「プライスレス」

プライスレス 必ず得する行動経済学の法則

プライスレス 必ず得する行動経済学の法則


本書は「価格」についての本で,数学や論理学まわりのテーマを鮮やかに取り上げるサイエンスライタ―,ウィリアム・パウンドストーンによるもの.邦題では,副題が「必ず得する行動経済学の法則」となっていて,あまりにも安直でひどい*1のだが,本書は決して怪しげな儲け話の本ではない.また行動経済学の話題は登場しているが,本書のテーマは「価格」にあるのであって,行動経済学はその面白さを伝える脇役に過ぎない.原書の副題は「The Mith of Fair Value (And How to Take Advantage of It)」.「公正な価格という神話(そしてどうやってそれを役立てるか)」ぐらいのニュアンスだろうと思われる.ついでにいえば,「Priceless」という原題も「お金で評価できないほど貴重だ」というのが本意で,「(公正な)価格などないのだ」という本書の主題とかけた小粋なものだ.


パウンドストーンは「価格」を取り上げるに当たって最初にマクドナルド裁判の逸話を取り上げる.これは有名な裁判で,コーヒーがこぼれてやけどをした女性がマクドナルドを訴えたところ,陪審が290万ドルの賠償金額を評決したというものだ.(このうち270万ドルはいわゆる懲罰的賠償と呼ばれるもので英米法特有の制度であり,日本の裁判で問題になるような損害額の認定ではない)これは陪審の評決後,判事が大きく減額し,さらに最終的には60万ドル以下で和解したとされているが,そもそもどうして最初に290万ドルという数字が出てきたのかが,本書が問題として取り上げているところだ.これは弁護士の見事な法廷戦術の結果であり,「懲罰的賠償を認めるとしたときに公正な懲罰額はいくらなのか」という問題に対して,「1日か2日分のコーヒーの売り上げではどうか」という刷り込みを陪審に行ったことが効いているといわれている.ようこそアンカリングの世界へというわけだ.


いくつか印象的なアンカリングの例をあげた後,パウンドストーンは「ヒトの認知が合理的なものや絶対的なものではないこと」についての様々な分野での知見の集積の歴史を追っている.ここは学説史としてなかなか面白い.


最初は心理物理学.ウェブナー,ホフマン,スティーブンスらによる,ヒトの感覚の尺度が入力強度に対してどうなっているかという問題だ.そこで明らかになったのはヒトは入力信号の強度の比を敏感に感じているということだ.パウンドストーンはこれをスティーブンスのべき乗則だとまとめているが,実際に説明されているのは対数則だと思われる.*2

そこからサイモン,エドワーズの限定的合理性とヒューリスティックス,モーリス・アレによるアレのパラドクス(ヒトの合理性の否定),リヒテンシュタインとスロヴィックによる選好逆転例の提示などの話に進む.ヒトは意思決定に際してごくわずかの手がかりしか使わないし,文脈により選好は移ろい,簡単に矛盾するように誘導できるのだ.

ここでトヴェルスキーとカーネマンが登場する.彼等は限定合理性や選好逆転の背後にあるメカニズムを説明しようとする.そして「アンカリングと調整」「プライミング」「損失回避」「価格の相対性」が見いだされ,後者はプロスペクト理論としてまとめられる.

一方セイラーはフェアネスを調べ,それが自由市場とも,購買力にかかる合理性とも相容れないことを明らかにした.フェアネスの研究は最後通牒ゲームのリサーチ業界における隆盛につながる.膨大なリサーチが積み上がるにつれ,ヒトの公正さの感覚もまた実に文脈に大きく依存していることが明らかになる.


ここでパウンドストーンは,このようなヒトの行動意思決定の不合理性にかかる知見が当時どう扱われたかを簡単にまとめている.主流の経済学者からポストモダン的に扱われたという指摘は面白い.またそのような不合理性が進化で生じたはずはないという反発があったとも記されているが,この記述はやや疑問だ.またパウンドストーンはこのような不合理性は進化環境では問題なかったのだろうとだけコメントしているが,このような不合理性が進化環境でいかに有利でありえたかという問題設定こそ面白い部分であり,浅いコメントで残念だ.進化心理学についてはあまり詳しくないのだろうと思われる.


本書はここから後半部分に入る.後半は様々なマーケティングテクニックと,それがこのような人の意思決定システムからどう説明されるかを扱っている.この部分は身近な話題なので読んでいて大変楽しい.
2キロのステーキを平らげたら無料というキャンペーン,高額おとり商品や低価格おとり商品の展示の影響,レストランのメニューの心理学,スーパーボウルチケットの価格,自動車保険や携帯電話などに見られる複雑で理解できない料金システムの謎,キャッシュバックキャンペーン*3,評価しにくい商品(電池の持ち,洗剤の濃度など),99がつく値付けの謎*4,アンカリングの持つ圧倒的な威力*5,インフレの心理学,フレーミングの威力,交渉場面の性差,個人差,魅力的な人の有利さ,テストステロンやオキシトシンの影響*6,株式市場の心理学*7,芸術品の価格などが次々と語られている.


