「頭のでき」

頭のでき―決めるのは遺伝か、環境か

頭のでき―決めるのは遺伝か、環境か


「名誉と暴力」でアメリカ南部の文化を適応的に説明した社会学者ニスベットによるIQについての本である.原題は「Intelligence and How to get it: Why Schools and Cultures Count」*1 主な内容は,一部の極端な論者による「IQがほぼ遺伝で決まる」という主張が誤りであること,そしてどのような環境要因がIQの個人差に効いてくるかというものになっている.そういう意味では,本書は副題にあるように「遺伝か環境か」という二者択一的な立場に立っているわけではない.遺伝「も」環境「も」効いているという当然の前提に立っているが,「遺伝でほとんど決まる」という誤解を正すために,環境要因を特に強調している書物ということになる.
もっとも一歩引いて著者のスタンスを考えると,世の中には「すべて遺伝で決まる」という誤解のほかに「すべて環境で決まる」という誤解もあり,どちらも間違いなのだが,ニスベットは特に前者の誤解のみを標的にして本書を執筆している.そういう意味では本書はかなりリベラル寄りの環境要因を強調した書物だということになる.


本書の論評に入る前に,IQの遺伝率についての行動遺伝学的な知見に関する私の理解を整理しておこう.

先進国における多くの双生児,養子研究において示されることは以下の通りである.

  • IQの遺伝率はおおむね50%程度であり,これはその他多くの行動特性と同程度である.
  • 残りの50%は環境要因ということになるが,そのうち共有環境要因(家庭要因)は10%程度と小さい.
  • 成人するにつれて遺伝率は上昇する.これは遺伝的にある程度決まる選好により自分で環境を選ぶようになることや,年齢が上がってはじめて発現する遺伝形質があることなどから説明されている


さて本書ではIQとは何かという説明に続いて,IQの個人差について環境要因も効いていることを様々に主張している.様々な角度から議論されているが,私の理解では主な論点は次の2つである.

  • IQについて遺伝にかかる寄与が75〜85%と主張する極端な遺伝論者がいるが,それは誤りであり,遺伝率はおそらく50%以下である.
  • 遺伝率の意味するところを世間は誤解している.そのデータの元になった環境の分散が小さければ,表面的な遺伝率は大きくなるが,そのことは環境要因によって目的変数が変わらないことを意味しない.


前者はデータの解釈の問題であり*2,ニスベットのいう通りだろう.後者は「遺伝率」についての基礎知識の問題で,しばしば指摘されているところだが,やはり陥りやすいところなのだろう.
簡単に言うと環境差が全くないところでデータをとると,目的変数の差はすべて遺伝によって説明されるので遺伝率は100%になる.しかしそのデータの外側にあるような環境要因に目的変数が影響を受けるかどうかは,そのデータから何も言うことができないということだ.それは遺伝的多様性のない集団でデータをとると遺伝率が小さく現れるのとちょうど逆の現象だ.*3


IQリサーチの文脈でいうと,ニスベットが特に強調しているのは,現在の双生児,養子研究では,通常の中流家庭が対象であり(特に養子研究では,養子をとるような家庭は中流であることが通常),極端な貧困家庭が与える環境要因が過小評価されているということになる.ここは確かにデータを解釈するときに注意を払うべきところだろう.


ニスベットはさらに,共有環境による寄与が10%しかないという議論にも強い疑問を投げかけている.もっともここは何を念頭に議論しているかに依存している部分であり,「通常の中流家庭でどのような教育をすればいいのか」という問題についてはこの10%という数字は大きな意味を持っているということだろう.しかし極貧の家庭と中流家庭の与える影響差(これはアメリカの人種を巡る議論においては重要になる),あるいは教育システム全体のデザインの善し悪しを議論するに当たっては,この数字から議論することは妥当ではないということになろう.


本書の後半では,「実際にどのような環境がIQに大きな影響を与えるか」「特に文化的な要因はどのような影響を与えるか」についての記述になっている.


ニスベットの主な主張は以下の通りだ.

  • 学校は明らかに人を賢くする.
  • 学校を含む教育システムをどうすればより効率的にできるかについては(無差別実験が困難なため)なおよくわかっていない.しかしいくつかのヒントはある.特に貧困層の未就学児童に対する指導はよい影響を与えるようだ.
  • フリン効果(IQが時代とともに上昇する傾向があること)は環境によりヒトのIQが大きく影響を受ける強い証拠だ.なぜ時代とともにIQが上昇するのかは明らかではないが,テレビやゲームを含む大衆文化とIQテスト項目の親和性が1つの説明になる.
  • 貧富の差は明らかにIQに影響を与える.アメリカは先進国の中で経済格差が大きいのでこれは重要だ.
  • 人種間のIQ差はほとんどすべて環境要因で説明できる.アフリカ系の人々の間で,ヨーロッパ系の血統の濃さとIQの間に,(人種差があるとするなら見られるはずの)相関が見られないことはその良い証拠だ.


人種問題については当然ながら詳しく議論されている.いくつかのことがらについてはなかなか衝撃的な事実も記されている.

