Steven Pinkerによる投稿「The False Allure of Group Selection」に対する各方面からのコメント その1 


既に紹介したピンカーの投稿「The False Allure of Group Selection」http://edge.org/conversation/the-false-allure-of-group-selection には様々な学者がコメントを寄せている.主なものをいくつか見てみよう.



この中でもっとも内容が深いものはおそらくJohn Toobyのものだろう.「Genic Selection and Adaptationism: Are We Moving Forward or Back?」と題されている.
(なお今回紹介するトゥービィ,クローニン,ドーキンスネッシーたちのコメントは今週半ばまでは掲載されていたのだが,何故か今は表示されない.理由はよくわからない.7/21追記,また表示されるようになったようだ)


ジョン・トゥービィ「遺伝子淘汰と適応主義:私達は進んでいるのか後戻りしているのか」


トゥービイは冒頭に「このグループ淘汰をめぐるいつ果てるとも知れない腹立たしくも面倒な論争」(the ever-vexatious debate on group selection)にピンカーがコメントしてくれて嬉しいと書いている.トゥービィのコメントの要旨は以下の通り.

  • 最大の問題は「グループ淘汰」という用語が多義的で混乱の元であり,その大半は現実の記述において欠陥を持つことだ.(専門用語の「ブラックホール」だとか「タールピットに落ち込む」とかの表現もある)それだけでこの用語を禁止してマリアナ海溝に沈める理由になるだろう.
  • そして彼等のもたらす用語の混乱は「モラル」「利他」「利己」にまで及ぶ.(これはピンカーが「グループ淘汰主義者たちが『善』・『徳』を『グループのための自己犠牲』と定義する傾向にあること」を皮肉っているのと同じ趣旨だろう.ピンカーはそれならファシズムは至高の善になるといっているが,トゥービィは「子供の世話をせずドラッグディーラーに金をつぎ込む母親」が「利他的で善」になると皮肉っている)
  • かつてグループ淘汰は,深く考察されていない進化理論によくまとわりついていた.(ローレンツやウィン=エドワーズが引かれている)これをジョージ・ウィリアムズたちは遺伝子視点の進化理論によって一掃したのだ.
  • そして一旦混乱が解消された今,小さく様々な遺伝的,文化的進化モデルが(不必要にも)「グループ淘汰」のラベルで提示されている.(これらは遺伝子視点の進化理論と矛盾するわけではないが,多くの制限的な前提を抱えている)多くの進化生物学者はこれらのモデルにより一旦解消された混乱が再燃することにいらだちを感じているのだ.
  • ただし私は「ドグマティックになるべきではない」という点では「新しいグループ淘汰」提唱者に賛成する.実際のイーワールドのウィルスにかかる進化理論はグループ淘汰的にも理解できるものだ.


次にトゥービィは現在,論争の両当事者が合意できる(と思われる)事項を整理している.

  1. 遺伝子視点の進化理論の受け入れ
  2. 哺乳類などの動物においてはほとんどの性質は包括適応度を用いた個体淘汰で説明できる
  3. 「マルチレベル淘汰」理論は,実際には「理論」ではなく,理論を表現する多くのモデルの1つに過ぎない.
  4. 個体のある性質は「個体にとって有利でグループには不利」あるいは「個体にとってもグループにとっても有利」あるいは「個体には不利だがグループには有利」であり得る
  5. ヒトは,理論的,仮説的には,現実よりはるかに属するグループに益する性質であり得るが,実際にはそうなっていない.
  6. ある性質は「個体の表現型」であることにより,また「グループの表現型」であることにより進化可能だ.
  7. ある性質はネットの利益が平均的に個体にとってマイナスであれば(血縁淘汰は別にして)進化できない-


次に食い違っていると思われる部分も整理している

  • グループ淘汰主義者たちは「遺伝子淘汰主義者たちは『グループの性質』なるものを認めない」と思っているが,実はそんなことはない.
  • グループ淘汰主義者たちは『適応的なグループの性質』の存在がグループ淘汰の証拠になると思っているが,遺伝子淘汰主義者はそれは個体にとっても有利である可能性があると考える.
  • ある性質が『個体に実在する』か『グループに実在する』かには解釈の余地がある


この後のコメントは以下の通り.

