「Did Darwin Write The Origin Backwards?」

Did Darwin Write the Origin Backwards?: Philosophical Essays on Darwin's Theory (Prometheus Prize)

Did Darwin Write the Origin Backwards?: Philosophical Essays on Darwin's Theory (Prometheus Prize)


本書は科学哲学者エリオット・ソーバーによる一般向けのエッセイのような本だ.題名にもある通り,基本はダーウィンの「種の起源」を現代の生物学の哲学者が読むとどういう風に読めるかというのが主題になっているが,これまでソーバーが主張してきた様々な主張がそこに埋め込まれている.


第1章はダーウィンの「種の起源」の主題についてだ.ソーバーはダーウィンのエイサ・グレイ宛ての私信や,当時の文脈(「進化は種の壁を越えられるか」が問題になっていた)からみると,主題は「全生物は共通起源を持つ(1つの系統樹を形成する)」という主張にあったのであり,自然淘汰は分岐を通じてそれを可能にしたという原因として扱われているのだと主張する.
私のような読者が普通に「種の起源」を読むと,それは「進化の主要因が自然淘汰である」ことを様々な角度から論じている本のように感じられるので,このソーバーの主張は意外なものだ.ソーバーは「ダーウィンは共通起源性の原因を作ったのは自然淘汰だと考えていたので,自然淘汰が生じることをまず説明している.それはある意味では自然だ.しかし次に共通祖先性の原因としては自然淘汰を明示的には持ち出さなかった.それは共有祖先性の推定に共有祖先形質を使う必要があり,尤度の高い証拠としては適応形質ではなく痕跡器官などの非適応形質を使う必要があったので,独立の問題をして分離しておいたのだろう.」と説明している.というわけで本の題名かつ章題の「Did Darwin Write The Origin Backwards?」に対するソーバーの答えは「それは因果的には正しい順序で書かれている.しかし証拠という面では逆向きなのだ.」というものだ.
なかなか面白い解読だが,正直な感想としてはやや強引だというところだ.「種の起源」はどこまでも「自然淘汰」についての本であり,共通起源性は「自然淘汰によって進化が生じたとするなら生じうる興味深い現象で,実際に観察はそれを支持している」として扱われているというのが普通の読み方であるように思う.


第2章はダーウィンはグループ淘汰を支持していたかという問題だ.これも通常は「ダーウィンはほとんど個体淘汰的だが,「Descent」の一部でグループ淘汰的な記述がある.珍しく混乱している」というのがよく見かける解説だが,マルチレベル淘汰の守護聖人の一人たるソーバーはもちろんそうは読まない.
ソーバーはまずグループ淘汰理論についてかなり我田引水的な学説史を紹介し(ウィリアムズたちのグループ淘汰否定は基本的にナイーブグループ淘汰を否定しているものだが,それをマルチレベル淘汰否定のように扱って攻撃している),その後ダーウィンの記述をみていく.ダーウィンのグループ淘汰的な記述はいくつかあるが,ソーバーはかなり網羅的に取り上げており,具体的には以下の通りだ.

  1. Descentのヒトの利他的傾向についての「利他的なメンバーが多いグループは他の部族に対して有利になる」旨の記述
  2. Originにおけるミツバチの返しのついた針についての「もともとゴール(虫こぶ)を造るためのものが転用されたものであり,(本来刺しても死なないような針の方が良いのかもしれないが)コミュニティのために利益になっているから自然淘汰で進化したのだ」という記述
  3. Orginにおける社会性昆虫の不妊のワーカーについての「コミュニティの利益になるならそういう性質が(利他的であっても)進化することについてはあまり問題は無い.しかし不妊のワーカーの性質がなぜ子孫に伝わるのかは問題だ」という記述
  4. 雑種の不妊性についての書簡集などの議論において.それが副産物であることを「個体に何のメリットももたらさない」という説明だけでよしとせずに「不妊性はしばしば不完全」「同時に同地域に存在しなかった種間でも不妊性がある」という根拠もあげていること

