スティーヴン・ピンカーによるMIT講演「The Sense of Style」



http://techtv.mit.edu/videos/20848-communicating-science-and-technology-in-the-21st-century


これはスティーヴン・ピンカーによるMITの核物理学専攻の学生たち向けの講演ヴィデオだ.製作はMIT Tech TV.ピンカーの次の著作はより良い文章の書き方にかかる本で,仮題が「The Sense of Style」.今回講演で語られるのはこの本のエッセンスの一部となると紹介がある.それは大変楽しみだ.


講演の概要


《始めに》


サイエンスコミュニケーションは現代においてますます重要になっている,それは以下のような理由による.

  • 進化,地球温暖化,ワクチン,核エネルギーなどの問題について一般の人々の理解が重要になってきている.(ここで進化が最初に来るのは,ピンカー自身進化についての専門家であることに加え,アメリカでは教育と宗教をめぐるかなり重たい政治イッシューになっているからだろう)
  • 若い有能な人を科学の世界にリクルートすることに資する.
  • 科学的な視点を一般にプロモートするよい方法である.


《これまでのライティングの教育の問題点》


しかしこれまでのライティングの教育は成功しているとは言えない.
何故かをみていこう.代表的なライティングマニュアルとしてはほぼ100年も前のWilliam Strunk, Jr.とE. B. Whiteによる「The Elements of Style (1918)」があって,これは今も使われている.
この本の内容にはもちろんいい点もたくさんある.簡潔で,ユーモアにあふれた本だ.しかし中にはおかしなアドバイスも多く含まれている.今では古くなってしまった単語の意味や用法に依拠しているし,ルールとして提示されていることに著者たち自身が従っていないこともある.(ここで様々な具体例が挙げられていて聴衆の笑いを誘っている)
1つには体系化されてない恣意的なルールの提示になっているということがあるし,もうひとつにはそもそも言語や文章スタイルがどのように人の心に働きかけるのかの理解がないということがある.


しかし今や言語学認知科学の進展による様々な知見を利用することができるのだ.それをこれから示していこう.


《よいスタイルのモデル》


書き手と読み手の間のコミュニケーションを考えた場合の理想的なモデルはクラッシックスタイルと呼ばれる文章スタイルだ.これは以下のようなスタイルを指す.

  • 書き手が伝えたいことが窓の中にあるものとして提示され,そこに読み手が注意を向けるという形をとる.
  • 提示されるのはこの世界の真実.
  • 書き手と読み手の認知能力は対等ということが仮定されている.
  • 伝えたい考えは言語以前に存在し,言語でそれを表現し,読み手に伝える.

これらはクラッシックスタイルが相対主義ロマン主義ポストモダニズムとは対極にあることを示している.
(ここでピンカーはクラッシックスタイルの例としてドーキンスのブラインドウォッチメイカーの一節を紹介し,ポストモダニズムの文章と対比する.場内は笑いに包まれる)


クラッシックスタイルの特徴

  • 叙述としては抽象化されているものでもかまわない.
  • 現実の世界の何かを伝えることに焦点がある.だから文章そのものにかかる特徴は重要性を持たない.
  • また伝えたいことは現実世界の何かであり,書き手の属性ではない.
  • 読み手の能力,常識を当てにできる.だから過度な留保やヘッジは不要.(この留保やヘッジの例も会場の爆笑を誘っていた)


伝えやすくするための特徴

  • 過度の抽象化は避ける
  • 名詞化は避ける
  • 記憶しやすいフォーミュラを用いる


《どのような文章が読み手にとってよい窓となるのか》


知識はネットワークの形をとる,文章はチェーン構造だ.そしてこれを仲介するのがツリー構造を持つ構文なのだ.そして読み手は文章のチェーン構造に従って頭から読んでいく.その際に理解しやすいのは,まず主題が提示され,その後に焦点となる事実や新しい知識が提示されるという順序だ.
そして順序を可変に提示するために(ディープストラクチャーが同じでも提示順序が異なる)様々な構文があるのだ.だからライティングマニュアルにあるような「受動態は避けよ」というアドバイスは間違いなのだ.読み手にとってわかりやすい順序を提示するために様々な構文を使いこなすのがよいやり方だ.


《何故よい文章を書くのが難しいのか》


まず「心の理論」の説明
そして成人には「心の理論」があるとされているがそれは完璧にはほど遠いものだ.書き手は書いている途中に自分の知識と典型的な読み手の知識を混同してしまう.これは「知識ののろい」と呼ばれる.これにはまるとわけのわからない文章になってしまう.


避けるためのハウツー

  • 書いているときには読者のことを常に意識する
  • 書き上がったものを典型的な読者に読んでもらってコメントをもらう.
  • 書いた後しばらく寝かせる.(ピンカーほどの書き手でもこれを実践しており,読み返すとしばしば「こんなクズを書いたのは誰だ?あ,俺か」ということになるそうだ)
  • 書いたものを声を出して読む.


《「正しい用法」とされるものについての理解》


もちろん世の中には明らかに間違った用法がある.
ブッシュ大統領による様々な例をあげていて会場は爆笑に包まれる)
しかししばしば主張される多くの「正しい用法ルール」には根拠がない


「正しいルール」というのは「暗黙の進化する慣行」だという理解が重要だ.

  • どこにも公的な判定機関はない
  • それは実際に変化する


では実際にはどうすればいいか
ルールを全く無視するのは馬鹿げている.それを守ることによるメリットには以下のようなものがある.

  • 多くの人にとってわかりやすくなる
  • 信頼性を示すシグナルとして機能する
  • 将来的なスタイルや優雅さの基礎になる


しかし主張されているルールを全て守ろうとするのもよくない.主張される多くの「ルール」には全く根拠がない.
1つの方法は,きちんと文法書や辞書(の用法)に当たることだ.多くの主張される「ルール」は「自分は信じないが皆がそう言っているから従うしかないのだろう」という構造で流布し続けているものだ.きちんと編集された辞書の「用法」にはそのようなおかしな記述はない.


ここでピンカーはまとめを行って,最後に1つのアドバイスを行っている.それは自分の好きな文章をリバースエンジニアリングすることだ.講演の最後にはそのようなリバースエンジニアリング対象文章の例として「The Owl」という文章をあげて会場の爆笑を誘っていた.(どう面白いのかは観たときのお楽しみだ)


この後は質疑応答のコーナーになり,詩はどうなるのか,ポストモダンの文章でも良いものもあるのでは,などのやりとりがなされていた.



以上が講演ヴィデオの中身だ.文章を書く人にとっては啓発的な内容だろう.
そもそも日本語の文章教育については(あるいは私が知らないだけかもしれないが)このような著名なライティングマニュアル自体あまりないという状況ではないだろうか.なお日本語文章については「正しい用法」都市伝説のようなものはあるのだろうかというのもちょっと気になるところだ.
いすれにしても今度の本は言語学認知科学の両方の知識を文章マニュアルという実践用に使おうというものらしい.おそらく爆笑ものの文章例が次から次にくりだされるのだろう.大変楽しみだ.