「ぼくは上陸している」

 
本書は古生物学者スティーヴン・ジェイ・グールドによるナチュラルヒストリー誌に連載されたエッセイ集シリーズの最終巻である.このエッセイは1974年から毎号掲載され始めたもので,25年以上続き,2001年1月に完結した.1977年から単行本としても出版され始め*1,本書の原書の出版は2002年,単行本エッセイ集として10冊目ということになる.


今回はその最終巻ということになったわけだが,まずシリーズ全体を見てみよう.何しろ1975年から25年以上続いた連載が全10冊にまとまっているというそのヴォリュームにまず圧倒される.そして書いているグールドにとっての25年は読者にとっても25年になるのだ.これはある意味で書き手と読み手の人生の一部を形作っているようにも感じられる.
日本で訳書が刊行され始めたのは初巻刊行後7年の1984年.そして今回原書から遅れること9年で最終巻,シリーズは27年かかって完結したということになる.私は1984年に第1巻の訳書「ダーウィン以来」を手に取り,そのエッセイスタイルが気に入って出版されるたびに読んできた.しばらくは2年ぐらいの間隔で邦訳出版が続き,第4巻の「フラミンゴの微笑」の訳書が出されたのが1989年.しかしそこからしばらく訳書が出なくなる.というわけで5巻目の「Bully for Brontosaurus」(邦題:がんばれカミナリ竜)からは原書で読み始め,その後向こうで出版されるたびに取り寄せて楽しんできた*2.最終巻である本書の原書「I Have Landed」が出版されたのは2002年.本書でも語られている9.11の衝撃もさめやらぬ時期であり,読み始めた直後にグールドの訃報も伝わって随分思い入れの残る読書になったことを憶えている.


グールドのエッセイ集の扱う範囲は,生物進化に絡むものから,様々な生物学の学説史,さらにミッキーマウスから野球にいたるアメリカのポップカルチャーまで幅広く,しかも深い.
70年代から80年代のグールドのエッセイは古生物学から見た進化というテーマのものが多い*3.進化に関してもっともよく取り上げられているテーマはマスメディアや大衆の中にある「進化についての誤解」を,面白い話題を見つけてただしていくというものだ.多いのは「進化は進歩ではない」「進化は『下等』なものから『高等』なものに方向感を持って進むのではない」「進化は必然ではない」「適応は完全ではなく様々な制約要因がある」「ヒトは何か特別な存在ではなく生命の系統樹の小枝に過ぎない」などのテーマで,ヒトに見られるネオテニー傾向,恐竜や有袋類なども素晴らしい適応を見せていて決して劣っていると評価すべきではないこと,パンダの親指をはじめとするあり合わせの材料を用いた適応例,様々な系統樹が灌木のように茂っていること,アロメトリー,発生制約などを用いて関連する誤解を解いていく.このあたりは現代日本においてもマスメディアや大衆の理解の中にしぶとく残っている誤解であり,30年たってなおこのエッセイ集を価値あるものにしていると言えるだろう.
グールドは,さらにこのような誤解が主流の進化生物学の中にもあるのだと主張し,進化生物学者たちと論争になってしまう.現在この論争を振り返ると,主流の進化生物学についてグールドの理解が怪しかったように思われる*4.様々なグールドの絡む論争の中でこのあたりはとても残念なところだ.
おそらく背景には社会生物学論争そのものがあって,ヒトに対して進化生物学(特に適応)を安易に適用すべきではない(それは差別につながりやすい)というグールドのリベラルとしての信念があったのだろう.このようなヒトに関するテーマを直接扱ったエッセイも初期から最後まで散見されるが,ややイデオロギー的で,適応的議論と遺伝決定論をごちゃ混ぜに議論したり,誤解があったりして,ちょっと読むのにつらいところもある.あるいはむしろこのリベラルの大看板はグールドとは切り離せないものだと割り切って味わうべきところなのだろう.
結局「ヒトは生物として特別なものではない」と主張し,「ヒトに対して適応的な議論をすべきでない」と主張するなら,「全ての進化について適応的な議論に懐疑的になる」ほかないのかもしれない.これらの主張はグールド的世界で円環をなしている.


