「自然を名づける」

自然を名づける―なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか

自然を名づける―なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか


本書はアメリカで活躍するサイエンスライター,キャロル・キサク・ヨーンによるヒトの生得的認知傾向としての「分類する心」と,生物分類学の関わりを扱った一冊.原題は「Naming Nature: The Clash Between Instinct and Science」.後半にはかつて1980年代に燃えさかった生物分類学論争が取り上げられていて,そこも読みどころに一つになっている.なおこの後半部分はこの大論争の直接の目撃者(かつ参加者)でもある三中信宏が邦訳を担当している.


第1章には前書き的に著者の本書を執筆するに至った経緯が書かれている.著者は元々生物学学徒であり,サイエンスライターとなって生物分類の本を書こうと思い立つ.そのときまでは著者は「科学的」とされていた分岐学的な分類に何ら疑問を抱かずに,側系統である魚類という分類群は消滅して良いのだと堅く信じていた.そして科学を知らない人たちの面白い分類例をエピソード的に本に盛り込もうと調べ始めたところ,そこには既に民族分類学という学問が存在し,さらにそもそも生物分類には深いヒトの認知傾向の問題があることに気づいたのだという.
言語能力をはじめとしていわゆるモジュール的なヒトの生得的認知能力の話は進化心理学ではおなじみだが,著者は「生物を分類する心」で初めてそれに出会ったということらしい.著者はそれを「Umwelt」(訳語:環世界,環世界センス*1)と呼ぶことにし,本書の物語が始まる.


第2章はリンネの物語.ヨーロッパ人にとっての世界が拡大し,膨大な生物多様性が目の前に現れ,その同定や名称を巡る混乱が生じ,片方で世の中が博物学に熱狂している時にリンネが登場する.彼は徹底的な観察を行う熱意と本質を見抜く才能を持ち,生物界を秩序付け,学名について二命法を提案した.著者はこのリンネの仕事は環世界センスを生かした見事な例だとしている.生物が階層的に整理され,分類は最終的には直感に沿ってなされた.そして二命法は多くの人々にとってまさに環世界センスに沿っており自然だったのだ*2


第3章はダーウィンの物語.「進化」はこの環世界センスと相容れない.「種」は一定不変ではなく移り変わるし,認知的分類は進化的系統と一致しないことがあるからだ.著者はダーウィンフジツボ研究を紹介し,ダーウィンがその分類に苦労したのは進化と(環世界センス的)分類が相容れないからではないかと示唆している.そして「ダーウィンは,フジツボの分類に困惑していたある日,馬車に乗っていて突然『系統に沿った分類こそが望ましい分類ではないか』とひらめいた」というエピソードが語られている.本章ではそのほかにフジツボ周りの楽しいダーウィンのエピソード*3も多くダーウィンファンには楽しめる*4


第4章はマイアの物語.環世界センスだけに頼ってきた生物分類は「進化」に対してどう対応したのか.まず20世紀分類学の巨人マイアの若いときからの自信満々の遍歴が紹介される.
当時分類の世界は,実験分類学ジュリアン・ハクスリーの体系学の試みが失敗し,具体的な分類についてはスプリッターとランパーが互いにののしりあっていた.著者はスプリッターとランパーの論争の背景を詳しく解説している.要するに結局ダーウィン以後も主流の分類学は環世界センスに頼っており,環世界センスはひたすら主観的なもので人によっては一致しないのだ.
マイアは分類について「進化分類」を主張したが,結局特定の共有形質を相同と考えるか相似と考えるかについては主観的な基準しか提示できなかった*5.またマイアはニューギニアの鳥類についての民族分類と科学的分類が一致したことから「種」は実在すると信じ,生物学的種概念を提唱した(もちろんその一致を説明するには「種が実在する」という解釈の他に「ニューギニアの現地民族も西洋の科学者も同じ環世界センスを生得的に持っている」という解釈も可能なのだ).しかしそれは例外と問題が山積し,問題は泥沼化した*6.しかしマイアも多くの分類学者たちも,引き続き「種」の「実在」を信じ,主観的な基準で仕事をし続けた.著者は彼らは環世界センスから抜け出すことをよしとしなかったのだと解説している.


第5章から第7章までは環世界センスについて.まず民族分類学が紹介される.様々な面白い民族分類や,調査方法の難しさの解説の後,その成果として広く通文化的なユニバーサルがあること*7が説明される.詳細な解説の後でその分類法がルールとしてまとめられている.私流にまとめなおすと以下のようになる.

