「エコゲノミクス」

エコゲノミクス ―遺伝子からみた適応― (シリーズ 現代の生態学 7)

エコゲノミクス ―遺伝子からみた適応― (シリーズ 現代の生態学 7)


本書は共立出版から出されている「現代の生態学」シリーズの一冊.最近急速に向上しているゲノム解析技術が生態学の世界にどのようなインパクトを与えるのかが解説されている.全体で4部構成になっており,遺伝的変異と適応,適応遺伝子の探索,適応遺伝子の機能,適応遺伝子の進化が扱われる.

第1部 遺伝変異と適応研究

第1章は矢原徹一による野外実験の意義を強調する導入.1950年代になされたクローセンによるノコギリソウ属植物の相互移植と交配実験を使った適応的遺伝的変異の探索リサーチを紹介し,現代のゲノム解析技術をこのような組織的体系的取り組みと組み合わせれば適応研究がより大きく展開するだろうと結んでいる.いきなりゲノミクスに入らずに,まずその意義を外側から伝える粋なオープニングだ.
第2章から一気に遺伝学とゲノム解析技術の教科書となる.第2章では遺伝的変異の種類,その変異量の評価方法,変異量の決定要因(集団サイズと浮動,適応,繁殖様式,突然変異など),空間的遺伝構造(遺伝的分化とその統計量,遺伝距離など)が解説される.集団規模と浮動・適応の関係がコンパクトに解説されているのがうれしいところだ.
第3章は系統学.分子情報から系統樹を推定する分子系統学の初歩が解説される.具体例として,カンコノキやコミカンソウの絶対送粉共生系における植物側の祖先形質の推定,機能遺伝子に焦点を絞って解析した有隣目の毒タンパクの進化史の推定(従来ヘビ類とドクトカゲ類の毒は独立に進化したと考えられてきたが,毒タンパク遺伝子を調べると「共通祖先で一度進化し,分岐後イグアナやオオトカゲ類で消失した」と考えるべきことがわかり,さらに調べるとイグアナやオオトカゲでも毒を持つものが存在することがわかったというもの)が扱われている.さらに量的形質の場合の系統的独立対比解析,様々な環境要因と形質量を系統樹と合わせて一気に網羅的に解析することにより適応形質の進化パターンを推定する手法などが紹介されている.後者はいかにもエコゲノミクスというべき手法で興味深い.

第2部 適応遺伝子の探索

第4章で調べたい性質の変異について原因遺伝子を突きとめる方法論の概説がある.大きく分けると,形質のQTLマッピングなどを行う順遺伝学的アプローチ,遺伝子の発現パターンから見ていく遺伝子発現解析,特定領域のゲノムを読んで自然淘汰の痕跡を統計的に探るゲノムスキャン,形質から候補遺伝子を推測しそれを直接調べる候補遺伝子アプローチの4方法があり,さらにそのいくつかを組み合わせることもあることが解説される.
第5章は順遺伝子学的アプローチ,最初に量的遺伝学の基礎が解説され,さらに遺伝子座数の推定方法とその意義(同所的種分化の生じやすさの推定に資するなど),連鎖と組み替えの基礎,QTL解析の流れが解説されている.またQTL解析もこれまではF2世代や戻し交配によりデータを得ていたが,近時の解析技術の発達によりゲノムワイド関連解析が可能になっていることも指摘されている.
第6章は順遺伝学手法以外のアプローチの元になる基礎技術の解説.PCRおよびPCRを利用した遺伝子発現解析,マイクロアレイ,ゲノミックアレイ,次世代シーケンサー,遺伝子組み換え技術が簡単に解説されている.
第7章は第6章で解説された技術の応用として,分子マーカーの探索や,適応遺伝子の特定のためのデータベース解析手法が扱われる.まず比較対象となるモデル生物のデータベースの紹介や,用語解説がなされる.そこから分子マーカーの探索方法(マイクロサテライト,SNP,系統解析用に有用な遺伝マーカー)の解説となる.系統解析においては遺伝子重複による相同性の由来の問題(オーソラグとパラログの区別)が重要であるために,パラログがなく進化速度が一定のマーカーが必要になるが,それらはゲノムデータの網羅的解析から得られるようになっているそうだ.また特定形質関連の遺伝子を絞り込むための手法(モデル生物データベースの利用,機能別遺伝子群を抽出可能にしたデータベースの利用,近縁種間のゲノム比較,重複遺伝子間の機能分化を調べる統計的手法),mRNAから作成したデータを利用した遺伝子発現解析,非モデル生物への応用手法などが実務的に解説されている.

