「アジアの熱帯生態学」

アジアの熱帯生態学

アジアの熱帯生態学


本書は熱帯地域の生態学の大家リチャード・コーレットによる熱帯東アジアの陸上の生態学についての総説書である.ここでいう熱帯東アジアとはおおむね南中国と東南アジア地域であり,日本の沖縄や小笠原を含む.東側は生物地理学的でいう東洋区とオーストラリア区との境界になり,西側はやや恣意的にミャンマーまで*1としている.原題は「The Ecology of Tropical East Asia」.

本書はまさに総説書であり,環境史,自然地理学,生物地理学,植物の生態,動物の生態,エネルギーと栄養塩類,生物多様性への脅威,保全という順序で解説されている.*2

環境史

ここではプレートテクトニクスから解説されている.読んでみてわかるのは,東南アジアの島々がどのように大陸とつながったり離れたりしたかというのはなお未解決の部分があるということだ.このほか氷河期を含む気候変動史,天体衝突,火山活動が概説されている.ちょっと意表を突かれるのは,ここで人類の移動が解説されていることで,これは東南アジアの現在の生態を考えるには,農耕以降この地域の人口密度が非常に高くなり植生が大きく変わっていることが非常に重要になってくるためだ.

自然地理学

気候,土壌,植生がまず解説されている.全般的に湿潤な熱帯東アジアにおいても,雨期の有無はあり,かなり大きな生態要因となっていることがわかる.また降水だけでなく,雲霧由来の水分が重要な地域があるというのも興味深い.このほかエルニーニョ変動,火災,土壌,植生,フェノロジーと解説されている.様々な土壌の違いなども詳しく解説されている.あまり知識も無かったので読んでいて興味深い.フェノロジーのところでは,常緑樹になるか落葉樹になるかは種内変異が大きく条件依存的に変わることもあると指摘されていて,これは知らなかった.このあたりのフェノロジーの至近要因,究極要因の研究はあまり進んでいないそうだ.

生物地理学

やはり東洋区とオーストラリア区の区分の複雑性が面白い.また中国大陸の南北で地形的に連続しているが生物地理では旧北区と東洋区に分けられている最大の要因は最低気温が氷点下になるかならないかということで,それは葉の耐氷性に大きなコストがかかるかららしい.ここでは沖縄,小笠原を含む様々な島の生物地理も解説されていて読んでいて面白い.

植物の生態

送粉,種子散布が中心的なトピックとして扱われている.また東アジアと南米の違いもいろいろと議論されていて興味深い.一斉結実は東アジアの特徴なので議論も深く,捕食者飽食仮説,親樹からの分散の有利不利などが詳しく扱われていてここも読んでいて面白いところだ.また樹木の研究に比べて蔓植物や着生植物の研究は進んでいないらしい.リサーチも大変なのだろう.

動物の生態

食性ごとに解説されている(繁殖生態についてはあまりわかっていないのだそうだ).ここは詳細が楽しい.私が面白いと思ったものをあげておこう.

  • 潜葉性は鱗翅目や鞘翅目で独立に何度も獲得された
  • 単子葉植物は相対的に低タンパクで質で高繊維質なので,(双子葉植物に比べ)質の低い食物だと考えられてきたが,逆に化学防御物質は少なく一概には言えない.(クスノキ科の一種のボルネオテツボクは乾燥質量の1/4が化学防御物質になっている.)
  • 熱帯東アジアでは花資源の出現の時空的な予測が難しいために新熱帯に比べると鳥類やコウモリ類の花蜜や花粉へのスペシャリストが少ない.
  • ムクドリツグミ,ヒタキ類はショ糖を消化できず,ショ糖が含まれる果実を忌避する.哺乳類に利用される果実の中にはほとんどすべての糖類がショ糖になっているものがある.
  • 果実には微生物に対する防御と種子散布者に好まれることの間にトレードオフがある.
  • 無脊椎動物食の哺乳類の最大身体サイズは15〜20kgである.これは小さな餌動物を摂食する最大速度が肉食者の身体サイズの増加に伴って増加できないためである.
  • 齧歯類の補食にはあまり特殊化が必要でないらしい
  • バクは理由不明ながら捕食者から忌避されているらしい
  • 脊椎動物の)腐肉食では死んだ動物を素速く探すことが重要であるので,ほぼすべてのスペシャリストは滑空できる大型鳥類である.新熱帯ではコンドルが匂いで探索するが,熱帯アジアではハゲタカが視力で探索する.

エネルギーと栄養塩類

光合成やその他生物活動の律速が何によって決まるのかが詳細に議論されている.熱帯林では基本的に窒素が豊富でリンが欠乏しているのが高緯度地方との大きな差なのだそうだ.

生物多様性への脅威と保全

ここはそれまでの記述と異なり,著者コーレットの様々な思いがこもった章になっている.東南アジアにおいては人口の大幅な増加の歴史が中国に比べて浅く(おおむね19世紀以降),森林域の大幅な縮小などの急速な環境変化につながっている.森林伐採,採掘,大気汚染,富栄養化などが個別にも議論され,さらに地球温暖化も取り上げられている.保全についてはカーボンオフセットの取り組みに好意的で,それをうまく生物多様性オフセットにつなげられないかという課題がその実現の難しさの要因とともに議論されていて,様々な実務的な課題の整理とともに,直面している当事者ならではの迫力を感じるところだ.


本書全体として,熱帯アジアの生態の現在得られている膨大な知見を項目ごとに整理して提示してくれる非常に価値の高い教科書として評価できると思う.南中国や東南アジアの自然について知りたいならまず開くべき本ということになろう.


関連書籍


原書

The Ecology of Tropical East Asia

The Ecology of Tropical East Asia


 

*1:生物地理区分でいうと東洋区はインドを含む概念になる.インド亜大陸では乾燥地域が卓越しているためにここで区分しているということらしい

*2:表紙カバーは美しいカラーイラストが散りばめられていて読者の期待を誘うが,本文内ではすべて白黒写真になっている.これは原書もそうなっている模様だ.予算の関係もあろうが少し残念だ.