと認めつつ,しかしそれは有利な遺伝子の頻度を変えるには十分であり,それが何らかの反応のスイッチになっていたり,特にそれが何らかの代替戦略間の切替遺伝子であれば十分に大きな表現型効果があるだろうとしている.
この大きなテーマについては,出アフリカ以降分布域が広がり,特に農業開始以降非常に大きな環境変化があったのは事実であり,基本的に正しいものと思われる.しかし本書の主張はここにとどまらず,様々な個別の主張,仮説の提示が行われている.
まず最初に提示されているのは3万年前のヨーロッパに見られる後期旧石器時代の認知革命の説明だ.
著者はこれをネアンデルタール人からの遺伝子による可能性があると示唆している.ごくわずかに交雑していたとしても有利遺伝子は(ミトコンドリアなどの中立的な遺伝子と異なり)すぐに広まっただろう,そしてそれは認知に大きな影響を与えただろうというものだ.
しかしこの主張にはかなり疑問がある.常染色体上の遺伝子交流についてはありうることだとしても*1,ここでいう認知革命に必要な心の特徴が単純な変異で獲得できるとすることにまず疑問を抱かざるを得ない.(スイッチ遺伝子だとしてもこのような形質が代替戦略であったとは考えにくいところだ.著者は単純な生化学反応にかかる形質でも一定の閾値を超えれば創発的な表現型形質が現れると考えているようだ)
さらにもしそうだとするなら,サブサハラアフリカやオーストラリアの民族に(さらにアジアやアメリカの民族についても)この遺伝子が広がるのは難しいということになるのではないだろうか.非常に強い正の淘汰がかかるなら,ごく稀な遺伝子交流でも3万年で世界中に広がったということなのかもしれないが,本書ではそこに対する詳しい議論はなされていない.
次に提示されているのは,農業以降の環境の変化に対する適応現象だ.
まず環境変化が非常に大きかったことが強調されている.特にあげられているのが人口の増大で,これによる環境の変化以外に,利用可能な突然変異の全体数が増えることが進化速度に効いてくるとされている.*2(またここでは遺伝子の突然変異と同じく,ユニークなアイデアの総数も増えて,それにより技術が進み,さらに環境変化を促進しただろうという指摘もあり,興味深いところだ.)
このような環境変化に対する適応の例としてあげられているのは以下のようなものだ.
<食事の変化への適応>
乳糖耐性,虫歯への耐性,炭水化物の消化効率向上,必須ビタミン取り込みのための適応,アルコール依存への耐性(アルコール摂取自体は飲み水の安全のために有利だったと説明がある)など.この多くはなお適応途上であり,完成していないものが多いとされている.興味深いのは糖尿病耐性についてもまだ適応途中であるとし,倹約遺伝子説に反対していることだ.(著者によれば,農業以降に飢餓リスクが減少したとは思えないということだ)
また必須ビタミンに関連して,高緯度地域での肌の白さとビタミンD合成の話が語られているが,著者は欧州に見られえる肌の白さについては,その遺伝子の置換速度が非常に速いこと,他の地域では見られない目や髪の毛の色にも変化が見られることから,単なるビタミンD合成以外の淘汰圧があるのではないかと示唆している.
<人口増大への適応>
人口密度が増えたことにより感染症のリスクは飛躍的に増大した.これに対する適応の例としては様々な対マラリア耐性にかかる遺伝子が紹介されている.
興味深いのは利己的な遺伝因子であるドライブ遺伝子は非常に強い正の淘汰を受ける稀な突然変異であるので,人口増大とともに頻度を増やしたのではないかと指摘されているところだ .ヒトの流産確率が他の哺乳類に比べて高いのはこのためではないかと示唆されている.
この二つの論点は単純な遺伝子変異の問題であり,説得的だ.実際に乳糖耐性や鎌型赤血球のマラリア耐性は有名なところでもある.しかしここからが本書の主張の核心になってくる.
<心の変化>
農業社会では,適応度が高くなる心の特性が狩猟採集時代とは異なってくるだろうと示唆されている.
狩猟採集時代より近隣グループとの戦いによる適応度減少のリスクは減り,飢餓リスク(これは経済的な失敗リスクとも言い換えられる)が増えただろう.
すると攻撃性の適応度は減り,権威に対して従順であることの適応度は増える.また勤勉で自己コントロールができ,分配については利己的な特性が有利になる.(著者はこれをブルジョワの美徳と名付けている.勤勉性や自己コントロールはパーソナリティ心理学で誠実性と呼ばれるものに近いだろう)また交易で利益を得るには,様々な複雑な物事を理解できる知性がある方が有利になる.
そして著者は,農業経験の長い人類集団ほどこのようなパーソナリティ特性が変化しているだろうと示唆し,農業経験の浅い人たちに急激な現代化政策を押し付けることの難しさを指摘している.
さらに著者は,ビジネスや技術に関する知性が,このような交易による利得や支配階級になることの有利さにかかる淘汰圧により農業開始以降徐々に上昇しただろうとし,いわゆる科学革命や産業革命は,知性の上昇が一定の閾値を超えたことに原因があるのではないかと示唆している.
