「老化の進化論」

老化の進化論―― 小さなメトセラが寿命観を変える

老化の進化論―― 小さなメトセラが寿命観を変える


本書は繁殖を遅らせる人為淘汰実験で長寿のショウジョウバエの系統を作りだすことに成功するなどの業績のある生物学者マイケル・ローズによる,一般読者向けの老化にかかる進化生物学的な解説本である.前半は学説史,後半は自身の研究物語が軸になり,自伝的な味わいもある書物に仕上がっている.


冒頭ではある老化をめぐる会議の様子が描かれる.それによると西洋のキリスト教的な世界では「老化を科学の力で遅らせる」試みというのは自然の,あるいは神の摂理に反する非倫理的な行為だという論調があるそうだ.そのような神学者の講演が続いた後ユダヤ教のラビがこれに真っ向から反論した様子が描かれている.著者はヒトの寿命を延ばすことの是非について意見の一致はないことがわかったと書いているが,本音はそのようなキリスト教的な考え方への嫌悪感が背景にあるのだろう.(このテーマについては最終章でも扱われている)


物語は一転し,著者の老化研究へのきっかけが描かれる.著者は博士課程への進学に際しメイナード=スミスに憧れ,その門を叩くのだが,既に弟子は取らないことにしていたメイナード=スミスはブライアン・チャールズワースを紹介する.チャールズワースは著者に老化についての研究テーマを提示し,(70年代では無理もないが)著者はそれは荒唐無稽な不老不死の研究的なものではないかとしりごむ.著者はハーバードのレヴィンズとルウォンティンも訪ねるが,(当時社会生物学論争の最中にあった)そのイデオロギー的な薄っぺらい会合に落胆し,チャールズワースの元に進む事を決心する.


ここで当時の老化についての学説が簡単に紹介される.20世紀前半にメチニコフは腸内細菌による毒性作用説を唱え(これはある意味で印象ほど荒唐無稽ではなく,現代のイーワルドやフィンチたちの考え方に影響を与えている),そのほか同じような単に憶測だけに基づく様々な説があったそうだ.1953年のDNA発見以降は,分子生物学的な学説が花盛りになる.その中には「体細胞突然変異説」(ガンと老化は異なることがわかり否定された)「エラー・カタストロフィー説」(タンパク質合成機構のエラーがエラーの連続的蓄積を引き起こすという考え方,実験的にそのようなエラー率が低いことがわかり否定された)ヘイフリックのテロメアによる「細胞分裂の上限説」(分裂に上限があるからといって組織が老化しなければならない理由はない.また進化的にはそのような老化機構がある理由を説明できない.むしろヘイフリック限界自体はガンの増殖を抑えるためと考えられる)などがあったが,老化の本質に迫るものはなかった.


ここでメダワー,ウィリアムズ,ハミルトンの老化の進化的な説明が現れる.基本的に若い頃に少し利益がある性質は,繁殖を終えた老年期に大きなコストがあっても淘汰上有利になるというものだ.著者は(ハミルトン本人にも会い)この議論に納得し,ショウジョウバエの実験を行うことになる.

最初にハエの産卵数への高齢化の影響を調べるが,そこでは老化の影響は見られず,ウィリアムズのいうような「ゴミバケツ状態」ではないという結果に終わる.次にちょっとしたきっかけから,ハエの繁殖時期を遅らせるという人為淘汰をかけるとどうなるかという実験を行い,見事に長寿化する系統を得ることに成功する.つまり(少なくともハエでは)若い頃の繁殖への淘汰圧を下げるだけで老化を遅らせることができる,すなわち「老化は何か不可避のメカニズム的な限界ではなく何らかのトレードオフで決まっている形質だ」ということを示しているのだ.これは老化にかかる進化理論の検証とも言える業績だ.


