「視覚の認知生態学」

視覚の認知生態学―生物たちが見る世界 (種生物学研究)

視覚の認知生態学―生物たちが見る世界 (種生物学研究)


種生物学会は学会のシンポジウムの本を文一総合出版からシリーズものとして出版しており,本書もその一冊.内容的には2009年のシンポジウム「生きものの眼をとおして覗く世界:生理学が支える認知生態学の可能性」が元になっている.


第1章は視覚の基礎知識.光が電磁波であり,視覚とは地上に届く太陽からの電磁波スペクトルの中の一部分を感知しているものであること,電磁波を神経パルスに変えるのはロドプシンであり,それはオプシンとレチナールからなり,オプシンの種類により波長の感受性が異なること,ヒトには青,緑,赤に感受性の高い3種類のオプシンがあり,ヒトの色覚はその感受性の違いを「青ー黄(緑+赤)」と「緑ー赤」という2種類の差分を通してみていること(だから世界に固有の色はなくそれは脳内で創られるものであり,1次元スペクトルであるはずの波長の違いが円環である色相環として感じられ,青と黄,緑と赤が補色と知覚される)などが詳しく解説されている.すでにあらかた知っている読者にとってはおさらいということだが,ここがわかっていないと後の章の理解が難しくなるので必須の基礎知識ということになる.


第2章は昆虫の視覚について
ミツバチとチョウの色覚がどのようなものであるかが,複眼の細かな仕組みとともに解説されている.複眼は個眼の集まりであり,分解能としては個眼一つが1ピクセルということになる.しかし個眼には複数のオプシンが含まれ,一つ一つの個眼で色識別ができる.そしてその個眼に含まれるオプシンの組み合わせにはいくつかのタイプがあり色識別能が異なっているのだ.ミツバチでは3種類のオプシンを3タイプに組み合わせて色識別を行っている.モンシロチョウは4種類のオプシンを7タイプに組み合わせ,さらに色素物質を色フィルターとして利用して色識別能をあげている.アゲハチョウはオプシンを6種類持ち3タイプに組み合わせている.
この章は私的にはあまり知らない至近メカニズムのところで興味深かった.それぞれの仕組みはどのような淘汰圧の元で進化してきたのだろうか.なぜ個眼のタイプは普遍的に3なのだろうか.フィルター型とオプシン多様型には何らかのトレードオフがあるのだろうか.今後のリサーチの進展が待たれる.


第3章はハナバチの花知覚について
ハナバチは光の強さを見る緑コントラストと色を区別する色覚を,対象になる花が作る視角の大きさによって使い分けているという報告.神経系の大きさやニューロン数の制限からぎりぎりで感覚系を使い回している様子がよくわかる.そしてこのような知見が得られると,花の色や形態(そしてその周囲にいる生物の色や形態)が送粉者の誘因や擬態としてうまく機能しているかどうかについてより正確に推測できることにつながることも示されている.


第4章は托卵鳥の操作
ジュウイチのヒナの翼にはホストであるルリビタキの口内模様に似せた模様がある.これはホスト親を操作してより餌を運び込ませるためのものであると思われるが,それを主張するには鳥の視覚から見てもヒナの口内模様に見えることを示す必要がある.というわけで鳥の色覚についてオプシンが4種類あり,紫外領域まで広がりかつヒトより1次元高い色覚を持つことが解説されている*1.なお紫外領域を見るには組織損傷を抑える仕組みも進化している必要があることについても解説がある.一旦この仕組みが失われた哺乳類にとっては単にオプシンの変異だけでは適応的な紫外領域色覚は得られないということのようだ.
話はジュウイチに戻って,ジュウイチビナの翼の模様とホストビナの口内模様を紫外領域まで調べてみるとジュウイチビナの翼模様の方が紫外領域をよく反射して補色側にまで偏らせており,鳥の色覚内では異なる色相に見えるはずであることがわかった.この結果は著者である田中にとっては驚きであったように思われるが,ここでは淡々とそれがよりホストからより餌を得るための刺激になっているはずだという予想をあげて,その解明が課題であるとしている.超刺激というには無理がありそうでなかなか不思議なところだ.思いがけない発見につながる予感も感じさせる.
その後は鳥類にとっての紫外領域色覚の適応性,発色の至近的メカニズム*2,発色のコスト*3などが簡単に解説されている.