この心の特性の進化に関する本書の主張は,基本的には仮説の段階だ.このうちパーソナリティの問題についてはなかなか興味ぶかい主張のように思われる.もともとパーソナリティが代替戦略的に多型であったのなら淘汰圧の変化に対して速やかに頻度が調整されただろう.そしてこれは人類集団ごとのパーソナリティ特性を計測することで検証も可能だ.
これに対して科学革命や産業革命が遺伝的な変化によるものだという主張にはあまり説得力はないように思う.部族間の交易や狩猟技術に関する知性は狩猟採集時代においてもやはり有利だったのではないだろうか.
本書の3番目のテーマは様々な歴史を遺伝的変化の観点から解説してみようという試みである.以下のようなことが語られている
- 古代エトルリア人はアナトリア起源の孤立集団だったようだ.彼等と近隣部族の交流が,ローマ人に遺伝的な多様性を与え,淘汰を経ることによってローマ人の行動特性を作ったのかもしれない.
- マルクス・アウレリウス帝は勇猛でなるサルマティア人部隊を北ブリテンに駐留させた.これは英国人にアーサー王伝説や遺伝的多様性をもたらした.
- 青い目の遺伝子の拡散は,ヴァンダルをはじめとするゲルマン民族の大移動,さらにイスラム海賊によるヨーロッパ人の拉致の影響を受けている.
- アメリカ大陸は人類への感染症にかかる淘汰圧が弱く,(コストのある)免疫を下げる方向の適応が生じた可能性が高い.これがスペイン人による征服を可能にした.逆にアフリカの内陸部は強い感染症淘汰圧によりヨーロッパ人の進出を長年阻んできた.
- インドヨーロッパ語族の拡散については様々な説があるが,文化的な説明ではなぜ近隣部族がそれを真似できなかったのかの説明が困難だ.乳糖耐性遺伝子による有利性が最もこの拡散をうまく説明する.
このあたりはなかなか楽しく読める.もっともローマ人の行動特性とか,乳糖耐性遺伝子によるインドヨーロッパ語族の拡散についてはまだ「お話」の段階だろう.
本書の最後のテーマはアシュケナージ系ユダヤ人の高IQの説明だ.
著者はまずいくつかの事実をあげる.
- アシュケナージ系ユダヤ人の平均IQは他集団より0.5〜1.0標準偏差高い.(なお古代ユダヤ人が特に賢かったと考えられる根拠はない.またアシュケナージ系以外の現代ユダヤ人のIQは他集団と同じである)
- アシュケナージ系ユダヤ人には遺伝的な疾病が非常に多く発見されているが,それは神経系の化学活性の異常に集中している.
そして高IQは強い淘汰圧に対する適応(そして遺伝的疾病はそのコスト)だと結論付けている.根拠は以下の通りだ.
- アシュケナージ系ユダヤ人はローマ帝国崩壊後,様々な迫害,差別を受け,中世以降金貸しを中心とするホワイトカラー的な職業にのみ就いてきた.そしてそのビジネスでの成功が大きな淘汰圧になったと考えられる.
- アシュケナージ系ユダヤ人は,中東由来と欧州由来双方の遺伝子を持っているが,長期間他集団との遺伝子交流が限定されていた.それは現在の遺伝子変異のデータから裏付けられる.
この主張は(予想される通り)欧米で激しい論争を招いているらしい.私の印象では,これは可能性としてありうることだろうと思う.特にきちんとコストが払われているところがトレードオフ的で,(ある平衡から環境変化に従って別の平衡に移ったという状況を思わせ)先の科学革命の説明と異なって説得的だ.しかし淘汰圧や適応度については何ら定量的な根拠がなく,本当にそうだったのかどうかについては何も言えないということではないかと思う.
いずれにせよ,この部分はこの主張のために本書全体が構想されたのではないかとも思わせる熱の入った著述振りで,読んでいて迫力を感じられる部分だ.
本書は出アフリカ以降を扱っているので,そこに進化があったとすると,民族差,人種差に結びつきやすく,政治的には非常に危険な領域ということができるだろう.特に心の特性についてはそうだ.しかし著者はひるまずに様々な可能性を論じていて,その心意気は買えるだろう.しかし一方で語られている仮説の説得性は様々であり,中にはすぐに納得できないものもある.読者としてはそこに十分注意して読むべき本ということになるだろう.逆にそのあたりを踏まえて読めばなかなか啓発的な書物だと評価できるだろう.
個人的にはネアンデルタール遺伝子と認知革命,知性の向上と科学革命あたりの説明には賛成できない.逆にパーソナリティ頻度が農業革命以降変化しているのではないかという示唆は説得的で面白いと思う.また淘汰圧について性淘汰が全く触れられていないのはちょっと残念だ.青い目の遺伝子にはそのような利点があったかもしれないではないか.
関連書籍
原書

The 10,000 Year Explosion: How Civilization Accelerated Human Evolution
- 作者: Gregory Cochran,Henry Harpending
- 出版社/メーカー: Basic Books
- 発売日: 2009/01/26
- メディア: ハードカバー
- クリック: 7回
- この商品を含むブログ (1件) を見る
ドライブする利己的な遺伝因子についてはこの本.この原書に対する私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20061127

- 作者: Austin Burt,Robert Trivers,藤原晴彦,遠藤圭子
- 出版社/メーカー: 共立出版
- 発売日: 2010/04/06
- メディア: 単行本
- 購入: 3人 クリック: 146回
- この商品を含むブログ (6件) を見る