「Risk Intelligence」 第8章 賭博に勝つにはどうすればいいか その2 

Risk Intelligence: How to Live with Uncertainty (English Edition)

Risk Intelligence: How to Live with Uncertainty (English Edition)


エヴァンズは,不確実性に対処する合理的手法として期待効用最大化戦略を推奨する.そしてここからいくつかのテストケースを見る.


<ハンナの選択:心臓移植手術>


最初は成功に不確実性のある手術を受けるかどうかにかかるものだ.
ハンナのケースというのは2008年に英国でニュースのヘッドラインになったある特定事例を指している.当時13歳だったハンナは,重度の心臓病を患っていたが,命を救うことになるかもしれない心臓移植手術を拒否して病院を退院し家に帰った.両親や兄弟の元で死を迎える方を選んだのだ.児童保護局がそれが本当に本人の意思なのか両親に強要されたのかを調べると,ハンナは明確に「その手術を受けても悪い(家族と離れて手術室で死亡する)結果になる可能性があるので,受けるにはリスクが大きすぎると決めたのだ.私は普通の13歳ではなく,この病気のために深く考えることを余儀なくされた.13歳で自分が死にゆくことを知るのはつらい.しかし自分にとって何がいいかは知っている」と答えた.
引き続き(手術前の侵襲的な)治療を受け,その後手術を受けることによる(両方の結果効用とその確率を考慮した)期待効用が,家に帰って家族と過ごす期待効用より小さいなら,これは合理的決断と言える.エヴァンズは,ハンナは必ずしも数字を当てはめたわけではないだろうが,このような計算はハンナの主観的なメンタルプロセスの重要な部分を示しているのだろうとコメントしている.
なおエヴァンズはこの後日譚を語ってくれている.幸運なことに自宅に帰ってからハンナの健康状態は好転し,6ヶ月後,医師団は手術のリスクが下がったと判断した.それを知ったハンナは手術を受けることにし,手術は成功したそうだ.


イラク侵攻の期待効用>


今度は2002年のブッシュ大統領の決断だ.
アフガンのタリバン拠点は壊滅し,アルカイーダはパキスタンに逃げ込んだ.9/11の記憶はまだ生々しく,世界は米国に好意的だった.予算はほぼ均衡し,軍隊は強固で準備万端だった.これは米国に「悪の枢軸」を討伐する戦略的な好機を与えた.
当時イラク侵攻に関するリスクを指摘した政府文書としては10月のラムズフェルドからブッシュ大統領宛のメモがある.そこではいくつかの重要なリスクが指摘されていた.以下はその一部だ.(なおエヴァンズは,侵攻のリスクだけでなく,侵攻しない場合のリスクについてもリストにして考慮する必要があっただろうと付け加えている)

  • イラクに関わっている間に,他のローグ国家(北朝鮮,イラン,中国など)がそれを利用して何らかの行動を起こす可能性がある
  • イラクに関わっている間に,他の重要な外交問題北朝鮮,ロシア,中国,パキスタン,インドなど)に集中できなくなる可能性,その国際関係における米国の影響低下の可能性がある.
  • イラクに長期間関わっている間に,核保有国同士の紛争につながりかねない南アジア情勢にかかる米国の注意,影響力をそぐ可能性がある.

当時のブッシュ大統領の立場に立つと,侵攻の利益については,大量破壊兵器のリスクをなくすことから,国際関係上のメリット,イラク人民の幸福,中東での民主主義の進展,原油利権確保までいろいろ考えられる.次は生じうる事態のリストとその効用,確率を考えるべきだ.もちろんそれを数値化するのは難しいが,やらないより大まかに数字を置く方がはるかに有用だ.次にリスクについても同じようにする.エヴァンズは具体的に数字をおいた表を提示している.(この表の作り方の詳細が,期待効用算出の例ということだろう)
エヴァンズの評価によれば,その全体の期待効用はマイナスになりイラク侵攻すべきではなかったということになっている.そして数字は主観的な要素を含むので,この表だけから当時のブッシュ大統領の判断が非合理的だったとは言えないと留保している.
さらにエヴァンズは,仮にこの表の期待効用プラスになったからといって,それをやることが合理的になるわけではないとも注意している.それはイラク侵攻というオプションと何もしないというオプションの比較に過ぎない.そのほかのオプション(例えばイラン侵攻や北朝鮮侵攻)もすべて計算し,最も期待効用が高いオプションを選ぶべきだったのだと.


