「Why everyone (else) is a hypocrite」 第6章 その1 

Why Everyone (Else) Is a Hypocrite: Evolution and the Modular Mind

Why Everyone (Else) Is a Hypocrite: Evolution and the Modular Mind



第6章 心理的宣伝


ここからクツバンは自己欺瞞を議論していく.
まず,これまで「自己欺瞞」は哲学者を悩ましてきたと話を振っている.
「なぜ人はあることを知り,かつ知らないことができるのか.そもそもだますには主体と客体が必要だ.自己欺瞞とは一体何か」
要するに哲学者は脳のモジュール性を真剣に検討できていないということなのだろう.


議論に先立って,クツバンは自己欺瞞には2種類あるとしてそれを示す.

  • 自己欺瞞 I:もしある人が信じる誤りを周りの人も信じれば,その人が有利になる場合に誤信念を持つこと「戦略的誤謬」
  • 自己欺瞞 II:矛盾する信念が同じ脳に同居していること


第6章ではこのうち最初の「戦略的誤謬」を扱うことになる.


まず「戦略的誤謬」の様々な例をあげている.

  • 教師のうち94%は自分は平均以上だと思っている.
  • 自分の写真を,無修正のものと,より良い顔に修正したもの,逆のものと混ぜて選ばせると,より良い顔のものを選ぶ傾向がある.


前者は通常自動車の運転のうまさなどが引き合いに出されるバイアスの例だ.教師が出てくるのはちょっとした自虐ネタだろうか.
後者の例は「だって鏡を見て知っているはずじゃないか」と考えるので,これは自己欺瞞と呼ばれる.しかしモジュール的に考えると「(統一体としての人が)本当は知っているはず」ということ自体がナンセンスになるのだ.
クツバンはモジュラリティを認めれば,実はどこにも「欺瞞」はないのだと議論している.これらの例は「広報モジュールが戦略的誤謬をしている」と解釈できるいうわけだ.そして「戦略的」というのは「間違っている方が有利になるから間違う」ということを指している.そして「有利になる」とは広報モジュールの仕事「他人を説得する」上で有利になる,つまり他人を説得しやすくなるという意味だ.


<ポジティブ幻想>
ヒトが自分の能力についての自己評価で甘めになるバイアスがあることについては古くからリサーチされている.
自己の能力だけでなく,どれだけコントロールできているか,事態が深刻かどうかなど多くの項目について楽観的なバイアスが発見されている.心理学者たちはこれらのバイアスを「メンタルヘルスの維持のため」と理由づけるそうだ.しかし「では何故,脳はニュートラル判断を行うとメンタルヘルス上の問題を起こすようなデザインになっているのか」を説明できなければ究極因の説明にはならない.クツバンは究極因としては戦略的誤謬による有利さのためだろうと指摘している.


また本当に自己欺瞞に気づいていないのか(単に嘘をついているだけではないのか)というリサーチもあるそうだ.面白いのはコーネル大学の学生を使った次の実験だ.
何らかのテストをして,学生に自分の成績が上位何%の位置にあるかを予想させる.次にその%で当たりの出るくじを引くか,ランダムに選んだ学生の成績と自分の成績のどちらが高いかで勝負するかを選ばせる(いずれも勝ったら1$もらえる).学生はくじを有意に選ぶことはなかった.
リサーチャーはこの結果コーネル生は真に自己欺瞞に気づいていないと評価している.


クツバンは批判的に2つコメントしている.

  • 賞金がたった1ドルであるなら,コーネル生にとってはプライドの方が重要だということは十分にあっただろう.(くじを選ぶのは,自分の予想が高すぎることを自ら認めることになる)
  • 「真に自己欺瞞に気づいている」という表現はモジュール的にはナンセンスだ.このリサーチは(プライドの問題がなかったとしても)「賭けを行うモジュール」が,バイアスの存在について無知だったということを示しているに過ぎない.


クツバンは次にこのようなバイアスがどのようにできあがるのかの至近的なメカニズムについていくつかコメントしている

  • これらの自信過剰は選択的な記憶によって可能になるだろう
  • このような自信過剰は「自分には自信過剰傾向はない」という自信過剰誤信念によって再帰的に強化されうる.
  • 因果はわかりにくいので,自分が何らかの現象に与えた影響については特に戦略的誤謬に陥りやすい.


クツバンは最後の件について,これは因果がわかりにくいから間違えやすいということだけではなく,(広報モジュールの広報対象である)他人にとってもわかりにくいのでそれを積極的に利用しようとするデザインが合理的だと考えるべきだと注釈している.
この「因果の不明瞭さの戦略的利用」という議論はなかなか鋭いところをついているだろう.確かに世の中には「ありとあらゆることについて自分の影響を吹聴する(そしてそれを自分でも信じているような)人」が確かにいるように思われるし,おそらく自分自身を含めてほとんどの人がそのような傾向を持つのだろう.


クツバンは実社会でのこの手の自己欺瞞の例を2つほどあげていて面白い.

  • ファンタジーフットボール(これはもともとは友人間などで行うゲーム.ある制限(通常は年俸制限)の元で実際のNFLプレーヤーを複数選択して仮想のチームを作る.そしてそれぞれの週のゲームでのそのプレーヤーたちのスタッツに基づいてチームの成績が決まるという性質のもの.つまりかなり偶然の要素が大きく関わる.なお現在では統一ルールの下で全米のネット上で成績が競われているようだ)で,好成績をあげた男が,「この成績は,たまたまプレーヤーたちの所属チームがここまで弱い相手と多く当たっているためだ」といわれて,「何を言うか,運ではない,私のチームのファンタジーディフェンスが素晴らしいのだ」と答えた.
  • アメリカの国会議員たちは,金融マーケットが自分たちの些細な議論に敏感に反応すると信じて熱弁をふるう.


日本の政治家は,「そのようなことを決めると株価が下がる」といって相手の政策を非難することはほとんどない.このあたりは保守政治家にプロビジネスが根付いているアメリカならではだ.