  • ひときわ強い印象を与える生物群に着目し命名する(魚など).印象を与えない生物(微小生物など)は無視する.
  • 生物群同士は入れ子状の階層を持って分類する
  • 名前の発音は生物群の特徴に合わせる
  • (一目でわかる分類を「属」としその中の詳細な区別を「種」とするなら)属数の上限は600程度*8
  • 属内の種数は(属内の種数を横軸,そのような種数を持つ属数を縦軸にしてプロットすると)ウィリスのカーブに従う(大半の属が1属1種か2種,ごく少数の属のみが多くの種を持つ.全体で下に凸のカーブになる)


次にこの環世界センスがモジュール的な生得能力であることが扱われる.著者はヒトの認知にはこのような生得的モジュールが多数あることについてあまり詳しくなかったようで,新鮮な驚きを持って,脳損傷患者の不思議な症例,子供の発達時期にみられる現象,それが食べ物の認知に絡んでいることを詳しく紹介し,「生物」を分類する心が生得的な認知能力であることを解説している*9
この後著者はこれが自然淘汰によって進化した能力だとし,仮想的な狩猟採集における適応場面を描いている.もちろん淘汰産物であるのは間違いないだろうが,やや説明の仕方はナイーブでいただけない*10
そして分類学における泥沼の論争,すなわち種問題やランパーとスプリッターの論争の根元はこの環世界センスにあると喝破する*11


第9章からはこの環世界センスが絡む「分類学大論争」編.
環世界センスによる伝統的な分類法に最初に異を唱えるのは,ソーカルに始まる「数量分類学派」だ.著者はソーカルには環世界センスが欠けていたのだろうと推測している.いずれにせよ彼は多岐にわたる形態の測定値を徹底的に集めて統計分析し,全体的類似度から系統樹を作成することにより,分類に客観的な根拠を与えようとした.この手法により最初に得られたハチの系統樹はそれまでの直感的な分類とよく合致した.
しかし当然ながら伝統的分類学者はこれをばかげたやり方だと考え反発し,数量分類学派は相手が科学的でないとののしり,70年代には論争は醜悪化した*12
著者は,数量分類学派は結局全体的類似度にのみ基礎をおくので進化的な分類になり得ない(相同と相似を区別できないということだろう)という欠陥を持っていたが,真に嫌われたのは環世界センスを放棄してコンピュータで計算するように分類すべきだという主張だっただろうとまとめている.しかし片方で数量分類学派は伝統的な分類手法には客観性が欠けていることも明らかにしたのだ.


伝統的分類学への次の攻撃は分子生物学からきた.タンパク質のアミノ酸配列やDNA配列を手がかりに分類すべきだという考え方,分子分類学派だ.そして彼らは隠蔽種の広範囲な存在を明らかにし,3ドメイン説を提唱した.マイアはこの環世界センスに基づかない手法に直ちに反発した.今度の敵は計測ノギスを持つコンピュータ野郎ではなく,フリーザーと分析器を振り回すジェル野郎なのだ.両者の主張はかみ合わず,80年代にはやはり泥沼の論争となる.


そして環世界センスにとっての最強の敵,分岐学派が現れる.分岐学はドイツの分類学者ヴィリ・ヘニックにさかのぼる.彼は共有派生形質に注目して,最節約法により系統樹を推定すべきだと主張し,50年代にその原理を(ドイツ語の)本にまとめた.そしてゆっくりこの考えは本の英訳とともに英米圏にも浸透し,この手法こそがダーウィンが望んだ進化系統を基礎にしようとする考え方を突き詰めたものであり,論理的に非の打ち所がないことが明らかになる.少しづつ伝統的分類学から分岐学への(ある意味宗教的背教にも似た)転向者は増えていった.そしてこの考え方を信奉する新世代の過激な分岐学者が最も激しく醜い論争を巻き起こすことになる.マイアは分岐学者たちのことを自分だけが正しいと傲慢にも主張するヤンキーの悪ガキだとみなし,分岐学者は伝統的分類学者を専門バカのもうろく爺だとけなした.著者はこの論争を「憎悪の時代」と名づけてこう描写している.

  • 大方の分岐学者はどこかおかしい男性研究者で,頭は切れるが他人にもキレ,社会人として当然の対人スキルにさえ欠ける変人振りには唖然とするばかり
  • それぞれの学派は極端かつ病的に排斥し合った.…… 誰が何を信じているか.うわさ話が乱れ飛び,憶測が駆けめぐる,その結果.魔女狩りのごとく「隠れ分岐学者」が暴かれたあげく追放されたり,熱に浮かされたような転向が,神ヘニック,あるいは魔界転生したどこかの分岐学者の前で宣言された.一方でマフィアも顔負けの血の復讐,ロマンス,謀略,自己犠牲,裏切り,総括もあった.……

血の復讐というのは本当なのだろうか?ロマンスというのもちょっと興味深い.いずれにしてもグロテスクな論争だったのだろう.