  • アフリカ系の男性は,雇用者から信頼できないと思われているために雇用市場に不利に取り扱われており,それが勉強意欲を失わせる原因になっている.(このような雇用差別はアフリカ系の女性ではそれほど強くないので,アフリカ系の中では女性の方が高い教育を受ける結果となっている)
  • アフリカ系の少年間には勉強をしようとするものへのいじめがあり,それが悪い影響を与えている
  • かつてアイルランド系移民については(北部において)アフリカ系より強い差別がなされていたが,南北戦争の結果,北部に大量の貧しいアフリカ系の人々が流れ込み,アフリカ系に対するより強い差別が生じることになった.
  • 西インド系の人々は(もともとはアフリカ系だが)西インド諸島において人口の中に占める奴隷数が多かったために自作農的な文化が生じ,それが勤労意欲,向上心を生み,より貧しい状態で米国に入国しているが,比較的成功している.


本書はさらにアジア系とアシュケナージ系のユダヤ人がなぜ数学の成績が良かったりIQが高かったりするのかを扱っている.ここは文化差がどのように生まれ,どのような影響を与えているかというニスベットの興味がよく現れているところだ.
アジア系については,勤勉を尊ぶ風潮,家族のためにがんばるという意識がIQを高める方向に働いているという議論になっている.(このほかにもアジア文化とヨーロッパ文化の違いとして,包括的な思考習慣と分析的な思考習慣とか,形式論理と個人主張の強さなど,様々な蘊蓄が語られていて面白い.もっともこの部分は前半と違ってあまりデータ的に整理されているわけではない)
ユダヤ人については,まずアシュケナージ系は高IQで知られるが,セファルディ系はそうではないとして,遺伝による説明が成り立たないことを主張している.アシュケナージ系については教育の重視,家族の結びつきなどを文化的要因としてあげている.
またニスベットはここでコクランとハーペンディングユダヤ人の高IQが自然淘汰の結果だという主張につよく反論している.コクランたちはアシュケナージ系がセファルディ系と分かれた後の職業選択の拘束とそこにおける有利性にかかる自然淘汰を問題にしている.ニスベットの反論はそのスフィンゴ脂質という至近的なメカニズムの示唆のところに拘泥しており,自然淘汰部分については反論らしい反論にはなっていない.証拠がないというのはその通りだが,それは環境要因説にとっても同じだし,いずれにせよ仮説としてはなお生きているということになろう.全体として議論はかみ合っていない印象だ.


本書は最後に,子供を育てる際の実践的アドバイスを行い(運動の効果,流動性知性発達のための訓練,自制心,知性は努力で変えられるという信念の重要性などが書かれている)知能が遺伝で決まってしまうと勘違いしないように強調している.


本書は環境要因をひたすら強調するというやや偏ったスタンスで書かれているが,基本的にはデータ重視であり,内容自体におかしなところはない.実際に「知能が遺伝だけで決まってしまう」と勘違いして勉強意欲をなくしてしまうということがあるなら,それは本人にとっても社会にとっても大きな損失だという背景も合わせて考えるとこのスタンスもある程度は理解できるものだ.
しかし,実際あまりにリベラル的な価値観が前面に出ていて,やや鼻白む部分がないわけではない.*4 この手のリベラルむき出しの主張を読んでいるといつも思うのだが,「知能が環境だけで決まってしまう」と勘違いしても,やはり「どうせ我が家は貧乏だから」とあきらめて勉強意欲をそぐということにはならないのだろうか.

実際には少なくとも中流家庭におけるデータではIQ,そして多くの行動特性の遺伝率は50%程度ある.つまり遺伝も環境も両方ともに重要なのだ.そしてニスベットが強調しているように「遺伝率」を誤解してはならない.「遺伝率」で表されている数字の意味をよく考え,データにおける,遺伝多様性,環境の分散を十分踏まえて様々な議論を行うべきだということになるのだろう.このあたりをよく踏まえて読めば本書はなかなか含蓄のある書物だとも言えるだろう.

なお私にとってはデータ重視で(衣の下のリベラル的価値とともに)武装している前半よりも,文化差を扱った後半のほうが,ある程度自由に書かれていて,読んでいて楽しかった.



関連書籍


原書

Intelligence and How to Get It: Why Schools and Culture Count

Intelligence and How to Get It: Why Schools and Culture Count


ニスベットの本

名誉と暴力: アメリカ南部の文化と心理

名誉と暴力: アメリカ南部の文化と心理

  • 作者: リチャード・E・ニスベット,ドヴ・コーエン,Richard E. Nisbett,Dov Cohen,石井敬子,結城雅樹
  • 出版社/メーカー: 北大路書房
  • 発売日: 2009/04/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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アメリカ南部の文化にかかる本.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20090707



一万年の進化爆発

一万年の進化爆発

コクランとハーペンディングによる人類の最近の進化を扱った本.この中でアシュケナージユダヤ人の高IQが自然淘汰の結果であるという議論がなされている.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20100717

*1:それにしても邦題のつけ方はもう少しどうにかできなかったのだろうか

*2:同じ家庭に育った一卵性双生児のIQの相関が0.85,別の家庭で育った一卵性双生児の相関が0.75ということからそう主張されていると説明されている.おそらくこの論者たちも「遺伝率」という言葉は使っていないのだろう.同じ家庭で育った二卵性双生児の相関は0.60程度だから,普通の計算では遺伝率は0.50前後になるはずだ

*3:例えば,普通のヒトの集団で手の指の数の遺伝率を計算すると,多指症などの遺伝的な現象よりも事故などによる欠損の方が多いので遺伝率は非常に小さな値になる.しかし5本という形質が遺伝で決まっているのは疑いないところだ

*4:グールドの「人間の測り間違い」の現代版と言えるだろう