
進化の弟子: ヒトは学んで人になった (ジャン・ニコ講義セレクション)
- 作者: キムステレルニー,Kim Sterelny,田中泉吏,中尾央,源河亨,菅原裕輝
- 出版社/メーカー: 勁草書房
- 発売日: 2013/12/26
- メディア: 単行本
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本書は生物学の哲学の大家の1人キム・ステレルニーによる人類進化を扱った一冊である.原題は「The Evolved Apprentice」.本書の主題はヒトの認知能力にある特異性についての説明だが,ステレルニーは本書は「生物学の哲学」の本ではなく,「自然の哲学」の本だとしている.哲学的手法を用いて,ヒトの特異性を説明する試みだという趣旨だが,読んだ印象としては,様々な進化生物学者の仮説に対して突っ込みを入れ,かついくつかの独自の仮説を提示したような内容になっている.
序章ではステレルニーの考え方の特徴がまとめられている.基本的にはヒトの認知特性について進化的な説明を行うが,「単一の鍵革新に頼らず多様な要因を認める」「進化心理学の主流の考え方に対してより生得性の薄い描像を提示する」「現在ある特質を説明するだけでなくそこにいたる進化過程を考察する」「ニッチ構築に着目した学習メカニズムを強調する」などの方針が予告される.
第1章では主流の考え方となぜそれを批判するかが説明される.ステレルニーによると現在の主流の考え方はいわゆるマキアベリ知性仮説と呼ばれる淘汰仮説と,進化心理学のモジュール仮説としての構造仮説に代表される.そしてステレルニーはこのどちらに対しても批判的だ.淘汰仮説についてはそれが騙し探知を強調しすぎていることが気に入らないし,構造仮説については,モジュールのような生得的に固定したメカニズムでは人類の進化環境の特徴である「新奇性」に対応できないというのだ.後者についてステレルニーは昔から進化心理学のモジュール仮説については批判的だが,私の印象では「モジュール」とは何かについて誤解があるとしか思えないところだ.モジュールは固定化したものであってもよいが,様々な入力に対して様々な出力を行う可変的なものであってもよい.そして進化的な時間スケールで新奇性のある環境に対してモジュールが適応課題に対応できないと考える理由はないと思う.ステレルニーは本書では(これまで散々批判してきたので)これ以上モジュール仮説を攻撃しないとしているが,言葉の端々には批判が残っており,私のような読者には違和感がぬぐえない部分になっている.
ではステレルニーによる代案は何か.それは徒弟学習モデルを中心に展開される.
第2章ではその徒弟学習モデルが詳しく解説される.ヒトは生態的に新しい環境に進出し成功している.そしてそのための学習への適応が生じているはずだ.それを理解するにはニッチ構築と表現型可塑性が鍵になる.ヒトを取り巻く進化環境はニッチ構築により新奇性のあふれたものになっており,それに対応するためには(モジュールではだめで)表現型可塑性を持つ認知能力を獲得できる学習モデルが必要になる.そこでは世代間の高忠実度の技術情報伝承,ニッチ構築による生態的革新,生活史の変化(寿命延長と幼年期の存在)が正のフィードバックをおこし,さらにに同じくニッチ構築による社会環境の変化と個人の認知能力にも別の正のフィードバックが生じる.この2つのフィードバックにより専門家が未熟な弟子に混合学習として教える徒弟学習が成立する.この学習は,弟子は知識を得られ,師匠は単純作業を弟子にやらせることにより双方に利益がある形で行われる.そしてこれにより得られる認知能力は生得性のある言語能力のようなものではなく,訓練によって得られる(可塑性を持つ)識字能力やチェスをする能力のような認知能力になる.
新奇環境にはこれでないとだめだという指摘には全く説得力を感じないが,道具製作や狩猟技術の伝承においてこのような学習モデルがあってもおかしくはないだろう.特に師匠と弟子双方に利益があるというモデルはなかなか面白い.
第3章ではこの「徒弟学習モデルと識字能力的認知能力の進化仮説」により考古学的な問題をいくつか説明してみせる.
最初の問題はいわゆる現代的行動の起源(あるいは分子的な年代と現代的行動を示す考古物の年代のギャップ)の問題だ.ステレルニーはまず有力仮説としての「公的な記号・シンボルが行動を変えた」という考え方を批判する.これによると現代的行動の出現は文化の変化によることになる.ステレルニーは記号の一部は文化というより認知能力の問題かもしれないし,身体的記号が必ずしも社会の変化を表すとも限らないと主張する.この部分は様々に細かい指摘が続いていてちょっと読みにくいが,要するに記号だけでは説明できないだろうということだ.そしてこの現代的行動は徒弟学習モデルによる個人の認知能力と社会的情報環境(学習環境,社会環境,人口動態)の正のフィードバックにより生じたという仮説を提示する.実際にオーストラリアでは海を渡るという現代的行動の後しばらく考古物が中石器的になり,2万年前からようやく現代的になる.