第3部 適応遺伝子の機能

第8章は概説だが,これから扱う「適応」がいかに複雑かが強調されていて面白い.遺伝子ネットワーク自体の複雑さ,環境との相互作用の複雑さ,適応プロセス全体の複雑さが絡むのだ.そしてそれを理解するには伝統的な個別要素の分解する還元的なアプローチと,複雑な系全体をそのまま扱うシステム生物学的アプローチがある.本書は後者のシステム生物学的アプローチに焦点を当てるということになる.
第9章では生息地環境が複雑な場合を遺伝子発現解析により解明していくアプローチが解説される.遺伝子発現は分子的な表現型と考えることができ,いくつかの手法により同時に大量の形質値を測定できる.そしてこれは遺伝子型だけから決まるものではなく環境の影響を受けるので,操作実験や野外対照区で発現がどのように異なるかを解析できる.ここでは実際に野外対照区を用いて解析すると実験室での制御環境下と野外の標準環境がかなり異なることがわかったことが解説されている.また遺伝子発現における遺伝変異を解析し,遺伝的マッピングを組み合わせると,量的形質遺伝子座を含む遺伝領域の推定が可能になる.これによりシス作用とトランス作用の違いも明らかになりつつあるそうだ.出芽酵母ではかなり包括的に解析がなされており,発現の個体間差異には大きな遺伝変異が含まれていること,大半の遺伝子座においては遺伝的発現という量的形質は効果の小さい多くの遺伝子座の制御下にあること,多面発現が卓越していること,超越分離(後代における遺伝子発現の個体変異が,由来した両親系統の形質範囲を超えて分離してくること)がしばしば見られることなどがわかってきている.また同じく出芽酵母を用いた培地条件を変えた実験やハクサンハタザオを用いた気温と遺伝子発現の時系列分析などからわかるのは,「遺伝子調節のネットワークは実験室で設定されるような定常条件への最適化ではなく,絶え間なく変化する環境に対する頑健性のある応答に最適化されているようだ」ということだと強調している.知見が急速に積み重なっていく興奮が伝わるような解説だ.
第10章は生態発生学.特に表現可塑性の発生機構に関する解析が,ミジンコ,アブラムシ,シロアリのカースト分化などを例に詳しく解説されている.
第11章は複雑な遺伝子ネットワークの解析.有向グラフを使ったネットワーク解析,微分方程式を用いたネットワークダイナミクス数理モデル化,さらに複雑なネットワークの場合に制御関数を厳密に定めずにグラフのみからダイナミクスの挙動を予測する手法,制御構造を明らかにする実験手法が解説される.このあたりは数理的で面白い.さらにノードの形成と遺伝子重複の関係,ダイナミクスの変化にかかる自然淘汰,その種間比較による検証などの将来展望が語られている.

第4部 適応遺伝子の進化

第12章は概説.適応遺伝子をリサーチするのは分子生物,分子遺伝,ゲノミクス,生態,進化,発生などの学問の学際的な要素が濃いことがまず強調されている.まずゲノミクスデータから適応遺伝子を探索し,自然淘汰を検出することができる.さらにその遺伝子のDNA変異が特定の適応形質に関わっていることを示して自然淘汰との因果関係を補強し,環境や種内種間の相互作用,集団の歴史の推定までスコープは広がるのだ.
第13章は自然淘汰の直接観察.ここでは伝統的な手法での自然淘汰の検出から解説が始まる.グラント夫妻のガラパゴスフィンチの観察のような野外観察,イトヨやグッピーで試みられた相互移植実験,人為淘汰実験,人工的な環境変化における観察などだ.ここから自然淘汰のかかり方の解説で,方向性淘汰,安定化淘汰,分断化淘汰の概念,強さと方向性についての遺伝学的な計測が整理される.そしてこれまでになされた様々なリサーチをメタ解析してわかってきたことがまとめられている.安定化淘汰が分断淘汰より必ずしも多くないというのは私にとっては意外な知見だった.

