「ダーウィン入門」

ダーウィン入門 現代進化学への展望 (ちくま新書)

ダーウィン入門 現代進化学への展望 (ちくま新書)


本書は2009年のダーウィン生誕200周年,「種の起源」出版150周年のダーウィンイヤーに遅れること2年で出版された斎藤成也によるダーウィン本である.中立論から見た「種の起源」という切り口が本書の読みどころということになろう.


まず最初にダーウィンの生涯が簡単に語られる.ビーグル号航海記を読み直してみた感想はなかなか面白い.またダーウィン死後の重要な出来事としてダーウィンカレッジとダーウィン産業をあげているのもなかなか独特だ.
この後ダーウィンまでの生物学,進化思想の流れが概説されている.(ダーウィンと異なり)ウォーレスは「自然淘汰が進化の唯一のメカニズムである」という主張をしているので,進化の新総合説と同じ誤りを犯していると非難しているところがいかにも斎藤らしい.*1 


この予習の後いよいよダーウィンに取りかかる.最初に用語の整理.natural selectionの訳語として「自然選択」ではなく「自然淘汰」を使うのは有害な突然変異が取り去られる負の動きの方がはるかに多いからだという説明はいかにも分子遺伝学者らしい.また「適応」という言葉は中立突然変異よりずっと頻度の低い正の自然淘汰があったかどうかを検証した上でなければ使うべきでないとも断っていてこのあたりもいかにも中立論者の斎藤らしいところだ.


ここからは「種の起源」への注釈になる.斎藤はダーウィンの評価としてまず自然神学や心身二元論を乗り越えたところを評価している.冒頭で「種の起源」に用いられたエピグラフが自然神学の本だったことについての考察がなされていてなかなか凝った作りになっている.
次は「種の起源」の冒頭にある家畜栽培植物の人為淘汰について現在の分子遺伝学の知見を紹介している.ウシの分子系統樹は家畜ウシの原種が2系統あったことを示していてなかなか興味深い.ダーウィンが特に詳しく言及したハトの各品種の分子系統樹は入手できなかったようでちょっと残念だ.
種と変種が厳密に区分できないことについてはマウスの近縁種,亜種間について分析すると異なる遺伝子では異なる系統樹になることを示している.


さてこの後は中立論者から見た自然淘汰に関する章になる.まず生存競争についてだが,ダーウィンは生存競争が存在することを説明しようとして,生物が自然増加率のまま増えていけば,その増加は指数関数的になるので厳しい生存競争が不可避であると議論している.斎藤は「急速に個体数が増加する場合は遺伝的にクローンに近くなるので自然淘汰が働きにくくなる」と指摘し,この記述振りに疑問を呈している.私には斎藤は自然淘汰の主張についてのあら探しで頭がいっぱいになって議論のポイントを見失っているように思う.ここでダーウィンは「急速」さを主張しているのではない.単に同種個体間の競争が不可避であることを説明しているだけだ.確かにダーウィンはどこから変異が生じるのかを説明できなかったが,それがあるのは観測で明らかだったということではないかと思う.
次の「自然淘汰」についての章ではこの斎藤のスタンスはさらに強くなる.ダーウィンは中立進化をまさに認めているような記述を行いつつ,大きな累積的な進化については自然淘汰を重要視しているのだが,斎藤はこれを(中立進化をもっと重要視すべきだったと)残念がっている.しかし表現型の累積的な進化を考える上では自然淘汰を重要視するのは当然のことだと思われる.(ここは斎藤独自の表現型形質進化の中立説にも関わるところだ)
なお斎藤はここでトビウオの海上の飛翔について「これは遊んでいるように見えるから適応というより中立進化だろう」といっているが,私には論旨も結論もまったく理解できない.このようなスロッピーな議論を検証なしに行ってもいいが適応を主張するなら検証が必要だと主張するのはかなり強烈なダブルスタンダードに思えるところだ.
また斎藤は性淘汰について無性生殖をする生物を含めて考えると重要性が少ないと切って捨てているが,全体の分子進化の中の頻度の問題と興味深い形質の進化の問題の重要性をすり替える議論はいかがなものかという感じがする.
ダーウィンの種分化の議論は同所的な種分化をいかに自然淘汰で説明できるかと言うところに重点が置かれている.斎藤は種分化は異所的な方が圧倒的に多いことからこの説明振りに疑問を呈している.しかしダーウィンは広い大陸である程度モザイク状に種が分布していることについては自説の弱点のひとつであり,だからこそ丁寧な説明が必要だと考えたからそこにこだわっているのだと思う.


