Did Darwin Write the Origin Backwards?: Philosophical Essays on Darwin's Theory (Prometheus Prize)
- 作者: Elliott Sober
- 出版社/メーカー: Prometheus Books
- 発売日: 2010/12/01
- メディア: ペーパーバック
- クリック: 4回
- この商品を含むブログ (3件) を見る
ソーバーはここまでに性比理論の学説史を整理した.ここからは性比理論を題材にした哲学的エッセイとなっている.
<テストケースとしての性比理論>
ソーバーはここで性比理論の持つ意義について整理している.
- 現代の性比理論は検証可能な予測を与える
- しかし現在アインシュタインの一般理論のような性比の一般理論はない.様々なモデルの集合があるだけだ.
- そしてある生物グループに妥当する理論は別の生物グループには当てはまらないという状況が生じうる.あるいは今提唱されているモデルがどれも当てはまらない生物グループがあるのかもしれない.そうなれば,別の検証可能なモデルが探索されるだろう.
- これらのモデルの予測は確率論的に理解されるべきものだ.そしてモデルのそれぞれの前提は,そのモデルの予測に向けての「要因」として理解されるべきものだ.特定の繁殖システムとその性比の関係はある意味「喫煙と発癌の関係」に似ている.検証も同じようにされるべきなのだ.
いかにも哲学者的で面白い指摘だ.もっとも一般理論がなく様々なモデルがあるだけという表現にはやや違和感がある.適応にかかる一般理論には集団遺伝学的な理論があり,それに対する近似モデルとして様々な前提に対して様々なモデルがあるということではないだろうか.
さてソーバーは最後に「モノガミーとポリジニーという繁殖システムを使ってダーウィンの議論をテストする」という試みにより性比理論の予測と検証についての解説を行っている.
- ダーウィンの議論によれば「モノガミーでは性比は1になる」ということであり,自然な帰無仮説は「モノガミーかポリジニーかに性比は関係しない」ということになるだろう.
- そして単にある生物がモノガミーかつ性比がメスに傾いているとか,ある生物がポリジニーでかつ性比が1であるということだけではダーウィンの仮説は棄却されない.より構造化された検証プログラムが必要になる.いずれにせよ,理論的予測は繁殖システムと性比を様々な集団で観測して検証することができるのだ.
- 創造論はこのような理論を持たない.どのような性比も神の意思であるならどのような予測もできないのだ.だから神がどのように意思決定したかの議論に対する独立の証拠は存在し得ない.
そして最後にソーバーはまたグループ淘汰の話題に戻る.
- ダーウィンは(性比の議論を通じて)個体にとって不利なことがグループ全体にとって有利になりうることに気づいている.第2章で論じたようにそれはダーウィンをグループ淘汰思考的に進めた一つの要因だっただろう.
- このような「利害のコンフリクト」というアイデアは現代進化生物学の中に受け継がれており,ゲノミックコンフリクトや親子コンフリクトなどダーウィンが想像すらできなかった概念につながっている.
- 個体淘汰のみを信じる者は「自然淘汰は常に個体の生存や繁殖を助ける方向にのみ進む」と考えるかもしれない.しかしマルチレベル淘汰の視点を持てば,常に進む方向などないことがわかる.
- そして「コンフリクトの概念」は,単に「悪の存在の問題」を超えて,「デザイナーの恩寵」から物事を解釈するのを難しくする.またそもそもデザイナーは誰に対して恩寵を施しているのかわからない.
- 片方でダーウィンや現代の生物学者が,「個体のためによいこと」とか「グループのためによいこと」というときにはもっと明確な概念がある.創造論者はデザイナーがある性比を望んでいるとしかいえない.これに対して進化学のモデルは生物学的なパラメータと性比の間には何らかの因果的なリンクがあることを示しているのだ.
前回みたようにダーウィンは確かに性比を考える際に,「産仔数が増えるのは生存競争が激化して種のためによくない*1」という視点を入れ込んで,オスに歪んだ集団の性比が自然淘汰によって1に近づくときには,オスを子の数を減らしてその投資を残った子に振り向けるように進化した方が種のためだと論じた.これはある意味グループ淘汰的だとも感じられ,ソーバーの最初の趣旨はそういうことだろう.しかしダーウィンは最後には,そのような性質は「少数の子により投資をつぎ込むことにより親が有利になる」という個体淘汰的な理由によりそういう進化が進むという説明を行っている.これは論理形式としては個体淘汰を貫いていると評価できるだろう.
2点目の指摘はその通りだが,しかしこれらの拡張は基本的に(グループ淘汰的なフレームではなく)包括適応度理論のフレームで行われていることに注意が必要だ.この指摘をこうつなげるソーバーのやり方はかなり強引だろう.
ソーバーの3点目の指摘はさらにいかにも我田引水的だ.包括適応度的に個体淘汰を考えれば,「自然淘汰は常に個体の生存や繁殖を助ける方向にのみ進む」と考えるはずがない.(というか,そもそも包括適応度理論は利他行為の進化を説明するためにハミルトンが組み上げた理論なのだ)これは筋悪のかかしの議論に近いだろう.DSウィルソンほどではないが,ソーバーもグループ淘汰になるとやや議論が筋悪に流れてしまうようだ.
なおもうひとつこの章全体を読んで不満が残るのは,冒頭で取り上げた『ヒトの出生性比はなぜ男子に傾いているのか』についての現代的解釈を解説していないところだ.テストケースとして取り上げておいた方が読者に対して親切だろう.
現代的にはこれは基本的にフィッシャー的に解釈できて,「男子の若年死亡率が高いので,独立までの投資額を同じにしようとすると(男の子と女の子に対する一人あたりの投資額があまり変わらないとすると)出生時には性比は男子に傾くことになるからだ」と説明できるだろう.
もっとも定量的にこれだけで説明できるかどうかについてはやや微妙かもしれない.もしそれだけなら独立時に性比が女子に傾いているはずだからだ.成熟時に性比がほぼ1になっているのだとすると,あるいは(早く親元から離れたり,手がかからなくなるために)独立までの男子への投資額がやや小さいのかもしれない*2し,分散に性差があるために(フィッシャー理論に対するもうひとつの拡張としての)局所資源競争が効いてくるのかもしれない.なお謎は残っているということに思われるし,なかなか実証も難しいところかもしれない.