「Why everyone (else) is a hypocrite」 第4章 その1 

Why Everyone (Else) Is a Hypocrite: Evolution and the Modular Mind

Why Everyone (Else) Is a Hypocrite: Evolution and the Modular Mind



第4章 モジュラーな私


第3章で「意識モジュール」はすべてを統括する「私」ではないことを見てきた.では「意識モジュール」とは何なのか?クツバンは「意識モジュール」は大統領ではなく報道補佐官なのだと説明する.
クツバンのいいたいことは,「大統領報道補佐官」は大統領が伏せておきたいと考えることは最初から知らない方がいいということだ.知らなければ絶対に彼からもれることはないが,知っていればうっかりもらしてしまったり,嘘をつくことの難しさからばれたり,余計なコストがかかったりするだろう.
クツバンはこれをコミットメント問題ととして説明している.そして「車を衝突コースに乗せて最初によけた方が負けというチキンゲーム」では先にハンドルを投げ捨てた方が有利になるという例をあげている.つまり自らを拘束できれば有利になる状況があるということだ.これは序章で説明されたフィラデルフィアでの横断歩道の渡り方(接近する自動車には気づいていないふりをした方が安全)につながる.ここでは大統領が補佐官に真実を教えないことにより政府のオプション(状況を判断して臨機応変に真実を発表する)を減らしているということなのだろう.


もっともこの状況は通常のコミットメント問題と微妙にずれている.通常は,このコミットメントが相手の合理的選択を変えることが重要で,そのために自らが拘束されているということを相手にどう信用してもらうかがコミットメント問題の中心部分になる.補佐官モデルでは相手(マスメディア)の合理的な選択が拘束を信用して変わるということではないだろう.クツバンはその部分の議論に深入りするのを避け,「意識モジュールが知らない方が(知っていて嘘をつくよりずっとうまく振る舞えるために)信用してもらいやすい」ということのみにフォーカスした議論になっている.ちょっと物足りない部分だ.



<道徳モジュール>


クツバンは「意識=報道官モデル」について具体例として道徳モジュールをとって説明を始める.


人々は近親相姦が「悪」だということについて疑いを抱かずに即答するが,では何故そうなのかを説明できない.(兄と妹で完全に同意し,秘密にし,避妊していても何故近親相姦はいけないのかと聞かれると,通常の人は理由を合理的に説明できない)

クツバンは,これは道徳判断モジュールがその計算過程を意識モジュールに伏せているからだと説明している.それは意識モジュールが他者とのコミュニケート,そして時に他者の操作を目的とするパブリックリレーションを機能としているからだということになる.


ここでのクツバンの説明は中途半端だ.何故理由を知らない方がパブリックリレーションとして(他人の操作も含むとして)効率的に機能するのかを説明していない.「近親相姦は避妊していても許されない」と考える本当の理由を報道官が知らない方がいい理由は何だろうか.これはなかなか難しい.一般的には道徳は利他的傾向に関するものだから,他人を操作する(彼にとって本来合理的である利他傾向より強い利他行動,特に自分に向けた行動を誘導する)にはその方が説得力があるということが考えられる.しかし近親婚や中絶やクローン人間の是非についてはなかなか難しい問題のような気がする.いずれにせよクツバンとしては本章ではまず意識モジュールととほかのモジュールの非連結について説明し,適応的説明は後で行うということだろう.また道徳は最終章で詳細に議論すると予告している.



<表象>


前章で説明されたように,脳の多くのモジュールはつながっていたりつながっていなかったりするとすれば,つながっていない場合は情報はそのモジュールにとどまることになる.これらは「情報のカプセル化」とよばれる.


クツバンは,ここで認知科学における「表象:representation」 という概念がモジュール性でどう説明されるかについて触れている.
「表象」とは脳にストアされる情報のことをさしていて,例えば,あるモジュールは二本の線の長さが違うというイメージ情報をもち,あるモジュールは「線の長さは同じ」という叙述された形式の情報を持つとするとこれはそれぞれ表象であり,表象のフォーマットに違いがあることになるそうだ.*1


すると,異なるモジュールには異なる表象があり,脳内には膨大な非一貫性があることになる.



<非一貫性は解決されなければならないか>


「心の非一貫性」と関連してクツバンは認知的不協和の問題も取り上げている.心理学の一分野には非一貫性について「認知的不協和」と呼び,これを解決すべき問題だと捉える一派があるのだが,クツバンはこの「認知的不協和」をめぐる学説については懐疑的だ.なぜなら多くの不一致は極めて調和的に共存できる訳であり,非一貫性が異常で病的であるのですべて解決した方がよいと考える根拠はないということらしい.確かに道徳判断の理由を説明できなかったり,錯視があることまですべて解決しなければならないということにはならないだろう.


では心に非一貫性があることはどう捉えておくべきなのか.クツバンは以下のようにコメントしている.

  • 私達の心は多数のモジュールによって形成されており,それは必ずしも一貫していない.だから私達のこれまでの「心」についての理解は変更を迫られているということになる.
  • 多くのモジュールはそれぞれ別のタイムテーブル,発動条件で動いているのだ.これは適応的な反応をするための多くの戦略モジュールを使うためには必要なことだ.だから私たちの決断は周りで何が生じているかによって変化する.そしてしばしば,その環境条件は微妙なものであって,私たちはそれに意識的に気づいていないことが多いのだ.


心の各モジュールの作動状況が微妙な環境条件に左右される例をクツバンはいくつかあげている.公共財ゲームでは相手をちらっと見たかどうかで利他的傾向は大きく変化する.どきどきした場所で出会った異性をより好意的に感じる.また様々なマーケティング効果などが紹介されている.確かにこのような効果を本人が気づいていない理由はモジュールがつながっていないと考えると最もよく理解できるだろう.(もっとも何故つながっていない方がよいのかはそれぞれになかなか難しいが)


さらにクツバンは,外部環境だけでなく身体の内部の状況においてもモジュールの作動条件が変わることを取り上げる.お腹がすいていると食べ物に関するモジュールは敏感になり,年齢によってモジュールの相対的な強さが変わってくることがあるのだ.これは夜中に空腹で目がさめたときにはダイエットは挫折しやすいことをモジュール性で説明する場合の鍵になるものだ.(クツバンははっきり議論していないが,双曲割引の問題は単にモジュール性だけでは説明できない.異なるモジュールが外部状況に対して異なる反応関数を持っているとしてはじめて説明できることになる)


ではモジュール間の調和はどう保たれるのか.クツバンは「誰も知らない」といいながら,感情がひとつの役割を果たしている可能性を示唆している.ここはちょっと物足りない書きぶりだ.確かに非一貫性のままでは困ることもあるだろう.最後はどちらかに決めなければならないこともあるだろう.しかしちょうど力が均衡したときにどちらかに決めてやらなければならない時に,そしてそのときだけ感情などの第3のモジュールが必要になるということもありそうにない.
夜中に冷蔵庫の中のケーキを食べたくなったときに脳内で結局は何が生じているのか.とりあえずはまだよくわかっていないということだろう.

*1:なおクツバンは,これから本書では脳のあるモジュールにある表象があることを,「そのモジュールはこれを知っている」などということにすると宣言している