「利他学」

利他学 (新潮選書)

利他学 (新潮選書)


本書は進化心理学小田亮によるヒトの利他行動にかかる本.様々な利他行動の進化プロセスと,それに対応した至近的な心理のメカニズムを扱っている.自らのリサーチも数多く紹介してくれていて読んでいて面白い.


第1章ではティンバーゲンの4つの「なぜ」を導入に,進化適応を簡単に説明,その後利他行動の進化メカニズムを順に解説する.血縁淘汰,直接的互恵行動,間接的互恵行動,マルチレベル淘汰という順番になされている.血縁淘汰とマルチレベル淘汰周りのややこしい話は避けて,あっさりと「この考え(マルチレベル淘汰)は血縁淘汰と相反するものでなく,同じことを言っているといえる」とふれるにとどめている.そのあたりは主題ではないので深入りを避けたということだろう.流し方としてはなかなかスマートだ.


第2章からは具体的なリサーチの話になっていく.
まずはとても興味深い「目の効果」の話.実験室でも実際の場面でもヒトは目の絵が貼ってあるだけで少し利他的に振る舞うようになる.著者はこの効果が「罰を恐れる」効果(これは一種の直接互恵的な状況)なのか「良い評判を気にする」効果(間接互恵的状況)なのかを調べる.実際に被験者に独裁者ゲームをやってもらってそのときに何を感じたかをアンケート調査する.これを主成分分析にかけ,目の絵の有無との関係を統計分析し,目の絵→良い評判を気にする心理→利他行為という経路のみに説明力があるという結果を得ている.つまり目の効果は間接互恵的なメカニズムだということになる.*1
次に上記主成分分析で(目の絵との経路には反応していないが)利他行為と相関があるとされた「私的自意識」(外に現れない自分自身を意識しているかという尺度)を調べるために,鏡の有無と利他行為が相関するかをリサーチする.しかし残念ながら有意差は検出されなかった.このあたりはリサーチの進展の難しさがよく伝わってくる.
このほかに利他行為に影響を与えることがわかっているものとして,異性の存在が挙げられている.これは特に女性がそばにいるときの男性に大きく影響を与えることがわかっているとしてケント大学のリサーチが紹介されている.(サクラの異性に演劇科の学生を使ったというのがちょっと面白い.魅力的な女優の卵がサクラではさぞ若い男子学生に効果があるだろう)ここで著者は,男性のこのような利他行為は女性に対する「自分が資源を持っている」というディスプレーであると受け取れる説明を行っている.ここはやや微妙だ.資源ディスプレーであれば利他行為である必要はない.「いい人」「やさしい」と思われたいという少し角度の異なるディスプレーも混じっているように思われる.これは子育て協力の誠実性にもつながるからだろうか.考えてみるとなかなか難しい.


第3章は直接互恵における裏切り問題への対応を取り扱う.
有名な4枚カード問題と裏切り検知モジュールの話に触れてから,これ以外に重要になるものとしてトリヴァースのいう「微妙な裏切り」への対応を取り上げる.
著者は,「利他者を見分けてそのような人とだけつきあう」という戦略に絞って議論を進める.(ここはちょっとわかりにくい.おそらく「微妙な裏切り」自体の検知も相当重要なはずだ.そしてそれに対する細かな各種メカニズムが適応進化していると思われる)
まず裏切り者検知と利他者検知は別のモジュールであることが示される.(それぞれの4枚カード問題の成績に相関がない)著者はその引き金になる感情も異なっていると指摘している.
次に利他者を外見で検知することができるかという問題を扱う.驚くべきことにそれは(統計的に有意差が出るという意味で)可能なのだ.
では一旦利他者とわかった人と利己者とわかった人のどちらをよく憶えているか.これは裏切り者の方をよく憶える.著者はこの結果を,罰を与える制度の方が報酬を与える制度よりフィードバックがネガティブになって安定する*2からだと説明している.これはかなりナイーブなグループ淘汰的議論で疑問だ.気前のいい人を憶えてつきあうより,カモにされるのを避ける方が適応度的に重要だったということではないのだろうか.*3
著者はこのような利他者や利己者を検知したり憶えたりするメカニズムには,その動機付けシステムとして様々な感情が絡んでいるという指摘を行っており,義憤,罪悪感,同情,感謝などが取り扱われている.「真面目な人により同情するのは直接互恵的な見返りの期待値が大きいことで説明できる」,「感謝はより全体の利他行動を高める効果を持ち,既に直接互恵性が成り立っている条件下では有利になる」というような議論がなされている.後者の議論はノヴァクとローチの研究によるものだがなかなか興味深い.


