「Did Darwin Write The Origin Backwards?」 第4章  「ダーウィンと自然主義 」 その3 

Did Darwin Write the Origin Backwards?: Philosophical Essays on Darwin's Theory (Prometheus Prize)

Did Darwin Write the Origin Backwards?: Philosophical Essays on Darwin's Theory (Prometheus Prize)


ここからは進化理論と自然主義についての哲学的な議論が続く.私のような読者にはややしんどい部分だ.ソーバーの議論の展開をおおまかに追っていこう.


<なぜ進化理論は干渉する神を排除できないか>

  • 前節での「進化は認めるが,事実の説明にはさらに神による干渉を必要とする主張」は「世界には隠れた要因が残っている」という主張と同じになる.そしてある理論がすべての要因をカバーしているかどうかを確かめることは不可能だ.
  • 特に進化理論がすべての隠れた要因を排除できないのは,理論が確率論的だからだ.
  • それは「コインを投げて表が出る確率は0.5だ.しかしさらに物理学的詳細が完全にわかればそれは0か1になる」という事象と基本的に同じだ.例えば「突然変異の方向はランダムだ」というときに同じ問題が背後にあるのだ.そしてこれは理論の基礎というより実証の問題ということになる.


<科学理論は自然に存在するもの以外を語ってはならないのか>

  • そもそも方法論的自然主義はなぜ受け入れられるべきだとされるのだろうか.それを受け入れない疑似科学より税金の使い道として優先されるべき理由はどこにあるのだろうか.IDの議論はまさにそこが焦点になる.
  • 一つの根拠は「科学の成功は超自然を避けたことにある」という主張だ.しかしこれは受け入れがたい.
  • 実際問題として科学は「超自然的存在」を想定することを避けてはいない.例としては「数」がある.進化理論は「数」があることを想定して成り立っている.そして少なくともある種の哲学(数学的プラトン主義)では「数」は時空に位置を持たず,超自然的存在ということになる.
  • この「数学的プラトン主義」はすべての哲学者に受け入れられているわけではないが,この議論は十分にもっともらしい.(私にはよくわからないところだが,まず数と数字を区別し,素数理論は定義の問題ではなく,素数という実体が宇宙に実在しなくても成り立つ等々の説明が続く.)そして多くの進化理論は「数」が実在することを想定している(いくつかの例が挙げられている.)すると次のことが主張できる.

科学理論は数学的な主張を含み,実在するかどうかにかかわらず「数」を想定している.

  • 科学者は「数」の実在性については悩む必要はない.それは哲学者にまかせておけばいい.そして科学は数学的プラトン主義が正しいかどうかにかかわらずに,観察事実を説明し予測することに有効であり得る.要するに科学の成功は超自然的存在を避けたことによっていたわけではないのだ.ある意味科学の成功にとってはある種の超自然的存在の想定が必要であったとも言える.


<すべての超自然にかかる主張は検証不能か?>

  • もうひとつの科学が方法論的自然主義に従うべきだという根拠は「超自然にかかる主張は検証不能だ」というものだ.
  • これは古い議論で多くの反例が知られている.混合的な主張は検証可能になりうる.「超自然的神は地球を1万年前に作った」「かごの中のリンゴの個数は素数だ」
  • 前者に関して,ペンコックは「神は古く見える地球を創造したのだ」とすればこれは検証不能だと議論した.しかしこれは命題の真偽を(「そう見える」ということにかかる)人々の認知能力の問題にすり替えている.(ここでは「神はすべてを紫色に創造した」という仮説に対して,「世界は紫色に見えているだけで実はそうではない」は反論することが,どういう意味を持つかということが論じられている.なおこの議論はかなり詳しくなされているが,私には説得的には思えなかった.「全能の神が1万年前に,『45億年前にできたように見える』地球を創造した」という主張は検証不可能だとしか思えない.)
  • だから混合主張は検証可能になりうる.では純粋に超自然的な部分はどうか.

確かにある種の超自然的主張は検証不能だろう.しかしこれには「コアな主張とはどこまでか」という問題がある.すべての主張がテスト不可能かどうかという問題もある.所詮自然主義的な主張でもすべてが検証可能であるわけではないし,そうでなくてはならないわけでもない.(この部分もポパー主義の是非などの議論が詳しくなされている)


<方法論的自然主義に反したら,それはもはや科学ではないということになるのか?>

  • さらに別の人気のある擁護論には「方法論的自然主義に従わないなら科学はまじめな営みではなくなってしまう」というものがある.
  • ここでは歴史的に見ていこう.科学革命の頃の科学者は,科学は何かを説明するのに神を必要とすると考えていた.たとえばニュートンは神の干渉がなければ太陽系は崩壊すると考えていた.しかしそれはニュートンの科学がだめであることを意味するわけではない.
  • 結局この擁護論は,「ある現象についての説明のすべてが『神がそれを望んだから』ということになれば,それはもはやまじめな営みではない」というところに依拠している.しかしそれはどんな原因であってもそれを唯一の原因としてすべての観察を説明しようとすれば同じだ.そして神を導入しただけですべてがシャットダウンされるわけでもない.Xについて神を持ち出しても,なおYについてはよい科学であり得るのだ.


<もし数を持ち出しても良いなら,なぜ神はだめなのか?>

  • 数学は科学に必要なフレームワークだ.しかし神はそうでない.神が存在してもしなくても関係ないところで多くの科学的な達成があった.要するに「数」とは異なり,科学は「神」の存在という前提を必要としないのだ.神は単なるアドオンにすぎない.
  • 結局科学の歴史は神が必要なかったことを示している.そして私の方法論的自然主義の擁護は「うまくいっているなら変更は必要ない」という消極的なものだ.科学に神の存在を加えるのは単に冗長なだけだ.あるいは善悪や人生の意味において科学はすでにうまくいっていないという論者もいるだろう.それには科学は単にそういう営みではないと答えられる.
  • 進化生物学においては様々な検証可能なモデルが出てくる.創造論からは壁しか出てこない.科学は詳細なのだ,そして創造論はそれを作れない.独自の理論はないのだ.
  • これまでの議論は神を信じている科学者にとっては厳しいかもしれない.信仰を捨てる必要はないとしても,しかし相手を説得するには相手が受け入れている前提から始めなければならないのだ.そしてだからこそ観察が科学において重要なのだ.


<結論>

  • 方法論的自然主義が説得的なのは,その説明が成功しているからだ.
  • そしてもう一つ,方法論的自然主義によるリサーチがうまく行くように世界は創造されたのだという神学的な議論が神学の世界で主流になったことがある.そしてそれは神による微妙な介入と矛盾しないのだ.
  • この世の現象を科学が神なしにうまく説明できることは神の不存在につながるという論理には穴があるのだ.神の不存在は哲学的な解釈にすぎない.不存在を正当化するには別の証拠が必要なのだ.
  • 私たちが科学について議論しているときに,実はそれは哲学的議論だったということに驚くべきではない.


というわけでこの部分は私にはかなりきつい「神と科学にかかる哲学的議論」が続いている.あまりコメントすることもないというところだが,やはり一神教が優越する社会ではこの手の考察をせざるを得なくなるのだろうというのが主な感想だ.