「ダーウィンフィッシュ」

ダーウィンフィッシュ―ダーウィンの魚たちA‐Z

ダーウィンフィッシュ―ダーウィンの魚たちA‐Z


本書は魚類学者ダニエル・ポーリーによる「ダーウィンによる魚に関する言及」をすべて集め,アルファベット順に整理した上で詳細に注釈をつけたという風変わりな本である.集められた項目は478項目で,ダーウィンの引用元は958箇所になる.そう書くとなんだかかなりつまらない本のようにも聞こえるが,実はこれが何とも傑作な渋い本に仕上がっている.原題は「Darwin's Fishes」,もちろんDarwin's Fiches(ダーウィンフィンチ)との語呂合わせを意識したものだ.


著者のダニエル・ポーリーは巻末の訳者たちによる「原著者紹介」で「学界屈指の不撓不屈の人」「この分野において世界でもっとも生産的な研究者のひとり」「いわゆるフェルミ推定に基づき,しばしば大胆な仮説を提唱・・・世界中で賛否の大議論が巻き起こることもしばしば」などと表現されていて*1,ものすごい碩学でかつ歯に衣着せぬぶりが顕著というかなり型破りな感じがあふれている.元々論文に何か気の利いたダーウィンの引用を入れようとして調べ始めたところ止まらなくなってこの百科事典的な本につながったという経緯もその人柄をよく表しているように思われる.
本書ではその膨大な知識量*2,(大幅な脱線を含む)何でも書いちゃう大胆さによる記述ぶり,さらに学術用語周りのダジャレを含むユーモアのあふれるジョークが加わっていて,玉手箱をひっくりかえしたような味わいがある.そしてもちろん項目はすべてダーウィンがらみであり,ダーウィンの考えが背景に浮かび上がる読書体験も本書の魅力の一つだ.
細かな体裁にもいろいろ工夫があってダーウィンのオリジナルな記述は文字の色を青にしてわかりやすく引用してくれている.またダーウィンが考察したことを現代的視点見るとどうなるかについて丁寧に解説があるし,論争したことについては星取り表的に教えてくれている(「これについてはダーウィンに1ポイント」)のも読んでいて楽しいところだ.


この本は詳細がすべてだ.私が面白く感じたところをいくつか紹介しておこう.

  • ダーウィンは若い頃に熱烈な釣りファンだった.いかにも釣りバカ的な手紙が紹介されている.ビーグル号の航海でも食料調達に貢献しているらしい.昆虫採集の方は有名だが,これはあまり知られていないのではないだろうか.なおダーウィンは釣り仲間のことをBrothers of Anglers と表現していて,これはAnglingする人とアングロサクソンのアングル人をかけたしゃれらしい.
  • ダーウィンは(ヒトの髭について男性にだけあることから性淘汰形質ではないかと考えていたが)コイやナマズのヒゲについてもかなり詳しく調べ,それが性淘汰形質であるかどうか考察している.
  • ダーウィンは中国料理のツバメの巣の主成分が海藻なのか魚卵なのかという論争について,それはどちらでもなく唾液だと正しく推測している.
  • 魚類の生活史戦略の大きな制約要因は鰓の効率だ(これはポーリーの洞察)
  • 当時は魚類標本の遠距離輸送は難しい問題だった.ダーウィンは何度か失敗した後,アルコール液浸標本について腐りかけたブタの膀胱膜,スズ箔,膀胱膜の3重の封印が効果的と見いだした.
  • ダーウィンは水中の呼吸について鰓呼吸の方が有利だと考え,クジラ類が時に水面に浮上せざるを得ないのは進化史による制約だと考えていた.ポーリーの解説によると,水中では場所により酸素が少ないことがあり,浮上さえすれば常に大量の酸素が得られる空気呼吸が有利な局面も多く,マッコウクジラが深海で機敏に獲物をとれるのはこのメリットのおかげである.
  • ダーウィンはカレイやヒラメについていくつかの論争に巻き込まれている.そして発達に伴う目の動きについてそれを自然淘汰から説明している.この議論は,このように90度回転した生物がもう一度90度姿勢を変えるように進化適応したときに,元に戻らずに180度回転することがあり得ることを示唆する.そして現在,なぜ脊椎動物において右半身が左脳に,左半身が右脳につながっているかという問題は,このような180度回転がかつて生じたことから説明できる.
  • ダーウィンは魚の発電能力の進化についても深く考察しており,いくつかの魚類で,筋肉組織の相同でない部位から,何度か独立に進化したことを理解していた.
  • ダーウィンは人為淘汰の例の一つとして金魚にも興味を持っていろいろと調べている.なおフナの西洋における最初の科学的記載は金魚を元に行われたらしい.
  • ダーウィンはクジラの起源についてOriginにおいてクマを祖先とした進化シナリオを提示していることで有名だが,元々はカピバラを食べるジャガーのイメージで考察していた.
  • ヨツメウオには左側交尾系と右側交尾系の2タイプがある.
  • 著者によるとその場しのぎの議論を見破るのは簡単で,「理論的にはそうであるかもしれないが,私の扱っている○○の場合事態はより複雑で・・・」という前置きとともに,特定データを説明する込み入った仮説が提示されるのがその典型である.


というわけで本書は万人向けとは言いがたい.お値段もそれなりに高価だ.しかしダーウィンや魚類に興味のある人にとっては得難い書物だろう.オタクによるオタク向けの本というか,わかる人だけわかればいいというギャグがふんだんに織り込まれ,ツボにはまった読者はにやにやしながら延々と関連項目をさまよって時間のたつのを忘れることができる.私は大変楽しいお正月を本書とともに過ごすことができた.少なくともダーウィンオタクを自負する人々には必読本だと断言しておこう.








 

*1:なお冒頭では「パリ生まれ,スイスで育ち,苦労してキール大学を卒業」とある.あえて「苦労」と書くのもあまり見ないところだ.いったいどんな苦労をしたのだろうか

*2:ただし進化理論にはあまり詳しくはないようだ.非ダーウィニアン進化のところにハンディキャップ理論を入れているのは残念な誤解というほかない.