ソーバーはこれらを注釈しながら,ダーウィンについて「当初は個体淘汰的だったが,ヒトの道徳を考察するうちにグループ淘汰擁護的になっていったのだろう,しかし彼は決してナイーブグループ淘汰的ではなかった」とまとめている.ソーバーの読み方はここでもかなり強引な部分があるように感じられる.(2番目,3番目はコミュニティが社会性昆虫のコロニーであり,同じ女王由来の血縁集団であることがかなり意識されているところだ.だからマルチレベル淘汰的にも読めるし,血縁淘汰的にも読める部分だろう.4番目は単に補強証拠を挙げているだけで,むしろ個体淘汰的であることを示しているところだと読むのが普通だろう.最初のヒトの利他性については,ソーバーの引用部分は確かにグループ淘汰的に読める.とはいえ,全体としては血縁淘汰,直接互恵,間接互恵のアイデアまで考察した上で曖昧に書かれている(そしてやや混乱している)と見るのが普通の読み方であるように思う.)これは強固なマルチレベル淘汰論者からはダーウィンがどう見えるかということをよく示しているということだろう.ダーウィンは極めて思慮深く,様々なアイデアを持ち,慎重に書いているので,様々な理論フレームで捉えてもあまり破綻がないということなのだろう.


第3章は性比の議論だ.ここではまずダーウィン以前が取り上げられていて面白い.

  • 18世紀にアーバスノットは長期間の洗礼データを示し,「82年連続して男子の方が多く出生する確率は非常に小さいことから,これは成年の男女比を1にするために神が仕組んだことだ」と議論した.ソーバーはこれは1/2偶然仮説と神仮説の尤度性を比較した議論だと見ることもできるとコメントしている.
  • ベルヌーイはアーバスノットに対して18/35偶然仮説であれば82年連続して男子が多く生まれても不思議はないとして神仮説は証明できていないと反論した.ソーバーは,これはフィッシャーの頻度主義的議論(帰無仮説が18/35なら棄却できない)と見るのが普通だが,1/2仮説と18/35仮説の尤度を比較してデータは18/35仮説を支持していると解釈することもできるとコメントしている.
  • ド・モアブルは「成人時に性比が1になるように出生比率が18/35になっているという事実は,デザインがあることを強く示唆している」と反論した.ソーバーはこれは「18/35は神のデザインだ」という仮説と「18/35は偶然決まった」という仮説を対立させていると見ることができるとコメントしている.

このあたりは神学の絡んだ議論を統計の哲学的に料理していて読んでいて面白いところだ.

続いてダーウィンの性比の議論が紹介される.ダーウィンはDescentの初版においてなぜ性比が1になるのかについて説明しているのだが,第2版でそれを撤回している.
初版におけるダーウィンの議論は「もし当該生物種がモノガミーであるなら,配偶ペアを作るときにあまりが出る性を作るのは不利になるから,最終的に性比は1になるだろう」というもので,これは性比を親の戦略として捉え,かつ頻度依存的な性質についての個体淘汰的な説明になっていて,時代をはるかに先駆けたダーウィンの先見性をよく示している.
ソーバーはこれについて,まずモノガミーが議論の前提になっていて,さらにあまりが出るかだけに議論を集中して本来考えるべき平均繁殖成功にまで踏み込んでいないところに問題があることを指摘する.そして第2版で撤回したのは「大型類人猿の繁殖システムはまちまちであり,繁殖システムは進化史的に変化しやすい性質であると考えられる.ここでモノガミーを性比進化の前提として用いるのは系統的に問題があると気づいたからではないか」と示唆している.
ダーウィンの議論の問題点はその通りだろう.しかし撤回の理由はそうではないように思う.ソーバーが引用していない部分でダーウィンは性比調整の生じ方について「生存競争が厳しくない方が種としては有利になるので,(足りない性の子を増やすのではなく)あまりの性の子を作らなくなるようになった方が種としては有利だろう.そしてそれはその方が親の個体にとっても余分なリソースを残りの子に振り向けることにより有利になる個体淘汰として進化するだろう」というナイーブグループ淘汰と個体淘汰が混ざったような(珍しく筋の通らない)議論をしており,その部分を撤回したのだろうと思われる.ソーバーの読み方はやや系統的な議論にこだわりすぎで(そもそもダーウィンはヒトの性比だけを議論しているわけでもない)ここでも強引な印象だ.

性比の議論はダーウィン以後の展開も紹介されている.あまり知られていないが,ドイツの学者デュージングは1884年に孫数を多くする親の戦略として性比1を予測する(ほぼフィッシャーの理論と同じ)数理モデルを組み立てた.そしてフィッシャーが1930年に前提をはっきりさせ,予測されるのは正確には性比1ではなく性投資比1であることを明確にした.ソーバーはフィッシャーの議論をかなり丁寧に紹介している.最後にハミルトンによるLMC(局所配偶競争)についてグループ淘汰の枠組みで紹介している.要するに性比の話題もハミルトンまで引っ張ってこれをグループ淘汰擁護に使おうという趣旨らしい.しかし,そもそもハミルトン自身はグループ淘汰のフレームを使っていないのだが,その辺の扱いは曖昧で,かつ理論的な取り扱いもややスロッピーな印象だ.最後に現代進化生物学の性比理論について「様々な数理モデルの集合があるだけだ」とコメントしているが,これも違和感がある.基本理論としては集団遺伝学的なモデルがあり,様々な前提に対してそれぞれの近似解をあたえる数理モデルが提唱されているということではないだろうか.


