「われらはチンパンジーにあらず」

われらはチンパンジーにあらず: ヒト遺伝子の探求

われらはチンパンジーにあらず: ヒト遺伝子の探求


本書は,BBCディスカバリーチャンネルナショナルジオグラフィックチャンネル等で,自然科学,特に進化生物学関連の番組のプロデューサーを長年つとめ,ドーキンスと共同の「ブラインドウォッチメイカー」のテレビシリーズなどの制作で知られるジェレミー・テイラーによるヒトとチンパンジーの認知能力的類似性あるいは異質性にかかる本だ.
本書が書かれた背景としては,西洋においてヒトとその他の動物を全く異なるものだと扱ってきた長い歴史,そしてそれへの反動としての1960年代以降の「実はヒトとチンパンジーの間にはほとんど差はないのだ」といういかにもリベラル的な言説の蔓延,そしてそれが通俗的な科学記事や科学番組で跳梁跋扈している有様がある.そしてその際に用いられる錦の御旗は「ヒトとチンパンジーのDNAは98.4%同一だ*1」というものだ.著者は第一線の科学番組のプロデューサーとしてこのような言説に違和感を抱き続けてきて,2009年についに一冊の本にまとめたという経緯になる.原題は「Not a Chimp」.邦書は少し前の出版で見過ごしていたが,先日の紀伊国屋書店の企画「進化と哲学」において長谷川真理子選書として紹介されていたので手に取ったものだ.


冒頭の第1章ではこの問題に関するいくつかの風景が映し出される.まずチンパンジーの行動がいかにヒトとかけ離れているものであるかが,飼育下のチンパンジーが人を襲ったエピソードとともに語られる.そしてグッドマンによるヒトとチンパンジーのDNAの類似性の報告,グドールたちの観察によるヒトとチンパンジーの類似性が強調されてきた歴史,近時の「チンパンジーにも人権を」の運動を取り上げている.ではヒトとチンパンジーはなにが類似していてなにが異なっているのだろうか,ここから著者の遺伝学と比較心理学と脳神経科学への旅が始まる.

第2章から第8章までは「ヒトとチンパンジーの類似性と異質性:遺伝学編」だ.冒頭はトリックスターFOXP2遺伝子の話だ.ここでは研究史,論争史,そしてこの遺伝子の働きの複雑な様相が語られている.当初ゴプニクはそれが文法遺伝子であることを強く主張していたが,その後それはそのような単純なものではなく,マスター制御遺伝子であり,精密な運動制御を中心とした広範囲な影響を与えるものであることがわかってきた.さらにそれは鳥のさえずりやコウモリのエコロケーションと並び,ヒト系統でもおそらく言語との関連で自然淘汰を受けていることが示唆されている.
次は脳を作る遺伝子が取り上げられる.ここでもテイラーは様々な論争史を詳しく取り上げている.そして小頭症の分析から見つけだされた脳の大きさに影響を与える遺伝子がやはりヒト系統で自然淘汰を受けていることが示唆されている*2
ここからヒトとチンパンジーのゲノムの違いについて包括的に詳しく解説がなされている.まずいわゆる98.4%と1.6%とされる単純な遺伝子変異の部分.ここではそれが様々な別の遺伝子の発現制御に効いていて,表現型において大きな違いを生み出しうるものであることが強調されている.次に遺伝子の損傷,消失,重複などによる違いが,先ほどの遺伝子変異の98.4%の計算の外側に大きくあることが詳しく解説される.そう説明すると無味乾燥でつまらないようだが,詳細はなかなかおもしろい.ヒト系統で淘汰を受けている変異には神経系,消化器系,そして免疫系に関わるものが多い.食事と消化器系の変化と脳の増大の関連,そしてパラサイト耐性が大きな淘汰圧であったことが浮かび上がってくるようだ.特に激しいアームレースの中では免疫系の遺伝子が損傷,消失することによりメリットが生じることがありうるというのはなかなか興味深い.テイラーはこの部分の淘汰圧が高いことから霊長類を使った薬剤テストの信頼性に過度の期待をしない方がいいと示唆し,この外側の違いをあわせるとヒトとチンパンジーの類似性は98.6%ではなく87%といってもいいのだと強調している.
また非コード部分のDNAについても,淘汰圧を調べることができるようになっていて,安定化淘汰のかかった可能性のある場所が多数見つかっている.これらもおそらく制御に関わっているのだろう.また染色体上には,重複の多いホットスポット,そして組み換えの多いホットスポットがある*3という事実も紹介されていて,なぜそうなのかは興味深いところだ.


