「乾燥標本収蔵1号室」

乾燥標本収蔵1号室―大英自然史博物館 迷宮への招待

乾燥標本収蔵1号室―大英自然史博物館 迷宮への招待


一見したところ何のことだかわからない題名だが,著者は三葉虫の研究者リチャード・フォーティで,原題も「Dry Store Room No. 1」.これはフォーティが所属している大英自然史博物館*1の奥まったところにあるひとつの部屋のことを指している.ここは剥製や骨や甲羅や殻などの乾燥標本の収蔵庫であり,様々な雑多のものが詰め込まれていて普段は忘れられている怪しげな場所だそうだ.そこは人目につかずやや忘れされかけているが,興味深いものが集まっていて,フォーティは自分にとっては本書自体がこの部屋のようなものだと書いている.だからこのタイトルは本書を読み終わってからもう一度眺めるとなかなか味わい深い.*2


そういうわけで,本書は大英自然史博物館に40年以上勤めて古生物を研究してる著者による博物館の歴史かつインサイドストーリーであり,自分の思いが深く染みついている話を通じて,古生物学や分類についての著者の思い入れが浮かび上がってくる仕掛けになっている.そして実際に語られている話の幅は以下の通り本当に広い.

  • 博物館の歴史(第二次世界大戦時のロンドン空襲の話もある)
  • 創設者オーエン(オーエンの銅像ダーウィンの大理石像を巡る話は楽しい)
  • 博物館の展示室・研究部のツアーガイド(特にバックヤードの紹介が興味深い)
  • 自分の就職面談
  • 様々な奇人変人たち(全編にこれでもかと研究者たちの奇矯な振る舞いの逸話が実名で収められている.セクハラやアル中の話やネッシーに深入りしてしまった話まであって,これは英国でしかできない出版だろう)
  • 貴重なコレクション(リンネその人による記載の元になった植物の完模式標本*3のコレクション,始祖鳥やカモノハシの完模式標本も大英自然史博物館にある.)
  • 分類と命名を巡る蘊蓄(トリュフを巡る蘊蓄は楽しい.伝統的なトリュフは多系統らしい)
  • 分岐分類学が巻き起こした騒動(博物館の現場からの証言はなかなか興味深い)
  • 世界各地の化石産出地(三葉虫の話は特に楽しい)
  • 標本蒐集家たちの執念(紳士然として博物館に出入りして標本をくすねた疑惑が貝の蒐集家と蝶の収集家の話として(実名付きで)2カ所に出てくる)
  • 博物館の変遷(フォーティが勤め始めた70年代はまだ古き英国の伝統が色濃く残っていたそうだ.守衛たちは軍隊上がりで,階級による入室制限などもあったが,終身雇用で研究の自由は保証されていた.サッチャー政権以降の変貌振りも現場からのレポートとして迫力ある報告がなされている)
  • ピルトダウン事件の顛末と犯人の推理(基本的には通説に従っているが,コナン・ドイル説への贔屓がおかしい)
  • 珪藻や貝や地衣類などの目立たない標本も集積すると面白い知見を与えてくれること(それぞれの研究者の執着振りも読みどころ)
  • 宝石類のコレクションや展示を巡るエピソード(呪いの宝石の話はなかなか英国式ユーモアが笑える)


私がサウスケンジントンの大英自然史博物館をはじめて訪れたのはもう随分前になるが,壮麗でしかし近代的なセンスも併せ持ったスタイリッシュな建築物と重厚な展示物(特にイクチオサウルスの化石の素晴らしいコレクション,さらにものすごいボリュームでかつ高品位の鉱物コレクションが印象的だった)に圧倒された思い出がある.本書を読んでいるとそのときの感動が甦るし,また訪れて新しい展示もチェックしてみたくなる思いを抑えられなくなる.そして全巻を読み終わると,傑作な逸話の数々とともに,分類と同定が自然への知見の大きな基礎になっていることがわかり,そして単純な分類プロジェクトが研究費を得にくくなっている現状への著者の憂いが伝わってくる.なかなか単純な解決は難しいのだろうが,博物館の意義を理解してもらうことが重要で,それも本書の執筆動機のひとつになっているのだろう.



関連書籍


原書

Dry Store Room No. 1: The Secret Life of the Natural History Museum

Dry Store Room No. 1: The Secret Life of the Natural History Museum



リチャード・フォーティの本
これは専門の三葉虫を扱った本.自分の好きな題材とあってこの本が最も充実している.

三葉虫の謎―「進化の目撃者」の驚くべき生態

三葉虫の謎―「進化の目撃者」の驚くべき生態


次に進化史全体を鳥瞰したのがこの本.

生命40億年全史

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これは地質学に焦点が合わさった本.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20090927

地球46億年全史

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*1:渡辺政隆のあとがきに詳しいが.ロンドンのサウスケンジントンにあるThe Natural History Museum(定冠詞Theがついていて,自然史博物館といえばここしかあり得ないという大英帝国的尊大さが見える名称だが)のこと.この自然史博物館はもともと大英博物館(The British Museum)の自然史部門の分館だったが,いろいろな経緯のすえに独立して単独の博物館になっている.

*2:「博物館の屋根裏部屋」とか「大英自然史博物館の裏側」などという邦題にならずに良かったというのが私の感想だ.

*3:holotype specimen 本書では正基準標本と訳されている