「行動遺伝学入門」

行動遺伝学入門―動物とヒトの“こころ”の科学

行動遺伝学入門―動物とヒトの“こころ”の科学


行動遺伝学というと,双子研究を通じたヒトの行動にかかるものを指すことが多いが,広い意味では動物の行動にかかる遺伝学は全て行動遺伝学と呼ばれることになる.本書は線虫からヒトまでの多様な動物における行動遺伝学についてそれぞれの研究者から分野の概要を紹介してもらうという趣向になっている.


第1章では概説が置かれ,ダーウィンが行動の進化をも考えていたことから始め,人為淘汰で行動が変化しうること,メンデルの発見,ゴールトンのヒトの行動と性格の遺伝についての家系を通じた研究,DNA,モデル動物における行動に影響を与える遺伝子の発見という歴史が語られ,現在の状況としてゲノム解析,神経系の至近的メカニズムと遺伝子発現,ヒトの疾患にかかる遺伝子解析などが簡単に概観されている.コンパクトに全体像が分かる記述だ.


第2章以降は様々なモデル動物における現状が報告されている.面白かったものをいくつか紹介しよう.

  • 線虫 C. elegans においては,雌雄同体でごくまれにオス個体がいるので,自家受精を繰り返したり交配したりする操作が容易にできる.このため導入遺伝子のホモ接合体を簡単に得ることができる.また変異遺伝子をマイクロインジェクションした後に,染色体に組み込む操作も可能だ.行動としては化学走性や刺激応答異常などがあり,行動可塑性,学習,個体間相互作用などが調べられている.*1
  • ショウジョウバエは大きな逆位が繰り返し生じて交叉しにくいバランサー染色体という現象がありリサーチの大きな武器になっている.また雌雄モザイクを用いて脳のニューロンの遺伝子型と行動の関係を調べたリサーチもある.
  • 社会性昆虫においては,カースト分化とホルモン,分業と遺伝子発現(ソシオゲノミクス)などがリサーチの中心になっている.分業は新しい「行動遺伝子」が出現したというより,祖先遺伝子が新しい発現パターンにより別の機能を持つことにより進化してきた側面が強いようだ.
  • ゼブラフィッシュは小さな区画で飼って観察できるので,薬品の効果選別に便利.リサーチとしては神経系と情動の制御が調べられている.光遺伝子学(神経細胞に光により活性化不活性化する分子を遺伝的手法で入れ込んで直接操作観察する)も利用されている.
  • イトヨでは海洋型と内封型で天敵の有無により形態行動が適応することが知られており,その遺伝子のリサーチが進んでいる.また求愛行動にかかる遺伝子のある染色体と性染色体との融合が観察されており,生殖隔離との関連が示唆されている.
  • 鳴鳥類では運動系,学習系の神経回路,神経活動にかかる遺伝子がよく調べられていて,FoxP2遺伝子の脳内発現パターンが追跡され,また行動からのスクリーニングで囀りに関して神経活動依存的に発現する遺伝子が40以上見つかっている.
  • マウスの行動遺伝学においては,日本の同じ場所をくるくる回る系統(コマネズミ)の記載が1907年に成されているが,この系統は現在失われてしまった.
  • マウスの遺伝学では近交系統が400以上利用可能で,選択交配による研究,QTL解析などが進んでいる.また2万個以上ある遺伝子をしらみつぶしにノックアウトしていくという巨大プロジェクト(国際マウス表現型解析コンソーシアム)も進行中だ.また交配において19対の染色体の1対のみを別系統にするというコンソミック系統も技術も確立している.
  • ノックアウトマウスの技術はさらに進み,条件的遺伝子ノックアウト(例えば脳内でのみ発現を抑える),薬品により標的遺伝子を外側からオンオフすることも可能になっている.現在ウイルスや子宮内の胎児脳への直接穿孔による神経細胞への遺伝子導入手法が発展しつつある.
  • イヌや家畜における行動遺伝の研究においては,行動傾向,パーソナリティの評価をどうするかが大きな課題になっている.飼育係へのアンケート法によるとチンパンジーはゴリラより「誠実性」が低く,「神経性」「知的欲求性」は高い.また個体差は「協調性」と「神経性」がチンパンジーの方が大きく,「支配性」「外向性」「知的欲求性」はゴリラの方が大きい.
  • 霊長類においてはヒトで問題になった遺伝子(DRD4など)について種内個体差,種間の対立遺伝子の比較などが行われている.
  • ヒトにおけるメタリサーチでは,ドーパミン受容体遺伝子(DRD4)と衝動性に関連はなく,セロトニントランスポーター遺伝子のS型L型と不安傾向に関連はあるが,それは全体の個人差の1%を説明する程度に過ぎないとされている.*2
  • ヒトの精神疾患に関するリサーチも進んでいる.遺伝子変異と疾病の関連解析で,関連するSNPは多く見つかっているがいずれも効果は弱い(オッズ比で1.1-1.5).統合失調症では効果が大きな繰り返し変異(CNV)が複数見つかっているものの患者数に占める割合は小さい.また神経情報伝達経路からのアプローチ,中間表現型(神経のプレパルス抑制など)からのアプローチ,動物モデルからのアプローチなども行われている.


本書を読むと遺伝子と行動に関するリサーチの大まかな見取り図がわかってくる.単一遺伝子の機能解析と,表現型と遺伝子変異の網羅的関連解析により多くの知見が得られており,行動の遺伝もそのほかの形質遺伝と特に違いはなく,今後様々なことがさらに理解されていくだろうことがわかる.コンパクトにまとまった良書だと思う.

*1:なおこの線虫の章では最後に「種の繁栄のための戦略として知られる個体群密度依存拡散行動・・・」なる記述があり,行動生態の専門家ではないとわかっていても,あまりに初歩的な誤解にがっかりさせられる

*2:Schinka et alの2002,2004の論文が引かれている.私はあまり詳しくないが,一般にはなお関連があるとされていることが多いのではないだろうか.