この考え方は人口増大が様々な文化的な考古物を生みだす文化にとって重要だという考え方と結論的にはよく似ている.そのように解釈できる限りでは説得的だという印象だ.
次の問題はネアンデルタール人の絶滅だ.ステレルニーはネアンデルタールは適応地形の罠にはまったのだと考える.大型動物の狩猟というニッチに適応しすぎ,一旦気候変動などにより人口が減少したときに上述のフィードバックが逆向きに効いてしまったのだろうというのだ.これも面白い仮説のように思われる.
第4章のテーマは協力の進化だ.ここまでステレルニーは狩猟技術や道具製作などの生態的な情報伝達にかかる認知能力を扱ってきた.ではヒトの別の大きな認知特性である協力志向性はどう考えるのだろうか.協力には採餌にかかる協力のほか,情報を共有する情報協力,繁殖協力,さらに共同防衛などがある.
ステレルニーは,有力仮説としてハーディによる繁殖協力がすべての鍵だという繁殖協力仮説,ランガムによる調理がすべての鍵だという調理仮説を挙げ,いずれも面白いが,鍵革新だと考えるのは受け入れられないとする.そして,認知的な協力能力,情報プール・社会的学習,採餌生態協力・分業,繁殖協力が正のフィードバックを形成して共進化したのだという考え方を提示する.
またここで関連する仮説として,「繁殖協力説のひとつであるホークスによるおばあちゃん仮説」「狩猟は採餌には重要でなく男性の繁殖のためのシグナルとして機能しているという説」を特に批判している.
おばあちゃん仮説に関するステレルニーの議論は,採餌協力,死亡率減少,気候変動,メス分散などの現象の時間的前後を推測する議論に依拠していて,そもそもなぜそのように推測するかもわかりにくく,理解しにくい.とはいえ(ステレルニーの紹介の通りだとすると)これですべてを説明しようとするホークスの議論にも無理がありそうで,「おばあちゃん仮説は閉経の説明には妥当しても協力の進化すべてを説明できないだろう」というステレルニーの結論はもっともなところもある.
狩猟がオスの質を表す信号だという説に対する批判にはかなり力が入っている.根拠の1つは狩猟によるカロリーは実際に重要で,かつ分配は血縁者が優先されている,そして特に4万年前の雑食革命,飛び道具革命以前についてはそうだというもので,これはデータの事実性にかかる問題ということになるだろう*1.もうひとつは理論的な問題で,「狩猟の獲物が男性の質を表す信号になる」という議論に対する信号理論からみての疑問だ.これは第5章で扱われる.
第5章は協力の進化に対するさらなる議論が収められている.一般的なマキアベリ仮説,騙し探知仮説と異なり,ステレルニーは協力を破壊するただ乗りや騙しに対しては,裏切りの特定は小規模社会なら容易であるから問題にはならないため,むしろ制御が問題で,最大の問題は,集団に賛同し罰や復讐を行うことについてのコミットメント問題だとする.この少人数だから騙し探知は問題にならないというステレルニーの主張はややナイーブな印象を受ける.騙しには様々な濃淡があり,微妙な騙しにどう対処するかなど重要な問題があるように思われるところだ.
ともあれステレルニーは議論を進め,コミットメント問題の解決法について考察している.1つの解決法はゲーム理論家がよく説明する「背水の陣」方式で,コミットメントを実行することが合理的になるように利得テーブルを変え,それを相手に表示するというもの.もうひとつの解決は「感情」方式で,何らかの信号によってコミットを行うというもの.この後者の場合には信号の信頼性が問題になる.この議論の嚆矢となったフランクは感情表出がフェイクしにくい信号であることから可能であるとしている.ステレルニーはこの信号に信頼性を与える方法についてコストがキーになるのだとして以下のように整理している.