第4章では裏切り検知に関するさらなる詳細を扱う.
まず外見で利他者が見分けられる仕組みを議論する.ブラウンらのリサーチによると,利他者と見分けるキューは微笑みが左右対称であること,微笑みの反応時間が短いこと,目尻のしわあたりが重要だとされているそうだ.著者は意識的に作った微笑みは右側が上がりやすい*4こと,反応が遅く持続時間が長くなること,目尻のしわができにくいことを,ごまかしができないインデックスだという議論を行っている.しかし訓練された女優さんの素晴らしい微笑みを考えるとインデックスという議論はやや疑問だ.結局発達の過程まで考えるとすべてコストで説明できると考える方がすっきりするように思う.とはいってもどんなコストなのかは難しい.何故,いかにも適応度に与える影響が大きそうなのに,訓練するとできるのだが,自然には発達しないようになっているのだろうか.
なお著者は微笑みの判断についての日米の文化差も指定していて面白い.日本ではより目を見て,西洋ではより口元を見るそうだ.顔文字の差(西洋では :-) 日本では(^^) )も指摘されていて確かにそのようだ.
では利他行為のディスプレー自体の正直性はコストで担保されているか.ハンガリー大学でのリサーチによると答えはイエスだ.私達はよりコストのかかる利他行為をより評価するようだ.
著者はこのような裏切り検知を巡る状況が軍拡競争状態であることを指摘し,知能の進化に与えた影響,正直性の担保のない言語の問題,言語による利他行為ディスプレーの擬態現象,評判の形成における言語の機能などを自由に議論している.とりとめのない話だがなかなか面白い.*5


第5章はヒトの利他性について,ほかの霊長類との比較,ヒトの生活史戦略との関わりを扱う.
まずチンパンジーと比較すると,チンパンジーも利他行為を行うが,それは他個体から要求があったときに限られるという点で大きな違いがあることが指摘される.つまりヒトはおせっかいであることが大きな特徴なのだ.そしてこのようなおせっかいな霊長類を探すと南米のコモンマーモセットに行き当たる.このおせっかいが収斂形質だとすると,ヒトとコモンマーモセットでは何が共通した適応環境なのだろうかが問題になる.
著者はこれは共同繁殖ではないかと示唆している.そしてヒトの場合には生活史戦略の中で様々な分業が見られ,これが利他傾向と大きく関わっているという主張を行っている.ここから教育,介護,観察学習,文化の特異性など利他行為と結びつけられて議論されていて面白い.*6


第6章では利他行為の個人差,そして現代社会における問題を扱っている.
まず利他行動の個人差を議論する.利他行為を進化的なメカニズムごとに整理した行動に分け,それと背景の外的要因,内的要因の関係をリサーチした結果を紹介している.結果はなかなか複雑で微妙なものだ.まず利他的傾向には大きな個人差がある.背景要因との関係では,兄弟姉妹からのサポート,友人からのサポート,弱者救済規範意識,私的自意識に何らかの関連がある.
偏相関分析,パス分析を行うと,友人からのサポートの期待が,友人への利他行為に影響を与えていることがわかった.これにより著者は利他主義のニッチが存在していると結論づけている.ある意味当たり前のような気もするところだが,期待から行為へという方向はなかなか面白い.
私的自意識は,友人への利他行為,他者への利他行為の両方に相関がある.著者は誰かに見られているときだけ利他行為をするというのはばれるリスクを考えると適応的ではなかったのではないかという議論をしている.ここでは冒頭の「目の効果」との関係をどう整理するのかについて触れてなく,ややわかりにくい.両方のメカニズムともにあった方がいいということだろう.


ここからは現代における利他の心の議論になる.まず利他の心の進化史に戻り,ダンバー数の150人に触れ,より広い互恵性のネットワークを作るには道徳規範が有用だっただろうという.*7 さらに農業以降には「制度」が現れる.
著者はここでは制度デザインにおいて進化心理をよく考慮することが重要だと指摘し,雇用契約における不完備性の例を取り上げて議論している.*8このあたりは行動経済学の実務的な応用として今後の進展が期待されるところだろう.またヒトの心が功利的でないことにより生じるジレンマの例として,緊急医療のトリアージ性をあげ,助かる可能性の低い重症患者を放置することをどう考えるかという問題を取り上げている.著者は問題提示にとどめているが,これはまさしく狩猟採集社会で形成された私達の文脈依存でトリッキーな道徳感情現代社会における功利的判断と相反する場合にどう考えるかという深遠な問題の1つだろう.私は進化環境になかったような問題ではできるだけ功利的に処理していった方がよいと思っているが,なかなか難しいところだろう.


