「Did Darwin Write The Origin Backwards?」 第2章  「ダーウィンとグループ淘汰」 その4 

Did Darwin Write the Origin Backwards?: Philosophical Essays on Darwin's Theory (Prometheus Prize)

Did Darwin Write the Origin Backwards?: Philosophical Essays on Darwin's Theory (Prometheus Prize)


ダーウィンとグループ淘汰.ソーバーはまず「Descent」のヒトの道徳の記述,「Origin」のミツバチの針の記述をあげた.ここでダーウィンをどう解釈するかについては「グループ淘汰」についての定義が問題になるとして定義の問題を扱う.

アナクロニズムのリスク>

ソーバーはまず自分の(マルチレベル淘汰的な)定義をあげている.

  • 個体淘汰はグループ内の淘汰,グループ淘汰はグループ間の淘汰
  • そしてここでグループの適応度は,グループ内の個体の子孫の数で測る(生み出す子グループの数ではない)
  • 両タイプの淘汰は同時に起きうる.グループは繁殖単位である必要はない.

ソーバーはさらにこの定義を用いると血縁淘汰はグループ淘汰の中に含まれるとする.そして多くの論敵はこれを認めないと主張している.
まずソーバーが最初にあげるこれを認めないという議論の例は1960年代のメイナード=スミスのものだ.そして最近の論敵の議論は「血縁淘汰はグループ内の血縁度がグループ間の血縁度より高い場合に当てはまる」とするものだとし,論敵たちははこれによりグループ淘汰を排除しているのだと非難している.しかし具体的な引用はなく,最近の論敵が誰かもよくわからない.
ここは全く納得感のない部分だ.1990年代ならいざ知らず,少なくとも2000年以降は包括適応度理論とマルチレベル淘汰理論の数理的な等価性は,ほとんどの包括適応度理論家に認められているだろう.


そしてソーバーはダーウィンに戻る.そしてダーウィンは決してナイーブグループ淘汰的ではなく,グループが血縁で構成されていることの重要性を認識しており,これは(マルチレベル淘汰理論的には)グループ間淘汰の方が強くなる条件(利他的個体同士がより相互作用しやすい)の1つの手段として血縁を認識していたと解釈できるとまとめている.

確かにマルチレベル淘汰理論のフレームに押し込むとそう解釈できないわけではないだろう.しかし「進化条件として血縁を意識している」というのはどちらかと言えば血縁淘汰的だし,いずれにしても理論的に等価なのだからどちらのフレームからも解釈できると言うことだろう.


ダーウィンのヒトの道徳の議論 追加>


ここでソーバーはダーウィンの道徳性の議論に戻る.前回はグループ淘汰的記述だけを引用していたが,実は議論全体は結構込み入っていると認める. そして前回の引用の前後も引用し,議論全体を見るとグループ間淘汰により道徳性が進化するためには,グループ内で個体淘汰的に不利な道徳性が進化することを(グループ淘汰を用いないで)説明する必要があることを認識し,直接互恵性や間接互恵性のような議論を持ち出していることを指摘する.実際にダーウィンの議論をみてみよう.

(直前部分)

  • ヒトが生態的に成功しているのは知能の進化によるものだろう
  • 発明の才能の進化:ある部族の1人に才能があれば,他のメンバーはそれを模倣することができ,その部族は他の部族を凌駕できる.そのようにして人口が増えた部族はさらに別の優れた発明の才能があるメンバー生みだす機会を多く持つ.そのような才能を持つ人はさらに才能を持つ子供を生みだす可能性を多く持つだろう.仮にその人が子を残さなかったとしても,その部族には彼の血縁者がいるに違いない(のでそのような才能を持つ子孫を生みだしていくことができる).
  • 同じようなことは道徳的能力にも当てはまるだろうか.