  • 方向性淘汰の強さは様々.
  • 形態形質への淘汰の方が生活史形質への淘汰より強い傾向がある.
  • 性淘汰は自然淘汰より強い傾向がある.
  • 安定化淘汰は分断淘汰より必ずしも多いわけではない
  • 淘汰の強さや方向は常に変化していて一定ではない

ここからゲノミクス関連の各論で,量的形質で(量的遺伝学の前提に反して)比較的少数の遺伝子の制御下にある場合,さらに同定された少数の複数遺伝子間の相互作用がある場合が解説されている,最新の知見でありなかなか興味深い.
第14章はDNA配列の解析から自然淘汰を探るゲノムスキャン手法.ここは理論的に基礎から積み上げて解説されており,簡潔で要を得た記述振りが見事だ.まずDNA配列の変異を定量的に取り扱う学問として分子集団遺伝学を紹介し,その中で得られた配列情報から進化的プロセスを定量的に推定する方法論が,コアレセント理論(合着理論)の普及にともない近時急速に発達していることを指摘している.
それは大量のDNA配列の変異ごとの系統分岐パターンから,個体数変動,移動分散,淘汰,浮動などの進化プロセスがどう働いてきたかを推定するもので,集団突然変異率θw,塩基多様度π,Tajima’s D,などの要約統計量を用いるものだ.

  • 方向性淘汰が働いていると強く連鎖しているその遺伝子近辺の配列で淘汰的一掃(selective sweep)が生じる.するとθw,πが下がり,さらにその部分には本来頻度の低いマイナーな遺伝子配列が相対的に多くなるためにπの方がより大きく影響を受けるので(集団サイズ一定の前提下で)Tajima’s Dは負になる.さらに連鎖不平衡も大きくなる.(イトヨやシロイヌナズナ(開花時期)における実際の検証例も示されている)
  • 平衡淘汰下では蓄積変異が中立進化時より多くなり,θw,πが上昇し,Tajima’s Dは正の値をとることがある.(対立遺伝子数が多いとTajima’s Dが顕著な正の値にならないこともある)連鎖不平衡は平衡淘汰がどの程度長期にわたって続いているかによって様々な値を示す.(シロイヌナズナの病害適応遺伝子の検証例が示されている)

ただし上記の例は集団サイズが一定の場合という前提を必要としている.だから実際の分析においては(特に最近の)集団動態に注意を払うべきことが強調されている.また最近では連続したDNA配列における要約統計量のプロット曲線から自然淘汰の時期や強さを推定する手法も開発されており,淘汰圧イベントとの関連を議論できるようになっているし,モデル生物などのゲノムワイドな多型情報があれば淘汰のかかった遺伝子をゲノムワイドに探索できるようになっているそうだ.このあたりは著者たちの興奮が伝わってくる記述になっている.
第15章は生殖隔離と種分化遺伝子の探索について.種分化と生殖隔離についての概説の後,生殖隔離が自然淘汰による場合,中立的過程による場合の両方があり得るとする.そして実際に探索された種分化遺伝子のいくつかの例を紹介している.この中で面白い例はモーリシャスショウジョウバエとオナジショウジョウバエの分化に関するもので,強い自然淘汰を受けたモーリシャスショウジョウバエのホメオドメイン遺伝子がオナジショウジョウバエY染色体ヘテロクロマチンと相互作用して雑種不妊を引き起こしていることが明らかになったそうだ.この発見は自然淘汰が生殖隔離を引き起こしうるという見方が大きく支持されるきっかけになったそうだ.その他に挙げられているものも興味深い事例が多い,ここも近時急速に知見が増えている分野なのだろう.
第16章はゲノム重複.重複の仕組み,系統樹から見る重複の歴史,重複の進化への影響(形態形質では複雑な形態を可能にし,遺伝的多様性を増やすために放散環境では有利になり,近交弱勢を回避しやすいなどがある),二倍体化,異質倍数体あたりが概説され,その後重複がある場合の遺伝子発現の不安定化傾向,エコゲノミクスを行う上での注意が解説されている.
第17章はエボデボ.まずHox遺伝子群とこれまでのエボデボ研究が概説され,それが引き起こした「器官の相同性」についての議論が解説されている.これは例えば「眼は独立に何十回も進化した」と考えられることと,「Hox上では相同遺伝子が支配している」ことをどう整合させるかということで,現在の有力説は,左右相称生物の共通祖先は単純な光受容器を持っていて,それの発生がPax6遺伝子の支配下にあり,そこから様々な方式の眼が独立に何度も進化したのだろうということらしい.この後,ツールキット遺伝子,シス/トランス論争(ある遺伝子の発言量が変化する原因はシス制御領域にあるのかかトランス制御因子かという論争*1),ゴールドシュミットに始まる「有望な怪物」論争を概観し,最後にいくつかの表現型変異の原因遺伝メカニズムの例をあげ,エコデボ(生態発生生物学)へ至る将来展望を語っている.


以上が本書のあらましだ.コンパクトな中にぎっしりとゲノム解析生態学に与える影響が解説されていて,水準の高い充実した一冊になっていると思う.



 

*1:なお決着はついておらず,シス論者がやや優勢な状況だそうだ