- (a)感情に直接訴えて動機を作る方式
- (b)何らかの環境改変の投資コストを払ってコミットメントの実行が合理的になる方式(犯罪集団への忠誠コミットメントを刺青で示す,結婚後の浮気しないコミットメントを女子割礼で示すなど)
- (c)騙すことにコストがかかることから副次的に正直信号になる方式(フランクの感情方式)
ここは理解しにくい.まず(a)については何のことかわからない.ステレルニーはこれをドーキンス-クレブス信号と呼んでいるが,ドーキンス,クレブスは信号を相手への操作とする見方を提示しているはずで,オリジナルの議論はコミットメントとの関連はないはずだ.そしてステレルニーのここの記述はひいき目にみても説明不足だ.(b)はコストがキーになる信号のような説明振りだが,その実体は「背水の陣」方式と同じで,投資コストが問題ではなく(それだとコンコルドの誤謬に近くなる),将来的な行動にかかるペイオフを変えている(刺青後は真っ当な社会で信頼されにくくなる,女子割礼後は浮気の魅力が減る)ことを表示していると見るべきではないだろうか.(c)はフェイクしにくければ確かにこれは成立するが,真の問題はなぜフェイクしやすいように進化できないかということだろう.感情についてはここはなかなか難しい謎であるように思う.
ステレルニーはここまで整理した後で,男性の狩猟の獲物について,これは配偶を得るための自分の質を表す信号ではなく,集団への忠誠のコミットメント問題への上記(b)の解決信号だと主張する.サラリーマンが無駄なつきあいサービス残業を行って会社への忠誠心を示すのと同じだというのだ.しかしそうだろうか.いくら狩猟につきあってコストを払っていても,実際に忠誠心が試されるときには「命がけの戦いのような場合に逃げ出すことに対する合理性」や「微妙なただ乗りを行う合理性」はなくならないだろう.(サラリーマンはその勤務振りが直接評価されつづけるし,後日命がけの忠誠を試されるわけではない.そして実際にいくらサービス残業につきあわせていても,微妙なただ乗りを行うことを阻止できるわけではない)
またステレルニーは「狩猟の獲物はハンディキャップ信号でない」と主張し,それは皆が狩猟を行っていること,集団の狩猟では個人の質は示されないことを論拠としている.しかしまず皆が行うことはハンディキャップ信号であるために何ら問題がない.問題は信号の強さが質と比例しているかという点だけだ.そして小集団の男たちが共同で狩りをしていても,狩りから帰ってきたときの男性たちの様子からそれぞれの貢献や技能(そしてその背後にあるコスト)を女性たちが見破れないと考えるのはあまりにナイーブではないだろうか.裏切りの特定が小集団では問題にならないのと考えるのとも整合性がないだろう.
確かにヒトの進化過程において社会生活におけるコミットメント問題の解決は重要であっただろう.しかしステレルニーの狩猟に関する主張はナイーブであり説得力はないように感じられる.
第6章は言語を扱う.言語はコストのかからない信号で,なぜそのようなコミュニケーション手段が騙しによりつぶれてしまわなかったかは1つの謎だ.ステレルニーは有力仮説の1つとしてスペルベルによる「メタ表象が騙しや操作に対して認識的警戒手段として作用した」という仮説を取り上げて批判する.それはあまりにマキアベリ的であり受け入れがたく,メタ表象は単に騙し検知だけでなく,コミュニケーションの効率改善にも役立っているように見えるというのだ.そして確かに1対1で利害が対立している場合のコミュニケーションのように騙しと操作の検知が非常に重要な場合もあるが,多対多で相手の反応が時間的に離れていて読みにくく嘘がばれやすいコミュニケーションもあり,後者の場合には騙しや操作の検知はそれほど問題にならなかっただろうと主張する*2.そして徒弟学習モデル(このうち特に教育にかかるもの)ではコミュニケーションは物理モデルと同居し,規範学習などの多対多のネットワークのようなコミュニケーションもあり,利害対立がなく賭け金も低いから,騙しやそれに対する認知的警戒はそれほど問題にならず,この文脈で言語は進化できたのではないかと主張する.それだけで言語の謎をすべて説明できるとは思えないが,なかなか面白い指摘のように思われる.
第7章では規範・道徳を扱う.ここでは生得的な道徳モジュールを主張するハウザーの仮説が徹底的に批判される.ステレルニーの批判を要約すると,「言語能力とのアナロジーで生得性のモジュールであると主張しているが言語とはいろいろと異なる」「道徳の内容はユニバーサルとは言えない」という2点に絞られる.