第9章は「ヒトとチンパンジーの類似性と異質性:比較心理学編」.ヒトとチンパンジーがいわれているほど遺伝的に似ていないという主張の後,テイラーは行動面の問題,比較心理学リサーチを取り上げる.ここではルイジアナ大学のポヴィネリとマックスプランク研究所のトマセロたちの大論争を中心にチンパンジーの認知能力はどこまでヒトに似ているかというトピックが紹介されている.テイラーは大論争を紹介しつつも,「トマセロたちの『チンパンジーにもヒトと同じような認知能力がある』という主張は厳密ではなく,観察者側の主観が入り込んでいる」というポヴィネリの主張を好意的に扱っている.このあたりも詳細はなかなかおもしろくて本書の読みどころの一つだ.
さらにテイラーは,イヌやカラスの方がチンパンジーよりヒトに近い認知能力を示しているとする最新のリサーチを紹介し,認知能力は,系統的近縁性よりも,生態条件に応じた適応による収斂の方が説明力が高いのではないかと示唆している.


第10章は「ヒトとチンパンジーの類似性と異質性:脳神経科学編」.テイラーは脳の構造的な差異を取り上げている.ここではヒトとチンパンジーの違いの詳細を解説した後,ミラーニューロンの意義,脳の構造により道徳能力が規定される可能性などを論じている.


最後にテイラーはヒトとチンパンジーの差異を作った淘汰圧,あるいは進化的な考察を行っている.キーワードは「家畜化」で,基本的には集団の大きさの増大による生態条件の変化を念頭にランガムの料理仮説を好意的に紹介しつつ議論しているが,一部乳糖耐性,様々なパーソナリティ特性などの農耕牧畜文化以降の適応なども扱っている.ここはやや議論の浅さ*4が目に付くところだ.そして最後に再帰性の議論も紹介しつつ,ヒトとチンパンジーが様々な点で異なることを強調して本書を終えている.


というわけで本書はヒトとチンパンジーの類似性と差異を徹底的に追求した本ということになる.テイラー自身も最後に述べているように,どこまで似ているかというのは程度の問題で,絶対的な基準がない以上どのようにも議論できるテーマにしかならないところがある.そういう意味では本書はむしろ社会の風潮に関する本で,厳密な事実の主張というカテゴリーには属さない読み物だということになるだろう.しかしこの中心テーマを裏付けるためにテイラーが繰り出してくる解説は,多岐にわたる分野からさまざまなリサーチや論争史が紹介されており,ボリューム感もたっぷりで,かつ読んでいて大変おもしろい.まさに詳細を楽しむ本ということになるだろう.


関連書籍


原書

Not a Chimp: The hunt to find the genes that make us human

Not a Chimp: The hunt to find the genes that make us human




 

*1:本書においては98.4%,98.5%,98.6%,いずれの数字も登場する,このあたりもこの差異をきちんと定義することが難しいことをよく表している.この書評では98.4%で統一する

*2:ここでは人類集団間のそれらの遺伝子の対立遺伝子頻度と言語の特性に相関があるというリサーチも紹介されている.このあたりも興味深い

*3:この組み換えホットスポットはヒトとチンパンジーで場所が異なるそうだ

*4:出アフリカ以降の拡散期にはADHD特性が有利だっただろうという議論がなされているがこれはつっこみどころが多いだろう.また複雑で累積的な認知能力の増大と,単一の遺伝子の影響にかかるニューロトランスミッターの多寡による行動特性の変化をひとくくりに議論しているのも雑な印象だ.