第5章は新世界ザルの色覚
新世界ザルはX染色体上のオプシン遺伝子に変異が生じて3色視を再獲得したが,その際に遺伝子重複が生じずに*4ヘテロメスのみ3色視可能になりオスとホモメスはオプシンにより異なる波長の2色視という状況になっている.これは単に遺伝子重複が生じなかった偶然なのか,2色視個体にも適応的なメリットがあるのかが議論されている.
著者の平松はコスタリカのクモザルをリサーチする.クモザルを追って糞を集めてDNA解析して色覚タイプを特定し,行動を観察して色覚により何らかの適応度差異があるかどうかを調べるのだ.このリサーチの様子が臨場感豊かに描写されてなかなか楽しいリサーチ物語に仕上がっている.
結局様々な色の果物やその他の食物摂取について色覚の差が何らかの適応度差に結びついているというデータは取れなかったようだ.(共同研究者のオマキザルの観察から赤いイチジクの実の採択率が3色視個体で高いというデータを得られたが,単位時間当たりの果実摂食度では差がでなかった)というわけで,単純なストーリーにはならなかったがリサーチを通してさらに様々な謎*5が広がる様子が描かれていて面白い.特にいくつかある赤緑のオプシン多型の頻度がどのように決まるのかという問題は興味深い.


第6章はシクリッドの種分化と色覚
ヴィクトリア湖のシクリッドの種分化速度の速いことと,同所的種分化の議論を簡単に振ってから「視覚の生息環境への適応が配偶者選択を通じて種分化に寄与することがあるか」という問題を取り扱う.実際には透明度と水深が色覚に影響を与え,それがメスによる配偶者選択を通じてオスの婚姻色の発色に影響を与えていることが示されている.


第7章は夜の森林の中で方向を見定めて餌を幼虫に運ぶカメムシ
それまでは考えたこともなかったが,確かに昆虫が夜の森林で定位するためにどのように視覚を用いているのかは興味深い問題だ.著者は様々な実験を繰り返してカメムシが頭上のキャノピーにおける樹木の広がりが切れて夜空が見えている部分を手がかりに定位していることを突き止める.この章は,謎解きのおもしろさと現れてくる意外な昆虫の能力にわくわくしながら読むことができる.


このほかに本書には様々なコラムと付録が収録されている.コラムはいずれも興味深い視覚に関わるものになっている.特に針山による「視覚世界の時間変化」と「偏光を感じる生き物たち」の2本のコラムは秀逸だ.フナムシの複眼はラブドームの量を調節して「絞り」機能を果たしているし,オプシンだけでなくレチナールの種類によっても波長感度は異なってくるが,そのレチナールの種類は季節変動するようだ.そうすると複眼を持つ生物の色覚を見定めるには,単にオプシンの種類だけでなく個眼の構成やフィルターそしてレチナールの種類まで考慮することが必要になるようだ.昆虫などが偏光感知できるのはこれまで単に繊毛の構造によるものだとされていたが,結局偏光知覚と色覚においてトレードオフがあることが説得的に解説されている.いずれも深い.また付録には紫外線写真の取り方が解説されていて実践的だ.(市販のデジカメのCCDは通常特に紫外領域の感度をカットしていないのでうまくフィルターをかけることによって紫外領域の写真を撮ることが可能だそうだ)


この視覚にかかる認知生態学のリサーチはここ数年非常に盛り上がっており,それは視覚にかかるロドプシンのDNA配列からどのような色覚をその動物が持っているか推測できるようになったことが大きいように思われる.それまでは手間のかかる行動実験を通してしか色覚を確かめることができなかったわけだから,その技術がリサーチの可能性を大きく広げたことは容易に推測できる.本書は突然開けたリサーチの機会に飛びついた若手リサーチャーたちが興味深い世界に分け入っていく臨場感と興奮が追体験できるなかなか得難い書物に仕上がっていると思う.


 

*1:やはり詳細は面白い.鳥の紫外領域オプシンには2種類あって鳥によって異なるらしい.より短波長が見える鳥はオウム,カモメ,スズメ小目の小鳥などに限られるようだ.どのような淘汰圧や系統制約があったのだろうか.

*2:基本的に色素による色は赤・黄色のメラニン,黒・茶色のカロチノイドで,青と紫外領域は構造色ということになる.胆汁の色の元である色素ポルフィリンは使われていないとあるが,なぜ使われないのかについては解説されていない,構造色に比べてコストが高いということだろうか,興味深い

*3:生理的コストのみ取り上げられている.捕食リスクなどについても指摘してほしかったところだ

*4:ホエザルのみ重複が生じている

*5:いくつかの行動差異はある,生涯の生存率や子数データでは差異が見つけられない,2色型の方が昆虫を見つけやすいという報告がある,