博士号を取った著者は北米に移り研究を続ける.ここからは著者の個人的研究物語になる.まず老化とトレードオフになっているメリットが繁殖能力であること,それが環境により大きく影響を受けることなどを明らかにしていく.
著者はここで,生物の寿命は基本的に淘汰圧の期間構造にかかるものであることを力説し,鳥とコウモリが同じ大きさの哺乳類より長寿であるのは飛べるために若い頃の捕食淘汰圧が小さいからだろうと考察している.
しかしこの記述は,寿命の大きな差や鳥の若いときの淘汰圧の強さが捕食だけで決まっているとは思えないこと(結局同種個体との競争なのだから絶対的な捕食圧できまるのではなく相対的な問題だと考えられる)を考えればやや説得力がないように感じられる.むしろ飛べるための代謝生理に(繁殖能力の低下などの)何らかのコストがあってトレードオフになっていて,その結果(進化的には不利な)「若いときの繁殖能力が小さく長寿である」という状態にあるというニック・レーンの考え方の方が説得的であるように思う.


続いて,ヒトの老化を食い止めるプロジェクトとの関わりが書かれている.著者は最初,ハエと同じように「長寿マウスを人為淘汰により作り研究するプロジェクト」を提案するが,これは様々な官僚的な出来事の末に,資金を得ることに失敗する.しかしゲノミクスの発展により,むしろハエの長寿化の機構を調べてそれをヒトに応用する方が効率的だろうと考えを変える.このプロジェクトはもう少しで資金集めに成功するところでITバブルの崩壊によりうまくいかなくなる.
著者は最後に今後の展望を書いている.それによると「老化の進化理論からいって老化の原因は単一ではなく数多くあるだろう.しかし遺伝的な実験の結果その遺伝要因は数百のオーダーであることがわかっている.それらは最近のゲノミクスで十分に扱える範囲だ.それを1つずつ解明し,(遺伝的介入ではなく)薬やナノテクノロジーでの介入により老化を遅らせ健康な人生を伸ばすことは可能だろう.資金集めは難しいが,偶然でもよいから最初に何らかの発見があれば進み始めるだろう」と楽観的だ.


本書はおおむね上記のような内容で,老化の理解に関しては進化的な考察が重要であることが説得的に示されている.また本書のもうひとつの魅力は,著者の率直な著述スタイルだ.70年代の英国の大学がいかに風変わりであったかとか,大物学者の奇矯な振る舞いがとぼけたユーモアとともに書かれているし,著者の人生の(大変つらいものを含む)さまざまな出来事が研究物語に織り込まれ,読んでいて感情移入を生じやすく,読者を飽きさせない.特に進化理論として深い内容が書かれているわけではないが,一般向けのよい本だと評価できるように思う.




関連書籍


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原書 やはり原題の方がしゃれている.



Narrow Roads of Gene Land: The Collected Papers of W. D. Hamilton : Evolution of Social Behaviour (Narrow Roads of Gene Land Vol. 1)

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ここに収録されているのが1966年のハミルトンの老化の進化にかかる論文「The Moulding of Senescence by Natural Selection」だ.これはメダワーやジョージ・ウィリアムズの議論をきちんと数理的に展開したもので,仮に死亡せず繁殖能力を含めて指数関数的に成長し続けることができる生物があったとしても,若い時期に小さな利益があれば老化が容易に進化することを見事に示している.またそれが集団全体の成長率と深い関係にあることなども示されている.
この論文はメダワーやウィリアムズの洞察を検証したような内容でハミルトン独自の理論ではないということでもあり,同時期の包括適応度理論の論文に隠れて目立たず,あまり取り上げられることもないが,極めてエレガントでハミルトンの鋭さをよく示している論文だと思う.
なおマイケル・ローズは,本論文において偏微分方程式で表記すべきところが常微分方程式になっており,論文集に採録するときにそれを直していないことに不満な様子だが,私の読んだ印象では,ハミルトンが示したいことを理解する妨げにはなっていないように思う.


なお私のこのシリーズ全体の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20060429