「The Sense of Style」



本書はスティーヴン・ピンカーによる「文章の書き方教本」,いわゆるスタイルマニュアルだ.ここでピンカーが取り扱うのは,何かの事実・知識を読者に伝えようとするノンフィクションの書き方についてだ.

序言では,ピンカー自身スタイルマニュアルを読むのが好きだとコメントしている.それは,マニュアル自身がよい文章の見本であるからだという理由もあるが,「よい文章スタイルとはどういうものか」という問題は,結局「自分の伝えたい考えと相手の心をつなぐにはどうするのがよいのか」という問題であり,言語心理学,認知科学的にも興味深いからだと説明されている.
しかし定評ある教本を読むと当惑や不満も生じるのだという.これらの著者たちはしばしば文法を誤解しているし,アドバイスは必ずしも一貫していない.また文法の正誤,論理的一貫性,文章のフォーマリティ,方言に対する標準性がごちゃ混ぜになって取り扱われている.さらに心理学についての無知,古き良き時代(あるいは近時の文法の堕落)という幻想が混ざり込んでいるものもある.このような状況を受けて,ピンカーは現代の言語学や認知科学の進展を取り込み,アドバイスの理由を説明できる21世紀のスタイルマニュアルに取り組んだというわけだ.
ピンカーは序言の最後に「なぜよい文章スタイルが重要か」についてまとめている.それはまず読者に自分の考えがきちんと伝わるからであり,そしてよいスタイルは読者に信頼感を与え,さらに世の中を美しくするからだ.


第1章ではよい文章のお手本がいくつか紹介される.ドーキンスの「虹の解体」の冒頭部分,ピンカーの結婚相手である哲学者レベッカ・ニューバーガー・ゴールドシュタインの「スピノザを裏切る」の一部分,ジャーナリストであるマーガレット・フォックスのいくつかの死亡記事,同じくジャーナリストのイザベル・ウィルカーソンによる人種差別の歴史を描いたノンフィクションの一節を取り上げ,なぜこれらの文章が極めて明晰で美しいのか,あるいは力強く説得的なのかを解説している.例えばドーキンスの文章は注目を集めずにはおかない逆説的な主張から始まり,さらに詩的な趣,具象的な描写,平行表現のリズムなどがちりばめられている.そしてピンカーはそれぞれの文章表現がどのような効果を読者に与えるかを深く解説する.この部分のピンカーの読解は,ピンカーがいかに文章の美しさ,力強さを深く愛しているかということをよく示すとともに,上質な読者はここまで深く文章を解析できるのだと深く感銘を与えるものだ.
ピンカーはこれらの美しく力強い文章の共通点を最後に説明する.書き手は何かを伝えたいという情熱を隠さない,書き手は自分が表現するに値する重要な事実を手にしていることを示すように書いているのだ.


第2章は「クラッシックスタイル」について.
ヒトにとって,しゃべることはある意味本能的に獲得できる能力だが,書くことは進化的にはごく最近に生じた文化的な発明であり,生涯かけて学んでいかなければならない.そしてしゃべるときには相手の反応を見て感じることができるが,読者の反応は書いているときにはわからない.ここに書くことの本質的な難しさがある.このあたりはピンカーの進化心理学的な背景がにじみ出ているところだ.
ピンカーは,書くことはとどのつまり「作りごと」(an act of pretense)なのだと説明している.だからよいスタイルのポイントは,「読者とコミュニケートできているという仮想的な世界」について明解なコンセプトを持つことなのだ.そしてそのシミュレートされた世界における読者像を持たなければならない.そのうちある特定の読者層を念頭においたノンフィクションの叙述スタイルはクラッシックスタイルと呼ばれる.ピンカーによるクラッシックスタイルについての説明は以下の通りだ*1

  • 書き手と読者は対等の立場にある.読者は書き手が伝えようとすることがらについて理解する力があることが前提になる.
  • 書き手は読者が読むに値する世界の何らかの真実を(あたかも書く前からすべて知っていたかのように)示し,読者との対話を試みる.読者には(不適切な哲学的な反論を試みたりせずに)書き手に協力的に,真実を知るために熟読することが期待されている.
  • それは平等主義的ではなく(理解能力があり熟読する読者だけがわかればいいという意味で)貴族主義的だ.
  • クラッシックスタイルは具体的な事実だけでなく抽象的な問題も取り扱うことができる*2.そしてそれは科学者が世界を説明するときに用いるのにふさわしいスタイルだ.