しかしこれらは批判として成立していないように思われる.確かに道徳能力は少し言語能力とは異なるし,意識的な熟考判断による道徳的思考と干渉する場面がある.この干渉過程のモデル化ができていないというのは聞くに値するところがあるとしても,しかしそれは「少し言語能力と異なる性質を持つ道徳能力の生得的モジュールがある」という主張を何ら覆せていない.ユニバーサルかそうでないかというのはデータの事実性の問題だが,ハウザーの挙げる様々な事例は十分強い道徳文法のユニバーサル性を示しているように思われ,ステレルニーはそれを突き崩せてはいないだろう.特に広く観察される「近親婚への道徳的忌避反応,そしてそれの理由付けができないこと」に対する反論にはなっていない.結局ここはステレルニーの「モジュールを狭く解釈しすぎる誤解」(あるいはあまり合理性の感じられない「生得性モジュール嫌い」)が表に出ていて議論が歪んでいるような印象を禁じ得ない.読んでいて残念なところだ.
第8章はグループ淘汰,文化と遺伝子の共進化などを取り扱う.ここではヒトの協力志向をグループ淘汰,文化と遺伝子の共進化で説明しようとする主張が批判される.基本は「ヒトの利他性は個体淘汰では説明できない」というボウルズ,ギンタスのあまりにナイーブな誤解*3を指摘しているもので妥当な批判だと思う.
以上がステレルニーの議論だ.ヒトの認知の特異性については,協力志向,心の理論,三項関係の理解,互恵協力と騙し認知,間接互恵と評判あたりがよく議論されている.これらは進化的にはなかなか興味深い問題なので特に取り上げられることが多いわけだが,ステレルニーはこれまであまり議論されてこなかった「狩猟技術や道具製作技術の世代間伝承においてはもっと素直に協力やコミュニケーションが進化できたのではないか」という視点を提示しているもので,それ自体は傾聴に値する部分があるだろう.調理や繁殖協力ですべてを説明できるという主張への批判もバランスがとれていて納得できる部分がある.
とはいえ騙しの検知はヒトの認知の進化を考察する上では非常に重要な問題だということは否定できないと思われる.また狩猟をコミットメント問題の解決法としての信号だとする主張には説得力はないように思われるし,「ニッチ構築」や「様々な特徴の正のフィードバックによる共進化」をさも重大な問題のように強調するのにも違和感がある.それらは環境に対する適応形質の進化に何らかの非線形性が生じるということで,ヒトの進化以外にもごく普通にありそうな問題だし,ヒトの場合に何か特に重大な非線形性があるようにも思えないところだ.いずれにせよ信号理論,相互に影響を与える複数形質の進化,非線形性をとりあげたいなら数理モデルで議論しなければ説得的にダイナミクスを示すことはできないだろう.このあたりは「哲学的手法」の限界かもしれない.そして繰り返しになるが,最大の違和感は,「生得的モジュール」に対する誤解(あるいは嫌悪)のところにあるということだろう.本書ではモジュール批判を正面から行ってはいるわけではないが,道徳の議論のところにその片鱗がうかがえる.
本書は哲学者らしい緻密な議論が満載で,上記のような問題を飲み込んだ上で議論を楽しむにはなかなか密度の濃い書物だと評価できると思う.私はかなり批判的に読んだが,読書経験としてはなかなか面白かったと最後にコメントしておこう.
関連書籍
原書

The Evolved Apprentice: How Evolution Made Humans Unique (Jean Nicod Lectures) (English Edition)
- 作者: Kim Sterelny
- 出版社/メーカー: A Bradford Book
- 発売日: 2012/01/27
- メディア: Kindle版
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ステレルニーがグリフィスと共著した生物学の哲学に関する教科書.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20100204.ステレルニーのモジュールに対する見解についてはこちらが詳しい.コメント欄で訳者の中尾さんからも解説がある.

- 作者: キムステレルニー,ポール・E.グリフィス,松本俊吉,Kim Sterelny,Paul E. Griffiths,太田紘史,大塚淳,田中泉吏,中尾央,西村正秀
- 出版社/メーカー: 春秋社
- 発売日: 2009/07/01
- メディア: 単行本
- 購入: 6人 クリック: 178回
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同原書

Sex and Death: An Introduction to Philosophy of Biology (Science and Its Conceptual Foundations)
- 作者: Kim Sterelny,Paul E. Griffiths
- 出版社/メーカー: University of Chicago Press
- 発売日: 1999/06/01
- メディア: ペーパーバック
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*1:なおステレルニーは一部のカメ猟,ライオン猟などごく一部の狩猟についてはカロリーというより信号かもしれないと認めている.
*2:前者を「ディプロマシーゲーム状況」後者を「モンティパイソンの危険なガイドブック状況」と呼んでいて面白い
*3:エッジにおけるピンカーとのやりとりではこの人たちのあまりの底の浅さが見えてがっかりしたものだ.詳細はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20120726参照