本書は一般向け選書という形式の中で,自らのリサーチに触れつつ,ヒトの利他行為の進化を巡る周辺の面白い問題をいくつか取り上げて解説するという内容になっていて,研究の臨場感も味わえ,かつ肩の凝らない作りになっている.一部込み入った議論はあるが(これは物事の性質上やむを得ないところだろう)全体として読みやすく仕上がっていると思う.利他行動の進化の副読本としてなかなか手頃な本だと評価できるだろう.

*1:このあたりは昨年のHBESJの報告内容でもある.http://d.hatena.ne.jp/shorebird/20101214参照

*2:罰の効果が効いて社会が利他的になると罰のコストは減っていくが,報酬により利他的になると報酬のコストが発散するという意味

*3:なお利他的な罰の効果性については,私的な罰の場合には匿名で可能であることが前提になっている.「これは不自然で,もし顕名なら報復の連鎖になりやすいのではないか」というノヴァクの指摘はもっともなものだが,本書では扱われていない

*4:意識的な信号は脳の左半球から対側第7脳神経を通って顔の右側のコントロールにまず伝わるからだと説明されている

*5:利他者を真似する詐欺師について,ある種のベーツ型擬態だとして,言語の信号コストがなくても詐欺師ばかりにならないことを,本当の利他者がいなくなると利他者のふりをすることが困難になるということから説明している.しかし擬態の場合は警告色という信号の信頼性がなくなると補食されやすくなる(つまり信頼性がなくなると信号自体にコストがある)ので擬態自体が減ることになると思われるが,利他信号が言語のみで言語のコストがないのなら詐欺師として利他者のふりをし続けることにコストはないことになり,一方で利他者には利他コストがかかり続けるので,集団は詐欺師ばかりになって固定するのではないだろうか.(そうなったらもはや詐欺師とは呼べないということはあるかもしれないが)この議論は信頼性のない信号に何らかのコストがないと成り立たないように思われる.

*6:文化についてもそのユニフォーム性をグループ淘汰的なメリットと指摘し,「名誉の殺人」をカースト制という所属集団の崩壊を防ぐ心理から生じる行為と説明している.「名誉の殺人」という場合には,主にパキスタンなどのイスラム圏でなされる「未婚女性の純潔性が失われた場合に,家族の名誉を守るために,男性親族によりその女性が殺される」ことを言う場合が普通だが,ここではインドのものを指している.インドの「名誉の殺人」は確かに禁じられたカースト間の通婚行為にかかるものらしいが,殺害されるのは圧倒的に女性が多いとするなら集団の結束心理だけでは説明できないだろう

*7:この150人より広い範囲というのが何なのか著者の著述はやや曖昧だ.おそらく狩猟採集社会で,他集団との取引等を念頭においているのだろう.

*8:なおここでは雇用関係において罰金制を導入するとかえって努力水準が下がったというフェアたちのリサーチを取り上げて,不信感や罰への恐れからの互恵性が働く余地がなくなった結果だとしているが,本文にある「罰は利他性を高める効果がある」という説明との関係が説明されてなくわかりにくい.ここはなかなか考えてみると難しい.それは罰によって単純に期待平均報酬が下がったので努力量を調節したとは解釈できないのだろうか(もしそうなら直接互恵性は働いていて,その上での単純な報酬/努力量の合理的な調節ということになる).また罰金導入により罰金を課されない最低限の努力量が明確になったので,それが期待されている努力量と解釈され,そこまでしか働くなったのかもしれない(直接互恵性によるなすべき利他量の推定が変更されたということになる).あるいは罰金の基準になる努力量認定がいい加減,あるいは不公平だったので効果的な罰になってなくて,直接互恵を破壊する制度デザインだったということだったかもしれない(罰を導入したつもりが罰になっていないということになる).稚拙な成果主義が失敗する理由は山ほどあって,日本の導入の失敗事例の多くは,そもそも全社的な報酬抑制が目的だったことと,成果測定の困難さをうまく扱えなかったことが原因ではないかと思う.