これでもか,これでもかという価格に関する行動意思決定の非合理性の話をひたすら読んでいくと,だんだん私達の「価格」についての心理にかかる力学がわかってくる.要するに私達は「価格」を何らかの比較においてしか考えられないのだ.私達は,ある「もの」の自分にとっての価値を,絶対的な金額ベースで理解することができないのだ.ある金額の絶対的な価値を考察できないのだ.これこそがヒトの購入行動の意思決定の非合理性に横たわる大きな共通要因なのだ.これはなかなか衝撃的な読書体験だ.
私は,かつて自分に不動産や高級車,高級ブランド商品などの高額商品の価格感がまったくないことについて,それは普段そういうものを購入したことがないからで,いつも購入行動をしている品物の価格帯についてはわかっていると思っていた.つまり個別の書物や家電製品の自分にとっての金額的価値,あるいは1000円や10000円の購買力価値は自分でわかっていると思い込んでいた.しかしそれらについては単に多くの参照比較ポイントを持っているに過ぎないのだ.それをどういう状況下で何とどう比較するかによって私の購入意思決定は簡単に操作・誘導されるのだ.
このことの究極因についてパウンドストーンはあまり語っていないが,それは進化環境に「貨幣」や「金額で表示された価格」というものがなかったことを反映しているのだろう.おそらく私達は文脈に依存した相対価値のみ考えるように適応しているのだろう.これは進化的成功が,同種他個体間での相対的成功に依存するものであることを考えると納得できる.


本書は,これまでの学説史を簡単に紹介してくれていて面白いし,「私達が「価格」をわかっていない」という事実を,リサーチによる知見だけでなく,豊富なマーケティング具体例により圧倒的な説得力で示してくれている.そういう意味でとても面白い読書経験を与えてくれる本だ.
なお蛇足ながら,この知識を得た上で,より誘導されないように慎重に購入行動するか,幸福感も含めて所詮文脈依存なんだからとおおらかに生きるかはなかなか難しいところだ.私は高額商品を除いては後者の方向に傾きつつある.


関連書籍


原書

Priceless: The Myth of Fair Value (And How to Take Advantage of It)

Priceless: The Myth of Fair Value (And How to Take Advantage of It)



パウンドストーンの本は結構訳されている.主なものでは以下のようなものがある..

まず選挙とアローの定理を扱ったこの本.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20080726

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これはかなり古いがゲーム理論解説の本の中では早くに出された本だ.

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なお所用ありブログの更新は1週間ほど停止する予定です.


 

*1:本当にどうしてこんなひどい題をつけるのだろう?本来の知的な本を読もうとする読者を遠ざけてしまうだけではないだろうか

*2:私もよく知らない分野なのだが,どうもウェブナー,ホフマンは対数則を主張し,スティーブンスはべき乗則を主張しているようだ.少なくとも音の強度や高さについては明らかに対数則の方が当てはまっているし,パウンドストーンの本文の説明も対数則的なので,ここの部分が「べき乗則」と説明されているのは不可解だ

*3:アメリカではキャッシュバックキャンペーンは同額値引きより売れ行きが上がるらしい.意外だ.この面倒くささに乗じて請求漏れが生じ,払わないで済むならラッキーという魂胆が見える気がして,(もちろん請求が面倒くさいこともあり)私は大嫌いなのだが

*4:アメリカの実験では,同じ商品に34ドル,39ドル,44ドルの値付けをして無作為実験したところ,39ドルの物が最も売れたそうだ.不思議だ.このなぞはまだ完全に解明されているわけではないらしい

*5:価格査定のプロの業者は自分ではアンカリングの存在を否定するが,やはり逃れられない.またアンカリングがあるなら交渉では先にふっかけた方が圧倒的に有利だが,これもビジネス界ではあまり信じられていない(価格を先に相手に言わせようというやりとりはよくなされる).俳優や野球選手の報酬額の歴史も面白い.

*6:アメリカでは交渉に有利になるようにという名目でオキシトシンスプレーが売られているようだ.これは自分の服に噴霧して相手に嗅がそうとするものだ.パウンドストーンは,これを使っても自分が吸引するだけでむしろ交渉では自分が利他的になるだろうと皮肉っている

*7:市場が効率であればランダムウォークするとしても,ランダムウォークしているから効率的だという逆は成り立たないという指摘があって,背景の論争を思い起こさせてちょっと面白い