ここでピンカーはクラッシックスタイルの真逆である悪い文章スタイルの例としてポストモダニズムの文章を取り上げて徹底的に分析しており読んでいて面白い.本書は以下クラッシックスタイルについての教本ということになる.


最初のレッスンは,クラッシックスタイルの本質から逸脱するために悪い文章になってしまうという罠についてだ.ピンカーはいくつかの罠を紹介している.

  • メタディスコース:これから自分が何を書くか,今書いていることは何かについてメタ記述するもの.これは読者にガイドを与えることができるので親切でわかりやすいように思われるが,ピンカーはそうではないという.メタディスコースがあると読者は記述とメタ記述の両方を理解しなければならず負荷が増すというのだ.優れた書き手は,メタファー,疑問文,「私達」という代名詞の利用などで読者を先回りして誘導できる.
  • 主題の世界とそれに関する書き手の世界の混同:書き手にとってこの2つは混然と一体化しているが,読者は通常後者には興味はない.
  • 伝えようとする真実,用いる概念などが難解であることを強調してしまうこと:クラッシックスタイルでは読者の知的能力を信用しなければならない.回りくどさは直截な明晰性を失わせるのだ.
  • 自分は直接的にこう考えているわけではないことを示す引用符の多用:これはまさに自意識過剰(自分は,この用語を他の人がよく使うような意味でナイーブに用いているわけではない,もっと洗練された学者なのだということを強調したい)のポストモダニズム的悪癖だ.
  • 強迫神経症的なヘッジ:揚げ足をとられまいと「比較的」「おそらく」「I would argue」など*3を使って過剰にヘッジすると文章の迫力をなくし,明晰性を失わせる.クラッシックスタイルでは読者の常識と理解力を信用してよいのだ.ピンカーはその姿勢を「So Sue Me」*4だと説明している.
  • 常套句やことわざの多用:やり過ぎると読者はその豊富なイメージに飲まれ,もはや考えなくなる.*5
  • メタコンセプト,ゾンビ名詞*6の不必要な使用*7:クラッシックスタイルの本質は読者の目にはっきりものを見せることだ.抽象化はできる限り避けるべきだ.名詞化された用語は意図を持つエージェントを希薄化し,読者の理解を妨げる.

ピンカーは本章の最後をこう締めくくる.「クラッシックスタイルは唯一の文章スタイルというわけではない.しかしそれは書き手から悪い習慣を取り除く理想的な方法だ.そしてそれはうまくいく,なぜならそれは不自然な『書く』という行為を自然な『しゃべる』『見る』という行為に近づけるからなのだ」


第3章は「知識の呪い」
これは,ある意味「心の理論」の応用であり,ピンカーが本書でもっとも強調する書き手にとっての罠だ.よく学問的な文章がわかりにくいのは専門用語を目くらましのように使うからだといわれる.ピンカーは,しかし多くの場合には書き手は「知識の呪い」を受けているだけではないかと指摘する.書き手は読者が何を知っているかを想定して書くが,「自分が知っていることは読者も知っているはずだ」と思い込みやすい.書き手は「自分の知っていることを読者は知らないかもしれない」ということを思いつかないのだ.その結果書き手のみが知る知識が前提になっている文章が書かれ,その知識を持たない読者には理解不能になる.*8
ピンカーはこれが実に深い罠であることを様々な角度から説明している.自己中心主義的傾向,後知恵バイアス,心の理論の不完全性,「知識の呪い」自体が「知識の呪い」の自覚を困難にすることなどだ.
ではどうすればいいのか.ピンカーは以下のようにアドバイスしている.

