「Why everyone (else) is a hypocrite」 第1章

Why Everyone (Else) Is a Hypocrite: Evolution and the Modular Mind

Why Everyone (Else) Is a Hypocrite: Evolution and the Modular Mind


本書は気鋭の進化心理学者ロバート・クツバン*1によるヒトの心のモジュール性についての本である.
標題は「なぜ誰もが偽善者なのか」ということだが,“(else)”が入っているので,(そして誰もが「自分だけは違う」と感じているのだが)というニュアンスがあるのだろう.つまり本書の真の疑問は,「ヒトはみな偽善者なのだが,それを自分で気づかないのは何故なのか」ということだ.クツバンはこの疑問を心のモジュール性から説明しようとしているのだ.


まず謝辞において,自己欺瞞のワークショップをトマス・シェリングやロバート・トリヴァースを招いて行った経験と,それが心のモジュール性で説明できることに気づいた経緯が語られている.そして多くの社会科学者は進化的説明にアレルギーがあって,そのためにモジュラリティにコミットするのを嫌がるのだとコメントされている.モジュラリティまで反リベラルと思われるということになるというのもちょっと驚きだ.


続いてプロローグでフィラデルフィアとカリフォルニアでの横断歩道の渡り方の違いが解説されている.クツバンはペンシルバニア大学にいるので,フィラデルフィアに住んでいるのだが,彼によると,フィラデルフィアでは歩行者が車に気づいているときには歩行者が止まると期待されるので自動車は止まってくれないが,カリフォルニアでは歩行者優先で歩行者が渡ろうとしていれば自動車は止まるのだそうだ.するとフィラデルフィアの歩行者は道を渡る時には自動車に一切気づいていないふりをした方が安全になる.
クツバンはこの話を,相手が自然と異なってヒトの場合には無知であることが有利になり得る,ヒトの社会では合理的だったり正しかったりすることが不利になり得るのだとまとめている.これはコミットメント問題でもあるし,自己欺瞞の起源に絡む部分でもあるということだろう.


第一章は「Consistently Inconsistent:一貫して非一貫」と題されている.


本章ではヒトの心が多くのモジュールからなっていることを大づかみに提示しようという章になっている.クツバンはこのモジュールについてiPhoneのアプリのようなサブルーチンだと説明している.そしてこれらのモジュールがどう働いているかは自分ではわからないものであることも指摘される.

そして心が多くのパーツからなり,自分では気づかないことから,ヒトは統一体として調和しているわけでなく,思考や行動の矛盾,偽善が説明できる,またどうしてそうなっているのかは自然淘汰による進化適応という視点から考えると理解できるというのが本書の主題になると予告している.

さらにこのモジュールはそれぞれ「自身」であるといってもいいと主張する.ここはこれまでモジュールについてあまり強調されることのなかった視点であり,面白い.そしてなかなか思い切った言い回しだ.


ここからクツバンは懐疑的な読者のためにそうとしか解釈できない具体例を挙げ始める.


1.脳梁切断患者.
右脳と左脳を結ぶ脳梁を切断した患者は,右目と右手と言語を司る左脳と,左目と左手を司る右脳で別人格のように回答する.これは有名な例だが,ここでの強調点は,一個人であっても単一の「心」を持つ統一体ではないということが普通に生じるという点だ.*2


2.幻肢
脳の一部は既になくなった腕があると考えているが,残りの部分はそう考えていないと解釈すると最もよくこの症状を理解できる.


3.エイリアンハンド症候群(他人の手症候群)
片方の手が自分の制御下にないと感じる.場合によっては別の人格に制御されていると訴える症状が現れる.これも脳の一部が片方の手を制御し,言語を司っている部分は制御に関わっていないと考えると最もよく理解できる.


ここまでのクツバンの説明でなかなか衝撃的なのは,「言語を司っている部分が正しくて(あるいは統一体としての個人を代表していて),症状は病的なものだ」と考えるべきではないということだ.あくまで脳の一部と別の一部が統一されていないだけで,そのうち片方がたまたま言語をコントロールしている(そしてその「部分」の立場から見た意見を言語で訴える.)という状況でしかないから,そちらが正しいとか合理的だとか本来の人格だとか考える理由はないということだ.つまり脳の中に「人格」が複数あってそのうちひとつだけがしゃべることができる(そしてそれ以外の「人格」も意見を持っているかもしれないが,言語を司っていないので外部に説明できない)と解釈する方が状況に合っているということだろう.これはエイリアンハンド症候群の患者では,実際に右手と左手が争うことがあり(例えば片方の手は服を着ようとして片方の手が脱ごうとする),言語では片方の手をののしるという事態をより良く説明できるのだ.


4.錯覚,錯視
錯覚も脳の一部はあることを信じ,別の一部はそうでないと考えていると捉えるとよりうまく理解できるとクツバンは主張している.ここの議論は結構細かくて,様々な錯視の例を示しながら,言語や意識的判断を行う脳に与えられた情報で視覚処理を行う脳が影響を受ける場合と受けない場合があることなどを論じている.


5.冷蔵庫の鍵
ダイエット中の人は,寝る前に「夜中にアイスを食べない方がよい」と考えたなら冷蔵庫に鍵をかけた方がうまくいく.これは双曲割引問題としてよく知られる問題だ.クツバンはこれも異なるモジュールが別の判断をしている例だとしてあげている.


6.偽善
クツバンは,ここでいう偽善とは「あることを道徳的に非難しながら,自分自身はそれを行ってしまうこと」と定義している.
この部分はちょっとわかりにくい.他人を操作しようとして自分自身はそれに従わないことを前提にある規範を主張しているなら,そこには何ら内部的な矛盾はない.ここでいうのは,道徳を主張しているときには,自分も従うのは当然だと考えていたのだが,実際には守れないという状況だろう.その場合には「自分も従うつもりである規範を主張する心」と「実際には守らない心」が別のモジュールであって相互に矛盾しているということになる.


ここまでが導入の第一章だ.第二章以降心のモジュール性について深く議論していくことが期待される.

*1:Robert Kurzbanの表記はクルツバンのほうがよいのかもしれないが,ここではとりあえずこう表記しておく.

*2:というわけでここでは,最も興味深い左脳が右脳の行動の説明をでっち上げることについてはあまり解説されていない