学説史に関するエッセイは,グールドの博覧強記ぶりが良く出ていて大変面白いものが多い.初期には激変説と斉一説周りや発生学を扱ったものがあり,中期以降は様々な著名な学者の知られていない側面や,いまから見ると珍妙な説が当時どうして真面目に捉えられていたかというテーマを扱うものが増える.中にはグールド自身が古書から発見した事実の報告などもあってなかなか深いエッセイ群だ.このほかに科学に関するエッセイとしてはその時々に報告された面白い最新ニュースを扱ったものもある.恐竜の絶滅が小惑星の衝突によるものだとか,発生初期の胚の分割に関する微化石が見つかったとか,惑星探査船により明らかになったトリトンやミランダの素顔とか,その時々のグールドの興奮も伝わってきて面白い.


そしてその他の楽しいエッセイがある.ミッキーマウスやハーシーチョコレートの「進化」を扱ったり,ニューヨークの街の人情を描いたり,野球の起源を探索したり,世紀の最初の年を巡る歴史にこだわったり,「ヒラコテリウムの大きさがフォックステリアぐらいだ」という教科書の記述の起源と変遷を追求したり(これはある意味でまさにミーム学の実践だ),サンフランシスコの旅情を語ってみたりという具合だ.進化についての誤解を解説したり,18世紀の学者の壮大な構想を語ったりする間にこのような軽いエッセイが仕込まれているのも本シリーズの魅力を形成している.


さてシリーズ最終巻たる「ぼくは上陸している」だ.グールドはかなり前からこのナチュラルヒストリー誌のエッセイ連載を,「連載300回が新世紀の最初の年2001年の1月にあたる」という切りのいいところで終結しようと構想してきた.そして構想通りに2001年に完結したわけだが,その(かなり前から構想していたと思われる)完結エッセイは巻頭に収められ,100年前の1901年9月11日にグールドの母方の祖父がハンガリーからの移民としてニューヨークのエリス島に上陸したというグールド家の歴史を扱っている.ハクスレーの運命の恋人との出会いと彼女が夫となるハクスレーに送った本(そしてその数十年後に彼女自身が同じ本を孫に送り,それぞれの書き込みのある本の現物をグールドが手に入れる)と合わせて,上陸したばかりの祖父パパジョーが英語の文法書に書き込んだ現在完了形「I have landed」*5などを紹介しながら,人の歴史が過去からのつながりであることを感じさせるほのぼのとしたいいエッセイになっている.
これが掲載されたのは2001年の1月号ということになる.そしてパパジョーの上陸日付がまさに9.11であり,グールドはちょうど100年後のこの日にエリス島を訪れて祖父を偲びたいと企画していたが,その企画に間に合うようにJFKに到着するために乗り込んだイタリアからの飛行機が9.11のためにカナダに着陸を余儀なくされる.(1週間かかってレンタカーで帰り着いたそうだ)その偶然に思いをはせながらの巻頭の序言と最終章に付け加えられた9.11関連エッセイが本書に劇的な味わいを与えている.今回は9年たっての邦訳書の出版ということになったわけだが,直前に東日本大震災に見舞われた日本人読者にとってはこれまた偶然とは思えないタイミングのように感じられる部分もあるだろう.


そこからはいつものグールド節が続く.蝶類学者として知られていたナボコフの分類学の業績と作家としての創造性の関連を考察し,デイヴィッド・ボウイで有名なアラモ砦の歴史とワールドシリーズにおけるメッツ敗退の神話に絡む真実や参照著者一覧の方式の変遷(これらはなかなか面白いミーム学的考察になっている)に迫り,ギルバートとサリバンの喜歌劇*6とスノッブ的「高尚さ」について論じ,フンボルトの影響,マルクスの葬儀参列者の謎を探り,あるいは聖書の創造物語にとらわれたイザベル・ダンカンの図版,あるいは同じく聖書の創造物語に対するハイドンのなかなかイカした解釈そしてサンマルコ寺院の壁画の解釈,フロイトの壮大な仮説体系*7とその崩壊,刻印という概念が前近代の科学に大きな影響を与えていたこと,化石分類のカテゴリーの歴史,梅毒の名前(Syphilis)の由来*8などを扱って息もつかせない.
進化関連のエッセイは後半にまとめられていて,創造論者による公教育を巡っての争いが取り上げられたり,ヒトの遺伝子の数が3万個程度であることをもって進化の偶然性にかかる自説の補強だと主張してみたり(これはやや無理筋),Evolutionという言葉の意味の変遷を扱ったり(恒星の「進化」として使われる,「予定された通りの展開」という意味の方がもともとの意味),リンネの体系と進化の親和性,ヘッケルによる強引な図版使用,中国における羽毛恐竜の発見などが扱われている.
リベラル的な価値や人種差別への嫌悪をテーマにしたエッセイももちろん収録されている.ここではユダヤ人が臭いかという話題がとっかかりに使われ,コーカソイドという名前の起源(ブルーメンバッハはその地域に人々が一番美しいと考えた),ティーデマンの脳容積リサーチとそのデータや発表方式の微妙さなどが扱われている.


