「孤独なバッタが群れるとき」

孤独なバッタが群れるとき―サバクトビバッタの相変異と大発生 (フィールドの生物学)

孤独なバッタが群れるとき―サバクトビバッタの相変異と大発生 (フィールドの生物学)


本書はサバクトビバッタの研究者,前野 “ウルド” 浩太郎によるサバクトビバッタの相変異に関する本である.最近立て続けに面白い本を出している東海大学出版会の「フィールドの生物学」シリーズの最新刊.


トノサマバッタサバクトビバッタは一定以上個体密度が高くなると相変異を起こして群生相になり大集団で長距離を飛行し,飛来地の植物そして農作物を根こそぎにすることが知られている*1.これは古来から大厄災として記録に残され,中国では「蝗」と呼ばれて恐れられてきた*2.しかしこれが普段はおとなしい緑色のバッタの相変異したものだということが知られるのは20世紀になってからにすぎない.
著者は小学校の時にこのバッタの大発生の話に魅せられ「自分もバッタに食べられたい」と思うようになり,長じてもそのバッタへの異常な愛*3を持ち続け,紆余曲折の経緯をたどってその研究者になる.本書はその人生と研究の軌跡を綴った研究物語だ.


物語は富山の学会の幸運な夜から始まる.著者は秋田での小学生時代に肥満児として挫折経験を積み,その後一念発起して昆虫学者になろうと弘前大学に進むが,夏の大学院試験に失敗してしまう.しかし一縷の望みを抱いて参加したその学会のひょんなことから参加した私的懇親会での偶然の出会いをきっかけに半ば押し掛けのような形で筑波の農業生物資源研究所田中誠二の元に弟子入りを果たす.そして手取り足取りの指導の元,バッタの研究を始めるのだ.
駆け出しの研究は実験室ベースでのサバクトビバッタの相変異のメカニズムの探求から始まる.このあたりはともすれば退屈になりがちな昆虫生理学の至近メカニズムの部分だが,著者の記述は生き生きと当時の様子を描いて臨場感があり*4飽きさせない.


まずコラゾニンというホルモンが群生相に相変化させる効果があるかを調べる.著者は早い時期のコラゾニン注射が相変異と関連すること,そして触覚の感覚毛の構成にも影響を与えていることを確かめる.
次はこのような変化を誘導する要因だ.著者は親世代の個体密度の結果生じる幼虫が生まれたときにすでにある性質と,その幼虫が育つときの個体密度の二つの要因で決まることを見つけ,それまで「相蓄積」と呼ばれていた現象の説明をつける.
さらに生まれたときの要因についてはそれまでの通説的見解「泡説」を否定し,単に卵の大きさで決まっていることを見つける.ここでは卵の大きさを実験的に操作する話がいかにも体当たり的な研究で愉快だ.
さらに体色発現の遺伝様式を見極め(体色の有無と濃さの二つの遺伝子によるメンデル遺伝),卵の大きさで相変異を定量測定するというアッセイ法を確立させ,個体密度が産卵メスにどのように影響を与えているのかを見極める(前回産卵期直前直後の4日間の触角からの物理的化学的接触刺激+光刺激).


著者はここで博士号を取りポスドクになる.まとまった給料をもらえるようになり遊びの誘惑に負け一時研究がスローダウンしたことも赤裸々に告白されている.しかしすぐに初心に戻り,幼若ホルモン,セロトニンの相変異への影響を調べ,その後孤独相と群生相の生態的な問題を扱う.
この部分の説明はややわかりにくい.まず冒頭のコラゾニンと幼若ホルモンやセロトニンとの関係が説明されていない.また生態については群生相は(餌の質が悪くとも)より速くより大きく成長できるのだが,何がそのトレードオフになっているのかについても明示的な説明はない.(なお後者については未だによくわかっていないということのようだ.)


著者はたまたま見つけた性モザイク個体を観察してさらに一本論文を仕上げ,師匠の元から旅立つことになる.そして研究対象であるサバクトビバッタの自然の生態を自分の目で確かめたいと考え,艱難辛苦を乗り越えついに生息地アフリカ,モーリタニアの地に降り立つ*5
本書は著者がさっそくサバクトビバッタの休息場所に関するリサーチを一本仕上げ,日本とモーリタニアの友好の架け橋にと周りから期待され,現地研究所長からミドルネーム「ウルド」を名乗ることを許されるところで終わっている.(本書あとがきではその後サバクトビバッタが消滅したと嘆かれているが,砂漠のリアルキングダムブログやLocustWatchによるとまた発生しつつあるようだ.)


本書は著者による「今書けることは出し惜しみせず全部書いてみました」的な*6渾身の著作であり,読んでいてその情熱と変態ぶりとバッタへの異常愛に圧倒され続ける本だ*7.そしてこれはあくまで(ファーブルに傾倒する)著者による前野昆虫記の第1巻なのだろう.何年後かの第2巻「モーリタニア編」を心より期待したい.






 

*1:これ以外にも何種かのバッタがこれほど顕著ではなくとも同じように相変異するらしい,しかしその中では中国全土に飛来するトノサマバッタと,北アフリカから中東,インドまで飛来するサバクトビバッタの規模が圧倒的なようだ.

*2:英語ではLocustと呼ぶ.本書では「バッタ」と訳すとしているが,本来は群生相のもののみを指す単語のようだ.また語源はラテン語の「焼け野原」だとあるが,私が調べた限りでは節足動物全般を指すラテン語Locustaがフランス語経由で英語に入り,特定の意味になったようだ.

*3:この異情なまでのバッタ愛は彼のブログ「砂漠のリアルムシキングhttp://d.hatena.ne.jp/otokomaeno/ に余すところなく描かれている

*4:バッタを大量に飼うことの苦労,卵の大きさを測定する途方もない作業量,塗りつぶし実験などが淡々とかかれている

*5:渡航までの苦労話もなかなか迫力がある

*6:コラムとしては,一時マスコミをにぎわせた「カマキリが大雪を予知する」話が嘘であることの弘前大学時代の恩師による検証についても書かれている.

*7:本書はまた著者の読者むけサービス心満点の叙述に満ちている.私が思わず吹き出したのは,卵の大きさ操作実験を発表した後,同期のマドンナ的な存在である女性研究者から「前野君は普段変態だけどいろいろ工夫して研究してる姿はかっこいいからがんばってね」と声をかけられ「自分,バッタにしか興味がないから」と答えてしまった話だ.