Nowak , Tarnita, E. O. Wilsonによる「The evolution of eusociality」 その2


Nowak MA, CE Tarnita, EO Wilson (2010). The evolution of eusociality. Nature 466: 1057-1062.


<Rise and fall of inclusive fitness theory>
Nowak et al.論文の概要と序説の後の最初の節は「包括適応度理論の興亡」だ.


ここでは包括適応度理論の興亡といいながら,興亡の話題は真社会性の進化と半倍数性仮説(いわゆる3/4仮説)に限定している.このあたりもこの論文の牽強付会的なところだ.「包括適応度理論の応用の1つとしての膜翅目昆虫の真社会性進化にかかる半倍数性仮説の興亡」とすべきところだろう.


ここではまず包括適応度理論をR>c/bのハミルトン則として紹介し,これが社会生物学の基礎石の1つになったと評価している.
このあと,この論文では,「しかし最初にそれが受け入れられた契機になったのはハミルトンがそれを半倍数性仮説として真社会性の起源の説明に用いたからだ.」という言い方になっている.

Due to its originality and seeming explanatory power, kin selection came to be widely accepted as a cornerstone of sociobiological theory. Yet it was not the concept itself in its abstract form that first earned favour, but the consequence suggested by Hamilton that came to be called the ‘‘haplodiploid hypothesis.’’

これは衡平を欠く評価ではないかと思う.包括適応度理論の初期の成功は決して膜翅目昆虫の真社会性の起源を半倍数性から説明できた(と当時考えられた)ことだけによるものではない.多くの分野でこの理論は成功してきた.もっとも美しい例には局所的配偶競争を巡る性比問題の解決がある.この論文は包括適応度理論を攻撃しながら局所的配偶競争についてはまったく触れていない.あまりに狭量な物の見方で支持できないところだ.


論文は続いて真社会性の進化について3/4仮説が支持を失い放棄されたとある.(3/4仮説が完全に放棄されたかどうかはやや微妙だが)確かに3/4仮説だけで真社会性の進化ができないことは広く認められるようになった.
この論文では.そもそも倍数体生物の真社会性が説明できないとか,膜翅目昆虫でも真社会性にならない種があることが説明できないことが要因とされている.
しかし,シロアリが倍数体で真社会性であったことも,膜翅目昆虫のすべてが真社会性であるわけではないことも,最初から十分理解されていた.*1 生態要因も大きな影響があることは当然の前提の上で,何故膜翅目昆虫に真社会性が多いのかを説明する仮説だったはずだ.そういう意味でウィルソンのこの書きぶりはここでも疑問の残るものになっている.
私の理解では,この仮説が支持を失っていった上での大きな要因は,確かに(単一オス交尾の場合)ワーカーとその姉妹にあたる繁殖メスの血縁度は3/4になるが,兄弟の繁殖オスとの血縁度は(ワーカーから見て)1/4になってしまう,そして性比をワーカーが操作できるなら血縁度はワーカーにとって利他行為を行わなければ不利になる制約にはなり得なくなるという理解が広がったことだ.
(しかしそれでも何故膜翅目昆虫に真社会性が多いのかについて,より緩い生態条件のなかで進化しやすかったことを説明できるという意味でこの3/4仮説はなお完全に放棄されているわけではないようにも思う.)


しかしいずれにせよ,これは3/4仮説の失敗であって,包括適応度理論の失敗ではないことに注意しなければならない.この論文ではそこが(意識的にか無意識的にか)あいまいにされている.