第4章は方法論的自然主義(methodological naturalism)にかかるものだ.「ダーウィンはOriginにおいて方法論的自然主義に従っていたのか」が主題になる.ソーバーは「科学が方法論的自然主義に従うべきだとしても,個別の科学者は自由に議論して良い.そしてOriginにおける対立仮説は特殊創造論であり,ダーウィンはそれに対する反論としては神学的な議論(神が全能なら生物が不完全な適応形質を持ったり,先祖返りのような形質を持つのはおかしい.神がそのようにアレンジしたという反論は,神のみわざがまがい物と騙しになるが,それはありそうにない)を使っている」と解説している.
ソーバーは続けて,科学が従うべき方法論的自然主義を少し緩めることを提案している.通常は「科学は超自然的神性の存在や性質を議論してはならない」という意味だが,科学を理論と証拠に分け,さらに性質の議論はしてもいいことにしようというものだ.これによりまず証拠に合わない創造論者の主張(例えば「地球は1万年より若い」)を批判でき,また「仮に神がいたとして」という形式の議論も可能になるというわけだ.創造論者と常に向かい合う必要があるという状況ではわからなくもないが,そのような人達を相手に方法論的自然主義を守らなければならないと考える必要もないのではというのが正直な感想だ.なおソーバーはこの後,方法論的自然主義について哲学的な議論を行っていて,私のような読者にはやや読むのがしんどいところになっている.


第5章は「あとがき」と題されているが,実は最新の生物学の哲学にかかるエッセイになっていて本書の読みどころの1つになっている.
最初は系統学における最節約法と最尤法の関係についてだ.すべての形質進化が浮動であれば両者は一致するが,適応形質が混ざるとそれは一致しないというのがソーバーの結論だ.なおここでは分子データによる系統推定の議論はなく,少し残念なところになっている.
次に淘汰の単位,グループ淘汰にかかるエッセイが収められている.D. S. ウィルソンとソーバーによるマルチレベル淘汰擁護論に対する,科学哲学者からの反論と包括適応度理論家からの反論に再反論しているものだ.グループ淘汰の議論になったとたんに強引で筋悪になるというソーバーの特徴はここでも遺憾なく発揮されていて,歪んだ学説史の紹介,強引な擁護論が繰り広げられている.論点は多岐にわたるが結局ソーバーの主張の核心は「『ある特徴がグループ内淘汰の産物である,あるいはグループ間淘汰の産物である』という因果説明は『実在』するが,包括適応度が高いから進化するという因果は『実在』しない」というところにある.そして私にはこの説明は全く理解できないものだ.きちんと定式化されたマルチレベル淘汰理論と包括適応度理論は数理的に等価であり,それはともにある同じ現象を異なる視点から見た解釈に過ぎず,それが進化生物学のモデルである以上,リサーチプログラムの有用性が問題になるに過ぎないのではないだろうか.そういう意味ではこの部分の記述はソーバーとD. S. ウィルソンの筋悪さをあらためて感じることができる部分ということになるだろう.
最後に確率についての解釈にかかるかなりテクニカルな哲学的な議論が収められている.「確率とは客観的でリアルなものか,それとも主観的な無知を示す指標に過ぎないか」にかかる論考ということになる.


というわけで本書はダーウィンの議論の解題というのが主軸で,その中でこれまでソーバーが関わってきた生物学の哲学の議論(最節約法,最尤法,グループ淘汰,方法論的自然主義,確率の意味)が繰り広げられるという趣旨の本になっている.ダーウィンの読み方は自分の主張に寄せてきている印象で強引なところもあるが,別の視点から見るという点では面白い.批判的に読むという読み方も含めてダーウィンファンには外せないところだろう.また肩の凝らない形で生物学の哲学のエッセイを読めるという本でもある.ソーバーの考え方を知るには便利な本でもあるだろう.私が特に興味のある包括適応度理論とマルチレベル淘汰理論の部分ではソーバーの筋悪さがクリアに浮き彫りになり,そういう意味ではなかなか得るところの多い本であったように思う.