論争はナスティでも分岐学には功績もあった.著者は,伝統的分類学が持つ(客観性の欠如という)弱点を明らかにし,かつ相同と相似を区別する明確な方法論を確立したことをあげている*13.いずれにせよ科学的な分類は環世界センスから分岐学的手法へと転換していくのだ.


ここで著者は分岐学の主張の一つ「側系統群は自然分類と認めない」という問題を取り上げる.これは科学的に非の打ち所のない分岐分類が最も環世界センスと衝突するところだからだ.側系統群を認めないとすると「魚類」も「偶蹄目」も「シマウマ*14」も分類としても認められないことになる.


そしてこのように環世界センスを無視したままで生物学が進んでいくことへの懸念が第11章以降のテーマになる.
まず著者は現代人が環世界センスから切り離されていることを嘆く.現代社会においては,ごくまれな昆虫採集家やバードウォッチャーなどの例外をのぞけば皆環世界センスと切り離されて生きており,生物分類は専門家に任せてしまっている.そして魚類やシマウマなどいないという御託宣を受け入れざるを得ないところに追い込まれている.しかし環世界センスはヒトの心の深いところにあるのだ.だからそれは時に(ファイロコードへの反発,進化を否定する創造論信者などの形で*15)表に現れるし,多くはショッピングモールでのロゴの分類などに使役される*16
著者は環世界センスを前提にすると,わたしたちが目の前の生物をどう呼ぶかについて分岐分類に従う必要はないだろうし,有害でもあると最後に主張する.そして直感に反する分岐分類を押しつけることは個々人の生物世界に対する無力感を与え,生物多様性の喪失の問題に関する無関心の原因にもなっていると糾弾して本書を終えている.


最後はさすがに勇み足的な印象だ.分類についてもたとえば「クジラは巨大な魚でいいではないか」とまで書いている.そこまで行くと,私としてはもはや賛成できないところだ.また普通の人にとっては分岐分類学者がなんといおうと「魚類」という分類を使っているだろうし,そういう分類は正しくないと力説されてもあまり気にしないだろうから,これが大量絶滅,生物多様性の喪失問題への無関心につながるというのもなんだか極端な誇張された主張に思えるところだ.
とはいえ,生物分類は系統推定とは別に認知心理学的に決めていけばいいという主張ならそれはよくわかる.「種の実在性」の議論はあるとしても,認知的にはそれは見えてしまうのだから認めればいいし,ある単系統群のごく一部が大きく形態を変えて進化した場合に,残りの側系統群は認知的にはひとまとまりに見えるのだから,それに(側系統群であることをきちんと断った上で)名称を与えてもいいではないかというのはまっとうな主張だろう.そうすれば魚類もシマウマも復活することができる.


というわけで本書は分類学の歴史,ヒトの生得的な生物認知モジュール,分類学大論争,認知心理学的分類の提唱というトピックをうまく関連づけて面白い物語に仕上げてくれている本だ.一部初歩的な勘違いや勇み足的な記述もあるが,全体として上質の科学読み物として推薦できる.



関連書籍


原書.カバーの絵はこちらの方が素敵に思う.なぜわざわざ切り抜いてコラージュのような変なカバーにするのだろうか.

Naming Nature: The Clash Between Instinct and Science

Naming Nature: The Clash Between Instinct and Science



訳者の1人,三中信宏の一連の著作.分類と系統は異なる知的営みで,分類は系統と別に認知心理学的に構築すればよいという本書と基本的に同じ主張をかなり以前から行っている.
私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20060822http://d.hatena.ne.jp/shorebird/20060730http://d.hatena.ne.jp/shorebird/20091014http://d.hatena.ne.jp/shorebird/20101102


生物系統学 (Natural History)

生物系統学 (Natural History)

系統樹思考の世界 (講談社現代新書)

系統樹思考の世界 (講談社現代新書)

分類思考の世界 (講談社現代新書)

分類思考の世界 (講談社現代新書)

進化思考の世界 ヒトは森羅万象をどう体系化するか (NHKブックス)

進化思考の世界 ヒトは森羅万象をどう体系化するか (NHKブックス)



 

*1:元々ドイツ語で周囲の世界,環境を意味する単語.理論生物学者ユクスキュルにより「動物が知覚する世界」という意味の専門用語となった.著者はさらにそこに,それを周りの生物世界を把握する生得的な認知能力の意味に使っている. 10/16ミススペル訂正