続いて「自説の弱点」についての章.斎藤は(ドーキンスのいう)「想像力欠如の反論」について,ダーウィンは片方で漸進的に変化したと考えられる筋道を示し,続いて適応が完全でないこと(水に滅多に入らないグンカンドリに水掻きがあり,カイツブリに水掻きがない例など)を取り上げてそれが(創造論に対して)自然淘汰の証拠になるという議論を行っている.ここでの斎藤のコメントは前半について偶然による中立的進化を(証拠もなく)適応と強弁していると批判し,後半については表現型が環境に対応していない例を持って自然淘汰の主張にするのはおかしく,これは中立進化だと考えるべきだと批判している.ここは斎藤の表現型中立進化仮説による強引な批判であり,私には受け入れがたい部分だ.特に後半部分は,ダーウィンの「神による創造から予想される完璧さ」に対する「適応の不完全さ」という議論の流れを見失っているように思われる.ダーウィンがここで主張しているのは,現代的にいうと,材料になる変異の存在にかかる偶然や,適応地形上のトラップ,適応にかかる時間の不足によって自然淘汰が効いていても不完全さは生じうるという議論であろう.
またこの後で単純な構造から複雑な構造が生じる累積的な進化がすべて正の自然淘汰の結果であるとは思えない根拠として,原核生物が世界中にはびこっているのに対して多細胞生物が脆弱に見えることをあげている.このあたりも理解しがたい主張だ.斎藤は「正の自然淘汰の結果=進歩・改善」という誤謬に落ち込んでいるように思われる.
最後に斎藤は「種の起源」について,生物進化があったことについて説得力のある議論をしているが自然淘汰については十分な論拠を示せていないとまとめている.適応の主張について一方的に厳しい検証基準を要求する斎藤らしいまとめ振りだ.


この後は「種の起源」以外のダーウィンの様々な業績が取り上げられている.ビーグル号で発見した大型ナマケモノについて,最近古代DNAの分析によりフタユビナマケモノの近縁であることがわかったと紹介されている.ランの研究について,斎藤はダーウィンは他家受粉の存在を示すためだったとしている.私は送粉にかかる共進化に注目していたのだろうと思っていたのでちょっと面白い指摘だ.また植物の膨大な交雑実験を行ってもメンデルの法則を発見できなかったことについて,検証すべき仮説を持たなかったからだろうとも指摘している,この指摘も興味深いところだ.


本書の後半はダーウィン以後の世界についてになり,斎藤による中立説の説明と擁護になる.このあたりは前著「自然淘汰論から中立進化論へ」の主張とほぼ同じものだ.中立説の簡潔な説明と並んで,私のような「淘汰主義者」にとっては違和感の強い独善的な自然淘汰への攻撃が繰り返される記述になっている.
私の斎藤説についての詳しい印象全般は前著の書評に譲るとして,ここでは簡単にコメントしておこう.

  • 現在の進化学は(分子進化の)中立説を取り込んでいる.しかし斎藤は本書でも(分子進化の)中立説を認めない自然淘汰主義者がまだいるかのように攻撃を続けている.これはありもしないかかしを仕立てる議論によく似ていてミスリーディングだと思う.
  • 本書では特に「異所的種分化は,隔離が偶然に起きたのであるから,その後の進化は中立進化だ」と強く主張されている.しかし隔離の原因自体が偶然(適応度と無関係)であることと,その後異なる環境に異なる適応が生じたことは排他的な問題ではない.この斎藤の議論はまったく納得できない.そして斎藤の主張は前著にもましてグールドに近くなっている.
  • 表現型の進化について適応か中立進化かは検証されるべき問題だという斎藤の主張には同意するが,表現型に影響を与える進化が生じていても適応度に影響を与えなかったことの方が多いという予想には同意できない.少なくとも(私にとって興味深い)機能を持つ累積的な表現型進化をなぜ(方向性を持たない)中立進化だけで説明できると考えるかについては前書でも本書でも説明がなく,説得力のないものになっている.


本書は中立論者から見たダーウィンということで,ところどころの指摘にはなかなか面白いものもある.しかし全体としてはやはり斎藤独自の表現型中立進化仮説の毒気の強い本になってしまっている.一般向けの新書という体裁なので,特にそのあたりを踏まえて読むべき本だということになるだろう.



関連書籍


自然淘汰論から中立進化論へ―進化学のパラダイム転換 (叢書コムニス10)

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前著 私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20100216

*1:斎藤はここで「ウォーレスが後年経済的に困窮したときに,お金持ちのダーウィンが金銭的な援助をしている」としているが,これは誤解されかねない言い回しだろう.ダーウィンは直接金銭的援助したのではなく,ウォーレスの英国政府からの年金(恩給)の受給資格獲得のために力添えをしたのだ.