  • まず肩越しから覗かれていると思って読者を意識する.しかしこれはスタートに過ぎない.これで解決するほど「知識の呪い」は甘くない.
  • ジャーゴン,略語,テクニカルタームはなるだけ避ける.しかしどこまでが想定読者に受け入れられるかを知るのは「知識の呪い」自体によって難しい.簡単な説明や例示を添えるという戦術は有効だ.テクニカルタームを使う場合もできるだけ理解しやすく憶えやすいものを選ぼう.
  • 書き手は自分のよく知ることについては概念をまとめて抽象的に機能を考察していて,しかし自分では自覚していない.だが読者は具体的に「見たい」のだ.回りくどく解説するのは読者を侮辱することになるのではないかとの恐れは過小評価した方がいい.ポイントは「読者はあなたと同じぐらい知的だが,あなたが知っていることを知らないかもしれない」という認識だ.
  • ドラフトを想定読者に近い誰かに読んでもらうのはよい方法だ.編集者というものの存在理由の1つでもある.但し特定読者には彼等自身が「知識の呪い」にかかっているリスクがあることには留意が必要だ.
  • ドラフトをしばらく寝かせてから自分でもう一度読むのもよい.多くの名文家はドラフトを何度も推敲する.実際にしばらくして自分の書いたものを読み返して,「こんなクズを書いたのは誰だ」ということはよくある.

確かに想定読者に合わせたレベルがどの当たりかという見当をつけるのは難しい.自分がしばらく苦労してようやく得た理解も,わかってみれば簡単なことと感じてしまうことは多い.するとほかの人にとってその理解がどれだけ困難なことかというのはもはや忘却の彼方に去ってしまうのだろう.「知識の呪い」はまことに深い.


第4章は言語の構造,そして文章を書く上での問題点について
ピンカーはヒトの頭の中にある考えは概念同士がネットワークになったものだが,それを言語化するときには文章は文法に則ってツリー構造になり,しゃべるときにはリニアなストリングになると指摘する.このあたりはこれまでのピンカーの著作を読んでいればおなじみのところだが,ここでもう一度再整理しているということになる.文法の解説はピンカー流のわかりやすく明瞭な整理であり,読んでいて快感だ.
ここでよい文章を書く上で特にポイントになるのは,文法は文章の意味のツリー構造を作るとともに単語(さらに正確には語句の文法カテゴリー)の並び順を決めるという二つの機能を果たしているということだ.そしてこの文法カテゴリーは文法機能と異なるものであることを丁寧に解説している(特に限定詞カテゴリーと修飾語機能の違いについて細かい,これはネイティブの間で混乱しやすいということなのだろう).ピンカーはこのような文法のツリー構造と並び順規則を理解することが,より明確な文章を書く助けになると主張するのだ.それは多義的なツリー,フィラーとギャップ*9が長距離になること,格についての混乱などを避けることの意味を教えてくれる.いずれも読者がストリングから元のツリーをいかに容易に再構成できるかに関係する.書き手が自分の書く文章のツリー構造は簡単に理解できると思ってしまうのは「知識の呪い」の文法バージョンなのだ.(ピンカーはこれを避けるために「声に出して読んでみること」を勧めている)
ピンカーは「不必要な語句を削除せよ」というよくあるアドバイスも実はツリー構造の再構成に関わるものだと指摘している.単に語数を少なくすればいいのではなく,そのツリー構造を見やすくすることが重要なのだ.また再構成しやすいツリー構造という問題もある.英語の場合SVO言語なのでより右に細かな枝分かれが来るツリーが再構成しやすくなる.真ん中に細かい枝が来る文章は再構成しにくい*10
多義的なツリーは特に詳しく解説されている.これは日本語にもあって「頭が赤い魚を食べた猫」などの語句が有名だ.英語ではこれはgarden pathsと呼ばれるそうだ.話し言葉では抑揚があるのでこれはあまり問題にはならないが書く際には問題が大きい.多義性を減らすには句読点が重要になる.また関係代名詞を明示すること,冠詞をうまく使うこと,修飾語の位置を工夫することによって明確にすることができる場合もある.これらは簡潔性と明晰性のトレードオフとも言える.またよくつながって現れる単語はそれを含むツリーに解釈されやすい*11ので,それが正しいツリーでないなら避けたほうがよい.
ピンカーはこれ以外にも語順を考慮した方がよい場合を解説している.英語はラテン語や日本語と異なり語順に制限が多いが,それでも可能ならば,最も重い語句を最後に,主題を先にコメントを後にした方が読者は理解しやすい,そしてそれは受動態,様々な前置法,後置法,there is構文,it is 〜 that構文,What 〜 is that構文などを用いることで可能な場合がある.