  • グループの機能的な淘汰のパスがあるからといって個体が利己的でないということにはならないことを理解するのは重要だ.グループのゲインを通じて個体がゲインを得ることはあり得るのだ.
  • そしてグループも個体も利益を得るような性質の方がはるかに進化しやすいにもかかわらず,新しいグループ淘汰主義者たちは個体にとっては不利になる形質にこだわリ,かつてのナイーブグループ淘汰の怪しい主張に近づくのだ
  • マルチレベル淘汰理論の最大の問題点は,それは階層化されたクラスを前提にするが,生物世界は通常そうなっていないことだ.
  • 私は「マルチレベル淘汰」より「異階層パスウェイフィードバック」というフレームワークの方がいいと思う.基本的に淘汰は(コンフリクトがありうる)様々な経路を通じてはたらくのであり,それがきれいな階層をなしていることは少ないからだ.(ここで自分たちのゲノミックコンフリクトの考察にかかる論文を引いている)
  • 新しいグループ淘汰理論のリサーチプログラムのいくつかの側面は「よい科学的実践」を浸食するものになっている.仮説を反証しているように見える結果を「支持している」と言い張っているものがあるのだ.(このことについて論じた論文が引かれている)また「個体淘汰の失敗」としてあげられている例にも極めて怪しいものがある.(その例として特に利他的罰が挙げられている.これはピンカーのコメントへの援護射撃だろう)


トゥービィのコメントは,要するに「グループ淘汰は用語が多義的で混乱の元」「主唱者たちにはグループ淘汰の存在の証拠についていくつかの基本的な誤解がある」「それが一貫性のある理論のモデルだとしても,そのモデルは自然界のリアリティと結びついていない」「実際の議論にはひどいものが多い」といっているのだ.
なかなか手厳しい.ピンカーの投稿と基本的に同じだが,言い張っている理論が正しいとしても,これを主張している人たちのレベルは平均的にはひどいということなのだろう.

なお「同意できるだろうこと」の7点目だけはやや微妙だ.血縁淘汰で進化できるものは等価である「新しいグループ淘汰理論」を使ったモデルでも(相互作用する血縁個体をグループとして)進化できるように表現できるだろう.



ヘレナ・クローニン 「『文化』という言葉を聞いたら,メタファーに手を伸ばすな」


「アリとクジャク」の著者として有名なヘレナ・クローニンは特に「文化進化」についてピンカーに賛意を示したコメントを載せている.
その趣旨は「文化を理解するのにグループ淘汰を持ち出す必要はどこにもないのだ.ヒトの本性を進化的に理解した上で歴史を実戦すればいいのだ.」というものだ


リチャード・ドーキンス 「『グループ淘汰』は扱いにくく時間の無駄になるだけの目くらましだ」


リチャード・ドーキンスもコメントを寄せている.
冒頭で「グループ淘汰主義者のグループでいることに利点があることをもってグループ淘汰の証拠だとする態度が特に問題だと感じていたことをピンカーがうまく表現してくれたし,ヒトについてはピンカーの指摘に付け加えることはない」とまず全面的に賛意を表している.
その後,「利己的な遺伝子」や「延長された表現型」で展開された「自然淘汰についての遺伝子視点からの見方」を要約し,表現型を持つ主体がヴィークルであるためにはそこに共存する複製子が次世代につながる道が共有されていることが重要であり,それこそがハミルトンの包括適応度の考え方なのだと指摘している.
そしてグループがヴィークルであり得るかについては,次世代への道が共有されにくい以上,一般的にそれは難しいだろうと引き続き否定的だ.たしかにワーカーを引き連れて分封するようなハチのコロニーであればそれはあり得るが,それを「グループ淘汰」と呼んで有用なことはないだろうとも書いている*1.そしてハチのコロニーの性質を規定する遺伝子を考えてどう淘汰されているのかを考察する方がはるかに有用だし,ハチのコロニーの特質を把握するヴィークルとしても結局感覚器と脳を持ちコロニーの特質を作り上げている個体に着目する方が有用だと主張している.