*2:二命法は属名と種名を並べるやり方だが,日常会話は属名か二名でなされることが多い.たとえば,カラスとかキツネとかは属と一致する.そして大きなカラスとかアメリカのカラスという言い方になる.これは属が直感的にぱっとわかる分類で,その中を子細に調べると種の違うもの(ハシブトガラスハシボソガラスなど)が含まれているということが多いためだ.もちろんそうではない日常的な分類群名称も多い.トラやライオンはヒョウ属の中の種名になる

*3:矮小オスのいるフジツボにかかる観察が詳しく書かれている.これをよく調べるためにダーウィンは特注した倍率1500倍の顕微鏡を使っていたそうだ.倍率が高くても当時の技術だと可視光の波長の問題からあまり解像度は上がらないので観察はなかなか難しかっただろう

*4:なお著者はダーウィンフジツボに取りかかるまでは,生物に個体変異が欠如していると考えて悩んでいたとしているが,ビーグル号で精力的な仕事をしたダーウィンが生物界に個体変異があふれていることに気づかなかったとは信じられない.また著者は進化には詳しくないようで,「医者がインフルエンザで抗生物質をなかなか出さないのは耐性進化のためだ」と書いている.もちろんそうではなくてウィルスには抗生物質は効かないからだ.このあたりは著者のサイエンスライターとしての力量を疑わせるものでちょっと残念な記述だ.

*5:著者は走鳥類についてのマイアの誤り(論文でダチョウやレアの飛べずに二本足で走り回る性質は収斂による相似形質だとしたが実際には相同形質だった)についても紹介している.

*6:マイアはこの泥沼を乗り越えるためには「分類学者たちはもっと論文に「品位」を持て」と主張したそうだ.論争のナスティさがしのばれる.

*7:ここでユニバーサルの1つとしてtreeとbush(木と灌木)の区別が書かれているが,日本語では明確な区別がないのでなかなか訳していてつらかっただろう.

*8:著者の夫,及び知人という二人のプロの分類学者に知っているだけの属数をあげてもらうとどちらも600弱でギブアップになったそうだ.私もちょっとやってみたが,1時間弱かけて,哺乳類100ぐらい,鳥類150ぐらいぐらいリストしたところで,どこまでが属なのかわからなくなって挫折した.大体300〜400ぐらいで止まりそうだ

*9:著者は男の子が恐竜やポケモンの名前と分類に夢中になるのもこのためだろうとしている.なぜそこに性差があるのかは興味深い問題だがここでは扱われていない

*10:ここでは続いてほかの動物にも同様な能力があるのではないかと示唆している.ここはちょっと面白いところだ.

*11:なお著者は化学や物理はこのような環世界センスと対立しないのでこのような問題が生じないと書いているが,これは疑問だ.素朴物理学はニュートン物理学とも既にかけ離れていて(重いものほど速く落ちるなど)学生の理解を困難にしかねないし,相対性理論量子論とは完全に相容れない.確かにあまり素朴化学については聞かないが,化学的現象の中には直感的には把握困難なものも多いだろう.もっともこの素朴センスにのみ基づいてがんばるプロの学者が少ないか多いかという点においては確かに生物学と物理化学には差がある.この分野の差の理由もちょっと面白いところかもしれない

*12:数量分類学派について,GGシンプソンは「狂信的」,マイアは「古くさいイデオロギーを信奉」している上に「生物学的な進化分類の原理を理解していない」と評したそうだ

*13:なお最初卵泥棒とされたオヴィラプトルが実は卵を守る母親だったことが明らかになったことを分岐学の功績としているが,これは疑問だ,単に古生物学のより緻密な再解釈が行われたということだろう

*14:伝統的な分類ではシマウマには3種あって,ナミシマウマ,ヤマシマウマ,グレービーシマウマとされている.しかし分子的な証拠からはグレービーシマウマは,ほかの2種よりロバに近縁であることが明らかになっている.だからロバを含まないで3種のシマウマだけを含む分類群は認められないということになるのだ.なおそれを知ってから図鑑の写真などを見ると確かにグレービーシマウマはほかのシマウマと体型が異なりロバ的に見えてくるからヒトの認知というのは面白い

*15:著者は創造論についても環世界センスを大きな要因としているが,これもやや大げさな主張に聞こえる.それは宗教的な信念に力を添えているという程度の問題だろう

*16:著者はヒヨコの雄雌鑑定にもこの能力が使われていると指摘している.もっともこれは特別に訓練されたパターン認識能力の問題ではないだろうか,さらになぜ雄雌鑑定が重要かについて「メスのみがおいしいフライドチキンにできるからだ」とあるが,これも明らかな間違いで,もちろんメスのみが卵を産めるからだ.