第5章は文章の一貫性.個別の文が明瞭でも,それが並んだときに文章として一貫していなければ読者は道に迷う.読者はある文と別の文がどういう関係にあるかを文自体から知ることはできない.それが文脈からわかるような一貫性のある文章を書くことが重要なのだ.
文と異なり文章は個別の文の順序の制限を受けない.そしてどう組み立てればいいかのアルゴリズムはない.たとえば時間順に書くのは一つの方法だが,常にうまくいくわけではない*12.区切りを示すにはパラグラフ分割が有効だが,示せることには限りがある.
ピンカーは,特定のテーマやトピックに沿って様々なアイデアの連結構造をネットワーク状に持つことが重要であるとし,それを「一貫性の弧:arcs of coherence」と呼んでいる.そしてこの一貫性の弧を作るために言語の語彙と文法のリソースを総動員することを勧め,いくつか例示している.

  • トピック(何について書いているのか)とポイント(伝えたいことは何か)を提示する*13.より専門的な文章なら,要旨,摘要,梗概,記事なら,見出し,タグ,プルクオートなどを利用することによってこれらを示せる.
  • アイデアの流れに読者をうまく誘導することが重要だ.主語を揃える,戦略的受動態の利用,複数のトピック間の一貫性,不定冠詞と定冠詞の使い分け,一貫して同じ単語を使うか同義語に換えるかの戦略的選択*14などの技巧は効果的だ
  • 論理的なつながりは特に重要だ.ある文と次の文との論理的な関係は接続詞などでわかりやすく示すことができる:順接なのか逆接なのか,類似なのか,比較なのか,詳細に進むのか,例示なのか,一般化なのか,例外なのか,時系列なのか,因果関係なのか,読者の反応の予想なのかなどがわかる文章には一貫性が感じられるのだ.ただしあまりに自明な関係にまで接続詞を用いると別の意味があるように響く.このあたりも読者レベルに依存する難しさがある.
  • 否定には特に注意を払って明瞭にすべきだ.二重否定は把握しにくい.否定は認知的な負荷となるのだ.これは書き手さえも混乱させる*15.認知的には.否定される言説がもっともらしかったり魅惑的だったりする時には否定は把握しやすくなることも留意しておいた方がよい.特に何を否定しているか,その範囲やフォーカスを明確にすることは重要だ.英語は論理学者が望むほどロジカルではない *16ので,読者は否定の範囲を文脈から読みとるほかないことも多いのだ.
  • 文章のバランスがおかしいと一貫性が感じられなくなる.ポイントから離れた脱線を大量に挟み込むのは読者を道に迷わせる.
  • テーマの一貫性も重要だ.ある同一のトピックをある文脈ではある概念の例として用い,別の文脈では異なる概念の例として用いるのは読者を混乱させる.

この最後の3点についてはその一貫性のない悪文の例としてジョン・キーガンの大著「戦争の歴史」の冒頭を取り上げてこてんぱんに批判していて面白い.ピンカーが前著「The Better Angels of Our Nature」を書いているときに必読参考文献として読んでいて,そのあまりの悪文振りに頭をかきむしっている様子が目に浮かぶようだ.


ここまでがピンカー流文章教本の原則編だ,ピンカーはこのあとかなり長大な第6章をおいて,ちまたにあふれている誤解に満ちたアドバイスや,白熱している文法議論を裁く各論としている.誤解に基づく各種主張は強い熱意を持ってなされていて,ピンカーとしても放置しておけないということだろう.様々な個別トピックが次から次へと俎上に載せられていて,読んでいて大変面白いし,ネイティブによる混乱という意味でも興味深いところだ.
基本的には言語のルールには客観的な真実があるはずだ(そして論者の多くはそれをラテン語文法に求めたりするそうだ)という大いなる誤解,そして語源,あるいは古くからの用法が常に正しいという根拠のない信念が混乱の元と言うことになる.ピンカーは言語ルールには客観的な真実などというものはなく,ある意味多数決で決まり,時代とともに変遷して行くものだとしながらも,そうは言っても確立された慣例に従う意味は十分に大きい(読者に信頼感を与え,理解してもらいやすくなり,さらに書き手と読者がそれを共有することにより深く美しい言語世界を味わうことができる)とコメントしてから各論に入っている.
各論は形容詞と副詞の違いや,いわゆる仮定法の解説など文法的な問題から,句点やアポストロフィーの打ち方など多岐にわたっている.これらは文法好きな人や実際に英文を書く人にとっては大変興味深い各論になっている.