ドーキンスは先の書評の立場を基本的に大きくは変えていないが,「グループはヴィークルであり得るが,実際にそう考えても有用な洞察は得られないだろう」と付け加えて,グループがヴィークルであり得ることは認めている.私としては「グループがヴィークルであり得るには包括適応度理論による条件を満たす必要がある」という指摘もあった方がよかったようにも思うが,ポイントを実際の有用性に絞っているのは,ピンカーのコメントが基本的に「その理論を使って何を言ってるのか」にあるのと平仄を合わせているということなのだろう.
ハチのコロニーに関してヴィークルをコロニーとみるのと個体で見るのとでは,少なくとも巣内にコンフリクトがある限り(そして通常女王とワーカーが完全クローンではないのだからコンフリクトは多くの場合あるだろう)個体から見る方が有用だろう.ドーキンスは特にコンフリクトを挙げていないが,それも挙げておけばよりわかりやすかったように思う.


ランドルフ・ネッシ― 「協力には多くの説明がある.しかし社会淘汰は無視されている」


ネッシーのコメントは少し角度を変えている.前半は何故このようなばかばかしい論争が終了しないのかという視点からのものだ.後半にはモラルはグループ淘汰では説明できないだろうということが書かれている.要旨は以下の通り

  • ネッシー自身1994年にはこの問題についてエッセイを公表しているし,今回のピンカーのエッセイも極めてクリアーなのだが,論争がこれでなくなることはないだろう.それはなぜなのか
  • この説明には社会心理学が役に立つだろう.
  • ヒトの心は単一の原因を強調する傾向がある.だから本当に頭のよい人たちが,他の説明があることを理由に血縁淘汰が重要ではないと主張するのを聞くことになるのだ.
  • さらに問題がモラルに関わると,自分の名声がそれにかかっているように振る舞う.そして利己的遺伝子支持者よりグループ淘汰支持者の方がモラル的であるように受け取られやすいということが背景にある.このような社会的背景が協力の進化の問題をややこしくし続けるだろう.
  • 私がモラルの進化的起源について興味を持っているのは,自分のちょっとした行為がモラル的だったかどうかを延々と気に病む人たちを診てきたからだ.そしてグループ淘汰はこのことを説明できないだろう.
  • 私自身は,コミットメントからの説明を長い間模索し,それはモラルの一部分しか説明してくれないという結論に達した.そしてウェスト=エバーハードの社会淘汰の議論を聞き,求めるものを見つけたと感じた.ちょうど性淘汰と同じく,社会的なパートナーとして選ばれるかどうかという淘汰があるのだ.
  • この淘汰圧は非常に大きい.だから多くのヒトは,単に親切で正直に見えるだけでなく,本当に親切で正直なのだ.
  • 社会淘汰のリサーチの紹介(クリストファー・ボームの本「Moral Origins」などが紹介されている)
  • 社会淘汰だけが協力の説明という風には思っていないが,これまで過小評価されているだろう.それはグループ淘汰が説明できるよりはるかに多くの現象を説明できる.


ヒトの心にある本質主義とモラルにかかる名声マネジメントがこの厄介な論争の影にあるという指摘はその通りかも知れない.そして(ネッシーは指摘していないが)当然自己欺瞞がこれに影を落としているのだろう.
後半部分はネッシーの最近の興味が書かれていて面白い.これは基本的に互恵的利他行為の周辺部分ということになるのだろう.


ここまではピンカーへの賛成票だった.コメント欄にはグループ淘汰の守護聖人たるD. S. Wilsonや,名指しで批判されたジョナサン・ハイトのコメントが掲載されている.

*1:それは「ライオンは多細胞生物なので細胞のグループ淘汰の産物だ」というのと同じだとも書いている