なお論文はここで面白い指摘をしている.それは傍系の血縁による利点を打ち消すような淘汰圧がグループ間に働くということだ.それはコロニーレベルでは遺伝多様性が利点になるという現象で,病原体に対する耐性に関連してアリで確かめられているそうだ.
遺伝的多様性が小さいとコロニーとして絶滅しやすいという性質は血縁淘汰では扱いにくそうだ.よく考えてみると,これは近交弱勢と同じようなことで,いわゆる非相加的な性質(優性,シナジー,エピスタシスなど)の問題だ.
だから包括適応度(包括適応度は様々な経路を通じた影響を足し合わせる計算を行うので相加的な遺伝要素を扱う理論になる)では扱えない*2,しかし包括適応度を用いたモデルに非相加的要因として組み込めないわけではないように思う.(きちんと考えたわけではないが,これをモデルに組み込むにはマルチレベル淘汰的なモデルに組み込む方が直感的にわかりやすくなるかもしれない.私の立場は,包括適応度でもマルチレベル淘汰でも使いやすい方を使えばいいというものだから,もしマルチレベル淘汰モデルの方がわかりやすくなるとするなら,マルチレベル淘汰モデルの方が適切なことがあるということになるだろう)


次に論文は包括適応度理論は,真社会性の進化の問題に対して40年もメジャーなフレームであった割には乏しい結果しか生みだしてこなかったと指摘している.逆に理論にとらわれなかった実証的なリサーチエリアではカースト制の詳細,コミュニケーション,コロニーの生活史,そして個体淘汰,コロニー間淘汰を前提にした多くの現象という豊富な結果が生みだされたと評価している.そしてこれらの成果は包括適応度とは何の関係もないと語気は鋭い.これは3/4仮説というよりも包括適応度理論についての批判ということになるだろう.

During the same period, in contrast, empirical research on eusocial organisms has flourished, revealing the rich details of caste, communication, colony life cycles, and other phenomena at both the individual- and colony- selection levels.

Almost none of this progress has been stimulated or advanced by inclusive fitness theory, which has evolved into an abstract enterprise largely on its own.


このリサーチの成果物にかかる評価の部分については,私には論評する能力がない.大御所のウィルソンが成果はプアだと評価するというのだから,それはそういうことなのかもしれない.
しかしこれは包括適応度理論に何か問題があったからなのだろうか?論文ではこの後で,リサーチャーの不適切な方法論や誤解を批判しているのだが,もしそういうことで成果が得られなかったとしたなら,それは包括適応度理論がいけないというより,リサーチャー側に問題があるということにならないのだろうか?


3/4仮説の理論的な問題についていえば,当初1964年にハミルトンが考えたほど問題が単純でなかったことは上記の私のコメントの通りだが,ハミルトン自身この問題の複雑さには気づいており,1972年の「Altruism and related phenomina, mainly in social insects」という論文*3で,近交係数を入れた形に血縁係数を定義し,性比の決定と合わせて詳細に議論している.結局真社会性の進化は性決定様式,生態要因に加えて,性比を誰が決めるか,交尾回数,近親交配頻度などが絡んだ複雑な問題であることが十分論じられており,これらの諸要因を考慮した上で,包括適応度をモデルに入れ込むことが理解の阻害になるとはとても思えないというのが正直な感想だ.


結局,この文章からは E. O. Wilsonの怨念にも似た強い思いが感じられる.
E. O. Wilson 自身は自らアリのスペシャリストを自負していたときに,ハミルトンの包括適応度と3/4仮説を扱った1964年の論文を読んで非常に衝撃を受けたことを1994年の自伝「ナチュラリスト」で語っている.そこでは1965年のある日,ボストンからマイアミへの長い鉄道の旅のなかで論文を読み始め,最初は「そんな馬鹿な」といいながらマイアミに着くころにはすっかり改宗し,パラダイムシフトを体験したと述べている.(邦訳「ナチュラリスト」下巻443ページ以降)この執筆時点ではウィルソンは包括適応度理論を非常に強く支持していたのだ.その後どこかで,結局真社会の進化をこの3/4仮説だけでは説明できないことに失望し,当初の熱狂が逆回転してしまったのだろうか.


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*1:これはE. O. Wilson自身,最もよく理解した上で包括適応度理論を支持していたはずだ

*2:この包括適応度が相加的な遺伝要素しか扱えないという問題は次節の数理的なモデル批判のところで主要な論点の1つになる.私の感想もそこで述べよう

*3:W. D. Hamilton, Altruism and related phenomina, mainly in social insects, (1972) /Narrow Roads of Gene Land/ Vol 1, 270-313