(最初の引用の前半部分)

  • 同情的で親切な人の子孫は利己的で意地悪な人の子孫より多いというのは疑わしい.利他的な人は仲間のために犠牲になりやすいからだ

(中略部分)

  • このように利他的な性質は(発明の才と異なって)単純な説明が難しい.
  • しかし可能な段階のいくつかをたどることはできる
  • 各メンバーは自分の経験から誰かを助ければ普通はお返しを得るということを素速く学習するだろう.このような下賤な理由からヒトは仲間を助ける習慣を身につけるだろう.そしてこの習慣は(第3章で説明した通り,自然淘汰で獲得された)共感の本能を強め,ついに遺伝するようになっただろう.
  • そしてもっと強力な刺激がある,それは仲間からの賞賛と非難だ.これに反応するのも自然淘汰による共感の本能に基づくものだ.

(最初の引用の後半部分)

  • 道徳的なメンバーの犠牲は同じ部族の仲間の利益になり,さらにそのような利他的なメンバーが多いグループは他の部族に対して有利になる

私の解釈では,これらを通読するとダーウィンの考え方は基本的に個体淘汰であり,単純なナイーブグループ淘汰で道徳を説明しようとはしていないことは明らかだということになる.そして直前には血縁淘汰的なコメントがあり,中略部分には,直接互恵利他,および間接互恵利他のアイデアが述べられている.もちろんダーウィンの記述はあいまいであり,血縁淘汰や互恵利他そのものをストレートに主張しているわけではない.しかし行為者が属する部族は他の部族に比べてより自分に近縁の血縁集団でありそれを通じて行為者の性質が後代に遺伝しやすいこと,お返しを得るという利益は利他的性質を個体淘汰的に説明できる可能性があることを示している.間接互恵性についてはむしろ副産物的な記述になっているのが惜しいといえば惜しいが,いずれにせよダーウィンが当時の理解のはるか先を行っていたことを示している.ダーウィンはただ1人,時代を100年ほど突き抜けていたといってもよいだろう.(なお直接互恵性を強調していないのは意識的な動機が下賤であって道徳とは相容れない考えていたからのように思われる.)
そしてこれは包括適応度理論の立場から見れば立派にその考え方を用いていると解釈できるのであり,(それと等価な)マルチレベル淘汰の立場から見てもそれを支持していると解釈可能だということになるだろう.というわけでソーバーが「ダーウィンの議論はナイーブグループ淘汰的ではなくマルチレベルグループ淘汰的である」というなら,そのような解釈も可能だろうと思う.しかしこれを包括適応度的に解釈するドーキンスたちの解釈もまた同じように可能だろう.


なおソーバーは,「ダーウィンはグループ内での利他性の進化についてはグループ淘汰以外で説明する必要がある」ことを認識していたと指摘し,グループ内淘汰の議論をここで止めている.しかしもしダーウィンがソーバーの愛するマルチレベルグループ淘汰的なフレームで物事を考察していたなら,「部族」というグループ内でさらに血縁の濃い薄い,あるいは互恵関係にあるないなどのサブグループを持ち出したはずではないだろうか?ここを「グループ内では血縁関係があり,互恵的な利益もあった」という言い方をしているというのは,「どちらかと言えば」ダーウィンの思考フレームは血縁淘汰的なフレームに近いと解釈できるのではないだろうか.

またダーウィンが互恵的なフレームをあまり押し出していないのはそれが下賤な動機に基づいていて道徳とは異なると考えたからではないかというのが私の解釈だが,ソーバーはその疑問には触れていない.ソーバーはその代わり,結局グループ内淘汰を互恵性で説明するなら,なぜそもそもグループ間淘汰を持ち出す必要があったのかについて触れている.ソーバーの解釈では「おそらく,そうやって利他性が高まったグループは実際に競争に勝ったと考えたからだろう.そこにはヨーロッパ人の他人種に対する成功が背景にあったのかもしれない」ということになるようだ.これはそうかもしれない.