なかなかここはメリットあれば侵攻OK的な書きぶりで,日本的な感性では引く人も多いだろう.細かく見ると,そのような違和感は,結局それぞれの効用・リスクのリストアップ,そしてその重み付けに関していることがわかる.
エヴァンズの表では,メリットは,イラクの体制変化,イラクにおける軍事拠点の取得,原油利権,民主主義の進展の4つ,リスクは,イラクの内乱化,軍隊の死傷者,財政的コスト,世界からのサポートの減少の4つにまとめられていて,しかも最大のコストは(他と一桁違う規模で)財政コストになっている.エヴァンズ自身は英国人リベラルなのだが,リベラルにしてこれなのだから,なかなかこのあたりのプラグマティックな感覚は英米アングロサクソン文化の深い部分に根ざしているような印象だ.


<合理的なテロリスト>


テロリストが次の目標をどれにし,攻撃するかどうかを決めるにも期待効用理論は使える.そしてそれを防ぐ側も利用可能だ.

  • テロリストの効用(相手側の死傷者,経済的ダメージ,市民における恐怖の拡大,テロ志願者の増加)とリスク(相手側への国際的支持の増加,テロ組織の人気の低下,自分たちの人員ロス,費用)をリストアップし,それぞれの確率を見積もれば,決断を合理的に行える.
  • そしてそれはテロの防御にも使えるのだ.現在の防衛戦略はターゲットの脆弱性とテロリストの可能な手段に基づいて行っている.これはテロリスト側の価値観や効用を無視している.特に重要なのは,これはゼロサムゲームではないということだ.テロリストがほしがっているものと私たちが防ぎたいものは同じとは限らないのだ.

エヴァンズは実例として9/11を解説している.

  • ビン・ラディン側の価値には,トレードセンターのシンボルとしての価値毀損,アメリカをイスラムの土地に引きずり込む(イスラムからの支持を高めることにつながり,リクルートも容易に),アメリカの財政破綻を図るなどがあった.後者2つの視点からは,報復攻撃はある意味ではビンラディン側の思うつぼだった.
  • そしてイラクに侵攻することは当初予期できなかったはずだ.それはアメリカ側のコスト増という意味からは(そしてアルカイーダの拠点がないという点においても)アルカイーダ側にとってより望ましいことだっただろう.
  • これからもわかるように,事前には想定できなかったことが生じることがある.そのようなことが生じたときには再見積もりをするのも重要になる.


ここでエヴァンズが力説しているのはRQの利用というよりもむしろゲーム理論的な戦略だろう.相手の手を予想するには相手の利得行列を考えるべきだというのは当然だ.おそらく自然災害や事故などの通常のリスクの場合には,単に生起確率とその場合に被害の大きさを考えれば良いだけなので,それがリスクアプローチの主流になり,自らの利得行列を持つエージェンシーの選択を考慮するプロセスが忘れ去られがちになるのだろう.


<ヘルスケアの割り当て>


最後にエヴァンズは,期待効用方式自体,きちんと理解して用いないと馬鹿げたことになると警告している.ここで例として用いられているのが英国のヘルスケアポリシー「QALY:Quality-adjusted life-year」だ.
これは,ある疾病に対して,「死亡」か「完全治癒」のどちらかの結果になるという手術があるとして,疾病の症状をよく読んでもらった後に,事実上「成功確率何%なら手術を受けますか」を聞くアンケート*1を行い,その結果に基づいて病気の質を定量化し,その数字対コストで保険治療を認めるかどうかを決めるというものだ.


これは一見合理的なようだが,エヴァンズは問題があると指摘する.それは,これまで議論してきたような「多くの人は確率について定量的に把握できない」という問題に加えて,「効用が意味あるものでなければ結果も意味をなさない」というところに問題があるからだ.

  • 将来の病気の症状をどう感じるかを予想するのは難しい.
  • そして多くのアンケート結果の数値を平均することには意味はない.
  • 特にヒトは症状による不快な感情がどの程度続くかの見通しをうまくすることができない(つらい思いが永続すると思ってしまうが,実際には数ヶ月で調整される)


GIGOの典型例と言うことだろう.なおエヴァンズは「とはいえこのシステムは物事が数字で出されているので透明だ.だからこそ意味のある批判が成り立つのだ.つまり数字の見積もりの重要性は示しているといえる.」ともコメントしている.日本ではどのように決まっているのだろうか.中央社会保険医療協議会などの審議会で決めているようだが,実際にはどう決まるのだろう.


最後にエヴァンズは本章をこうまとめている.

  • 期待効用理論は有効だ.
  • ただしそれは効用と確率をうまく見積もれてこそだ.
  • それは見積もり訓練,新しい事象が生じた際の再見積もりの訓練を通じて向上させることができる.そして真にうまく扱えるようになると全く新しい地平が見えてくる.RQはある種のものごとの真の姿の理解につながるのだ.

 

*1:色分けした円盤を回転させてある一点を選ぶという形で確率を示すという方法で,どの円盤ならいいかを答えてもらうそうだ