そして最後に9.11関連の人の心の温かさを強調したエッセイが4編収録されて本書は完結している.原書を読んでから9年,改めて読んでみて,ところどころ意固地ではあっても,そのエッセイは本当に深く楽しく読み応えがある.いつか暇を見つけてもう一度最初から全部読み返したいというのが今の私の心境だ.ともかくもシリーズの邦訳の完結を喜びたい.


関連書籍


原書

I Have Landed: The End of a Beginning in Natural History

I Have Landed: The End of a Beginning in Natural History


これまでのエッセイ集をあげておこう.原書の副題の揺れはなかなか面白い.邦題の副題の方は4巻目までは原書と同じような揺れでほほえましいのだが,5巻目からは強引であまりいいものではないように思う.もっとも今回の最終巻の副題は原書の味わいを活かしていてなかなか良い.


1977. Ever Since Darwin: Reflections in Natural History
1980. The Panda's Thumb: More Reflections in Natural History
1983. Hen's Teeth and Horse's Toes: Further Reflections in Natural History
1985. The Flamingo's Smile: Reflections in Natural History
1991. Bully for Brontosaurus: Reflections in Natural History
1993. Eight Little Piggies: Reflections in Natural History
1995. Dinosaur in a Haystack: Reflections in Natural History
1998. Leonardo's Mountain of Clams and the Diet of Worms: Essays on Natural History
2000. The Lying Stones of Marrakech: Penultimate Reflections in Natural History
2002. I Have Landed: The End of a Beginning in Natural History


1984.ダーウィン以来:進化論への招待
1986.パンダの親指:進化論再考
1988.ニワトリの歯:進化論の新地平
1989.フラミンゴの微笑:進化論の現在
1995.がんばれカミナリ竜:進化生物学と去りゆく生きものたち
1996.八匹の子豚:種の絶滅と進化を巡る省察
2000.干し草のなかの恐竜:化石証拠と進化論の大展開
2002.ダ・ヴィンチの二枚貝:進化論と人文科学のはざまで
2005.マラケシュの贋化石:進化論の回廊をさまよう科学者たち
2011.ぼくは上陸している:進化を巡る旅の始まりの終わり


我が家の本棚,27年かかって完結



こちらは原書.途中からの完結.本書原書とほぼ同時期にでた左端の巨巻「The Structure of Evolutionary Theory」は未読

*1:エッセイは全て収録されているわけではなくグールドの手による選別を経ている.またナチュラルヒストリー誌以外の場所で発表されたエッセイも収録されている

*2:当時はまだ今のように簡単にインターネットで洋書が買えるわけでもなくなかなか苦労したのもいい思い出だ.

*3:これは頻度が下がりながらも最後まで取り扱われる

*4:特にドーキンスの「利己的な遺伝子」に噛みついているところなどは,明らかにグールドが理解不足だと思われ,大変残念だ

*5:上陸した直後でないと現在完了形を使うのはネイティブにとっては奇異な表現ということらしいが,いかにも英語を母語としない若者が懸命に文法を勉強して書き付けた表現であり,将来に思いをはせていたその背景を思うとほほえましいのだろう

*6:グールドはこの二人による一連の歌劇の大ファンなのだ

*7:フロイトの主張にとってはラマルク的な人類進化の要素がなければ困るのだ.

*8:当時はスペイン人が持ち込んだのかフランス人が広めたのかということが争われていた