以上の概要から分かるように,本書は,ピンカーのこれまでの言語学者,認知科学者の業績の実務的な応用としてのすばらしいスタイルマニュアルとなっている.特に「世界の真実を自分と同じレベルの認知能力を持つ読者にわかりやすく説明するにはどうすればいいか」という問題について,そのような叙述スタイルの背景,アイデアを書き言葉で示すことの基本的な困難性,陥りやすい罠,有効な戦術,それらの理由を明晰に説明してくれる.これはまさに誰かに世界の真実を説明したい書き手にとって大変参考になるだろう.そしてそれらの本筋の合間合間に,悪文の例や文法をめぐる誤解をユーモアたっぷりに取り上げていて読者を飽きさせない.英文で論文を書く人々には特に推薦できる教本だと言えよう.


関連書籍


著名な文章教本Strunk and White


ピンカーの言語3部作.The Stuff of Thoughtの私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20080925.なおWords and Rulesについては邦訳されていない.


 

*1:ピンカーによると,クラッシックスタイルは,随想,ロマンティック,予言,神託,自意識過剰,相対主義,ポストモダンなどのスタイルとは異なる.また一部重なっているが,特定の役割に資するように書かれているメモや取扱説明書のようなプラクティカルスタイルや,読者にすべて一から説明するプレインスタイルとも異なる.

*2:ピンカーはブライアン・グリーンのマルチバースの説明の文章を例にとって詳しく説明している

*3:ピンカーはveryやhighlyなどの強調詞すらヘッジになることがあると指摘している.

*4:いちゃもんをつけるだけのクズには毅然と対応する気迫が必要というぐらいの趣旨だろう

*5:ここでピンカーは陳腐な言い回しやその誤用が生みだす世界の不幸についてコメントしており傑作だ.

*6:動詞を用いて説明できることを動詞の名詞形を用いて叙述することを指す.ピンカーはこれは学者語や政治家語の悪い部分だとして具体的な例をあげている.ここも面白い

*7:なおピンカーは名詞形の利用がすべて悪文につながるわけではないと注意している.名詞形や受動態が有益なこともあるのだ.問題は背後の理由を理解することだ.

*8:ピンカーは例として目覚まし時計の操作マニュアルの文章を提示してその理解不能性を示しつつ,「私はエンジニアが,自分が何を書いているかについて完全に明瞭だったことには疑いを持っていない」とコメントしている

*9:深層構造が表面構造に転換する際に元の位置と異なる位置に語句が移動する.その際の移動距離が長いと読者は意味を見失いやすい

*10:ここもピンカーは共和党政治家のボブ・ドールの悪文を例をあげていて面白い.

*11:「Fat people eat accumulates.」が例文として出されている.fatとpeopleの強い結びつきが読者を偽のツリーへの解釈に導く.

*12:ピンカーは,ある科学的なトピックを説明するときによく科学史に従って書く方法がとられるが,それが物事を理解する一番いい方法であることはまれで,多くの場合ナルシシズムに過ぎないと切って捨てている.

*13:ここでは何を言っているのかよくわからない文章を示し,それがサギ類の渡りのことである,あるいは凧揚げのことであると知るととたんに文章の意味がわかることを示している.読んでいてなかなか劇的だ.

*14:ここはかなり丁寧に論じられている.気まぐれに同義語に書き換えるのは悪い意味でのジャーナリズム語になってしまう.しかし同じ単語を代名詞などで受けずに連続して使うと,何か特別な意味があるかのように響く.比較している文章においては言い換えるべきではない(読者は比較の文脈では特に混乱する).言い換えるときにはより一般的な単語で受ける方が自然になる.ここにゾンビ名詞の使用価値がある.抽象的に名詞化された単語は,一般化された受け皿となる.つまり代名詞的な働きをするのだ.この言い換えの問題はなかなか奥が深い

*15:ピンカーは混乱例をいろいろと挙げていて面白い.

*16:日本語でも同じだが「All doors are not open.」という文はドアの一部が開いているのかどうかについて多義的だ.また「Dave is not evil because he did A.」という文では,彼は邪悪ではなくbecause以下で彼が邪悪でない理由を説明しているのか,彼は邪悪であって彼の邪悪さの理由はbecause以下ではなく別の理由があると言っているのかわからない.