「Did Darwin Write The Origin Backwards?」 第5章  「あとがき 」 その2 

Did Darwin Write the Origin Backwards?: Philosophical Essays on Darwin's Theory (Prometheus Prize)

Did Darwin Write the Origin Backwards?: Philosophical Essays on Darwin's Theory (Prometheus Prize)


系統推定に続いてソーバーが取り上げるのは,「淘汰の単位」だ.ソーバーはD. S. ウィルソンと組んでマルチレベル淘汰的なフレームの擁護を行っていることで有名だが,それに対する批判を2つ取り上げ,反論する.2つの批判とは,対立する哲学者たちの主張と,包括適応度理論家の数理生物学者の主張だ.

最初に取り上げるのは科学哲学者間の「実在主義:realism」と「規約主義:conventionalism」の論争だ.


<淘汰の単位についてのさらなる議論>

まずソーバーは「淘汰の単位」については哲学者間で論争になっていることを説明する.

  • 規約主義者;キャシディ,ステレルニー,キッチャーなど:ある形質が遺伝子淘汰によるのか個体淘汰によるのかグループ淘汰によるのかは見方によるもので,生物学的事実によっては決められないとする立場.この立場によるとこの文脈で適切な問題はどの説明がもっとも有用かというものになる.彼等は時にある特徴が個体淘汰の産物であったり,グループ淘汰の産物であったりすることを認めるが,それは同時に遺伝子淘汰の結果としても正確に解釈できるとし,かつ,遺伝子淘汰の解釈は一般性というプラグマティックな利点を持つとする.
  • 実在主義者;ソーバーなど:ある形質が遺伝子淘汰によるのか個体淘汰によるのかグループ淘汰によるのかは区別でき,それは事実の問題であるとする立場

ソーバーはここで「1960-70年代のウィリアムズ,メイナード=スミス,ドーキンスの議論」についてそれはグループ淘汰自体が生じないという主張であって規約主義と異なっており,規約主義者たちも,「ウィリアムズたちはそこに何らかの実証的な問題があると誤解して時間を無駄にした」とコメントしていると紹介している.
しかしこの紹介の仕方はいかにもソーバーらしく強引だ.ウィリアムズたちの主張は「ナイーブグループ淘汰の議論」が間違いだといっているのであって,90年代に整理された理解の元で当時の文章の曖昧さをあげつらうようなコメントはやや後出しじゃんけんのようでいただけない.

とりあえずここまではわかりやすい.しかし次あたりからはやや難しくなる.

  • これは説明における多元主義(マルチレベルグループ淘汰と包括適応度の両方の説明が正しいことを認める立場)を認めるかどうかとは別の問題だ.私(ソーバー)は実在主義者であり,かつ多元主義者だ.
  • 説明における多元主義はなぜある事象が生じたのかについて複数の事実に基づく説明があることを認める.例えば至近的なミクロの要因とより離れたマクロ的な要因があるのを認める.
  • ここでゲーム的な状況を想定する.ある個体の戦略が「利他」「利己」の2種類であって,相手の「利他」「利己」に対して以下のペイオフを持つとする
  相手が利他 相手が利己
自分が利他 x+b-c x-c
自分が利己 x+b x
  • 利他的な戦略が進化するとするなら以下の2つの説明はいずれも正しい

(a) 利他戦略が有利になるグループ淘汰と利己戦略が有利になる個体淘汰があり,前者の方が強い.
(b) P(相手が利他|自分が利他)-P(相手が利他|自分が利己)>c/b

  • この説明の多元主義は実在主義と完全に両立する
  • マルチレベル淘汰理論の用語においては,グループ淘汰は繁殖プール全体の中のグループ間の淘汰,個体淘汰はあるグループ内の個体間の淘汰,そして遺伝子淘汰はある個体内の遺伝子間の淘汰を指す.そしてすべての淘汰過程は同時に進行し,淘汰単位は実在するのだ.


これはもう私のような「両方の説明は数理的に等価で,後はどちらがリサーチプログラムに有用かだけの問題だ」と考えるものには理解できないところだ.「どちらの説明も正しいが,片方の説明は事実に基づいていて,片方は事実に基づかない」ということだろうが,もはや言葉の遊びにしか思えない.



ソーバーはここで規約主義哲学者たちの(実在主義への批判論としての)議論を紹介する.

  1. グループの特徴はその中の個体の特徴に付随(supervene)する.
  2. だからある瞬間のグループの特徴はその時点の個体の特徴で説明できる.
  3. つまりグループ淘汰がある特徴の進化を説明できるなら個体淘汰でも説明できるはずである
  4. 要するにこれは事実の問題ではなく単に便宜上の問題に過ぎない.

いかにも怪しげな哲学者の議論だが,ソーバーはこれに厳しく突っ込みを入れる.2から3のところに飛躍があるというのだ.ソーバーに言わせると,彼等は「個体淘汰」という言葉の両義性の罠にはまっているということになる.規約主義者は繁殖プール全体の中の個体淘汰という意味で「個体淘汰」を使っているが,マルチレベル淘汰の用語では個体淘汰はグループ内のものに限定されるので,2から3は導けないというのだ.
ここもよく理解できない.確かに3の個体淘汰をマルチレベル様式で読めば飛躍があるのかもしれないが,そもそも規約主義者の用語でいえば成り立っていて,規約主義でいいのだということにならないのだろうか?

ソーバーは,続けて「規約主義者たちの用語においては規約主義をとってもいいと思っている」などと書いて一見譲歩しているかと思わせるが実はそうではない,「彼等の主張の理解しがたいところは実在主義者が望んでいる物事の区別を無視するところだ」と続ける.
ソーバーの真の議論はここからだ.

  • キッチャーは「(1)遺伝子型頻度,表現型頻度の世代間の変化は淘汰のレベルにコミットせずに説明することができる.(2)その説明には因果の説明も含む」と主張している
  • しかし(1)が正しいとしても,それは「ある特徴が,個体淘汰産物である,あるいはグループ淘汰産物である」という主張にかかる「因果の実在性」を否定することにはならないのだ.
  • ステレルニーとグリフィスのビーバーのダムの議論も同じだ.彼等はビーバーのダム造りはグループ淘汰的にも説明できるし,ダムを造るビーバーがなぜ平均的に適応度が高くなるのかという観点からも説明でき,より高いレベルの方がより真の因果に近いと主張するのはナンセンスだとしている.これは個体淘汰の用語が混乱しているという点において同じ間違いだ.説明における多元主義は,(因果的説明としての)淘汰単位について当然に適用されるわけではないのだ.
  • ただしすべての場合に「因果的説明について多元主義をとれない」(ただ1つの因果が実在する)とまで考えているわけではない.社会性昆虫の不妊カーストや性比については多元主義をとってもいいだろう.これは女王の個体淘汰としてもコロニーのグループ淘汰としてもいい.

私の正直な感想は,「何度読んでもよく理解できない」というところだ.ソーバーは「因果がなぜ『個体淘汰産物』あるいは『グループ淘汰産物』という形で『実在』すると考えるのか」あるいは「『個体淘汰産物』という説明はなぜ実在的だと考えられるのか」について説明してくれていない.「ある数理モデル上において,ある変数が変化することについて,何らかの『実在』する『因果的説明』と『実在』しない『因果的説明』があって区別できる」と考える理由は全くよくわからない.