Nowak , Tarnita, E. O. Wilsonによる「The evolution of eusociality」 その29


Nowak MA, CE Tarnita, EO Wilson (2010). The evolution of eusociality. Nature 466: 1057-1062.


<Groupselection is not kin selection>
Supplementary Information,Part A "Natural selection versus kin selection"


West SA, Griffin AS and Gardner A (2008) Social semantics: how useful has group selection been? J Evol Biol 21, 374-385.


グループ淘汰理論に統一されたフレームがなく,さらに何が「グループ淘汰」かの概念化がはっきりせずに「信仰」になってしまっているという極めて厳しい批判の後,Westたちは利他行為とグループ淘汰についてさらにコメントしている.

  • Wilsonは「利他主義(altruism)」ということばを多義的に使うこと(自分で好きな意味に使ってよいという意味だと皮肉っぽい但し書きがある)の正当性を主張する.*1 Wilsonによると「利他主義」は意図的な意味が込められていて擬人主義を避けるために多用された歴史があるからだという.
  • しかし意図的な用語をなぜ使ってもよいかというと,それは自然淘汰が包括適応度最大化のデザインを選択するからであり,そのために血縁個体に対して協力するようになるからだ.だから直接,間接の適応度効果を分析するフレーム内で,包括適度最大化のために血縁個体に協力する行為を「利他的」と呼ぶことが正当化されるのだ.しかしグループ内の淘汰圧とグループ間の淘汰圧の分析フレーム内で,グループ間の淘汰圧に適合する行為を「利他的」と呼ぶのは,よくいってinformalであり,混乱を生むだけだ.
  • Wilsonは「利他主義」を含む様々な用語のグループ淘汰理論における多義的な使い方の正当性を主張している.しかし正当性の根拠としてあげられている引用の多くはHamiltonの理論の提唱の前のものだ.そして都合のよい引用はミスリーディングな印象を与えるものになっている.(この後に文脈を無視した我田引水的な引用の例がいくつかあげられている)


このあたりはことばの使い方のスロッピーさに対する文句であり,理論にとっての本質的な問題ではないだろう.しかしお互いに相手のことばの使い方に文句をつけているのはよくよく論争のnasty差を示しているように思われる.


Westたちは問題は過去誰がどう言ったかという引用で解決されるべきものではなく,実際の生物学的な現象をどううまく説明できるかどうかにあるはずだと主張しTriversの発言を紹介している.

I do not care whether at their annual convention 900 howling group selectionists endorse Unto Others in its entirety or whether the only true believers are a deeply repentant W.D. Hamilton and a devout monk lost somewhere in the Himalayas. I want to understand the matter for myself.

Trivers, R.L. 1998. Think for yourself. Skeptic 6: 86–87.

Hamiltonと並ぶ独創的なevolutionary thinkerであるTriversのグループ淘汰にかかる見解(あるいは嫌悪感)がわかってなかなか興味深い.「900人の咆哮するグループ淘汰論者」とはなかなか.


Westたちは最後に結論をまとめている.

  • 包括適応度理論とグループ淘汰理論は単に等価な理論の2つの側面に過ぎない.
  • しかし実務的には包括適応度的アプローチは,自然界を理解するためにより広く適用可能なツールである.それは使いやすく,実際の生物学的現象にリンクしたモデルを構築しやすい.そして検証可能な分析をより容易にし,一般的なoverviewも得やすいのだ.
  • グループ淘汰理論は使いにくいだけでなく,混乱を生み時間の無駄を作りやすい.
  • だから以下のような現象が生じている.(1)グループ淘汰理論にかかる議論にはごく一部の理論家しか参加しない.そしてその論争も単純なモデルにとどまり複雑なモデルは議論にならない.(2)検証可能なモデルはほとんど包括適応度理論から生まれている.(3)実務的生物学者は,グループ淘汰理論のパラメータよりも包括適応度理論のパラメータ(血縁度)に興味を持つ.
  • グループ淘汰理論はよく言って,潜在的には有益たり得るが,informalで,いくつかの問題を概念化できるが,それ自体が一般的な進化的なアプローチにはなり得ないものだ.

これがグループ淘汰に絡む議論の大筋ということになろう.私の感想は以下の通りだ.

  • 論争自体は「古いグループ淘汰」の定義の食い違いを巡るすれ違いと,専門用語の使用法にかかるつまらないやりとりが半分で,その部分はあまり興味深いものではない.
  • 残りの部分は「新しいグループ淘汰理論」と包括適応度理論が等価であり,多元主義をとるとした場合に,どちらの理論が有用で生産的かというものだ.この部分では包括適応度陣営の主張が圧倒的に強いだろう.
  • この問題は,ハミルトンが,1970年代にプライスの共分散方程式に触発されて,包括適応度を拡張しマルチレベル淘汰も扱えるように理論的に整理したものだ.これは今から考えると当時の時点で突出した業績だったのであり,オクスフォードの理論家たちを除いてなかなかほかの学者たちがこれに追いつけず*2,これが混乱の大きな部分を作っているように思われる.
  • そしてD. S. Wilsonはグループ淘汰が包括適応度理論と等価であるとは思わずに論争を始めた.論争途中でそれが等価であると知らされたあとも引き続きその有用性を主張してがんばったのだろう.
  • しかし理論が等価であるとはっきりしたなら,当然あとはどちらが有用で生産的かという実質的な問題になる.
  • ほとんどのリサーチャーは包括適応度理論を用いた.なぜならグループ淘汰理論は統一性がなく,協力行為の進化はともかく性比の進化やコンフリクトが絡んだ状況はモデル化しにくかったからだと思われる.そして包括適応度理論のフレームにおいて多くの洞察が得られた.
  • 一方で包括適応度はTaylorやFrankにより洗練度を高め,偏回帰を用いた分析がエレガントに行えるように整備された.
  • (その状況に焦ったのだろうか)Wilsonは哲学者Soberと組んでグループ淘汰擁護を行うが,それは理論の有用性を実証する努力ではなく,因果の実在性という哲学的な議論を持ち出す形でなされたのであり,その筋悪さは普通の数理生物学者からは見苦しく見えただろう.
  • (これは私の偏見かもしれないが)Wilsonのがんばりの動機には宗教がよいものであるという主張を行いたいというものがあり,そのために血縁淘汰よりグループ淘汰という形式にこだわり,因果の実在性まで持ち出しているような気配がある.そしてそれがこの論争に怪しい影を投げかけているように思われる.
  • そして少なくともNowakたちによるNature論文は,新しいグループ淘汰のformalでない妙な変種を持ち出して,このややこしい論争に茶々を入れているのだが,論争の中心部分からはかなり外れたところを扱っているだけだ.

*1:この引用論文も2007年のWilson &Wilsonの論文だ.

*2:たとえば前回の論争を読むかぎりNowakやその弟子たちはつい最近まで包括適応度の拡張について知らなかったように思われる.