「ネアンデルタール人は私たちと交配した」

ネアンデルタール人は私たちと交配した (文春e-book)

ネアンデルタール人は私たちと交配した (文春e-book)


本書は2009年にネアンデルタール人の化石骨から核DNA配列を読み出し,サピエンスとネアンデルタール人の間に交雑があったことを示したマックスプランク研究所チームのリーダーであるスヴァンテ・ペーボによる自伝であり,かつ研究物語である.著者は古代DNA研究の第一人者であり,この分野のリサーチの状況が非常によくわかるし,さらに正直に書かれた自伝が大変面白い読み物にもなっている.原題は「Neanderthal Man: In Search of Lost Genomes」で,必ずしもサピエンスとの交雑のみに焦点が当てられた本ではない.


冒頭は,ネアンデルタール人ミトコンドリアDNAの解読に成功した1996年当時の回想から始まっている.本当に解読できたのかという懐疑,そしてそもそも「何万年も前の化石からDNAを取りだして解読できたという途方もない主張をするには,途方もない証拠が必要だ」という年来の主張に誠実でなければならないという思いが正直に書かれている.壊れやすい化学物質が微少にしかないという状況に加え,現代のDNAによる汚染を防ぐことが極めて困難なのだ.そして入念なチェック(他ラボでの追試の成功を含む)の結果,ミトコンドリアイブ仮説に整合的な結果を得る.サピエンスとネアンデルタール人は50万年前に分岐し,ネアンデルタール人が特に(多地域進化仮説にあるように)ヨーロッパ人と近いわけではなかったのだ*1


ここからペーボの自伝が始まる.ペーボは1981年当時,スウェーデンのウプサラ大学で,古代エジプトに興味を持っている医学生だった.臨床は楽しく,ウィルスとホスト免疫の研究も面白かったが,古代エジプトへの興味は頭から離れない.ペーボはミイラからDNAを解読できないかと考えついてラボで子牛のレバーのミイラ作りに手を出す.即席の子牛レバーミイラからはDNAが回収できたが,その成功に味をしめて手を出したウプサラの博物館のミイラからは回収できなかった.ペーボはここであきらめずに東ドイツの博物館にコネをつけてより多くのミイラの資料を入手する,そしてついにDNAの解読に成功し,ネイチャーに論文が掲載される.それは当時のこの分野の第一人者,アラン・ウィルソンの目に止まり,ペーボは医学の道を捨てて古代DNAリサーチ人生に進むことになる.

当時はヒトゲノム計画の萌芽期であり,PCR技術が大きくリサーチ手法を塗り替えていた.バークレーのウィルソンの元で,クアッガ,カンガルーネズミなどの博物館標本やアメリ先住民族のDNAに取り組む.ペーボは実務を積みながら古代DNAの保存や解読の限界についての理解を深める.標本のごく一部からしかDNAは回収できず,それらは痛みやすく,100から200以上の配列を得られることはなく,当時の技術ではミトコンドリアが精一杯で核DNAの増幅は不可能だった.ペーボの業績は認められ,ミュンヘン大学から正教授のオファーがあり,彼はミュンヘンに移る.

ペーボは古代DNAの研究において現代人のDNA混入問題が非常に重要であることを肝に銘じて慎重に古代のウマ,マンモスなどのDNA解析を進めていた*2が,古代DNAはブームになり始め,琥珀の中から恐竜のDNAを解析したなどの様々ないい加減なリサーチがネイチャーやサイエンスに発表されていく.ペーボは随分口惜しい思いをしたようで,一部の研究についてはそのデータがヒトのDNAの混入であることを示したりもする.しかしそれには多くの労力が必要で結局何も生みださない.ペーボは他ラボのいい加減なリサーチは無視して,自分のラボでは解析可能なデータに絞り研究を深める方向に進むことにする.

ミロドン*3アイスマンなどの解読を経て,ペーボはネアンデルタール人に標的を絞る.そこから資料の入手を含め解読物語が始まり冒頭の章につながる.この成果によりペーボは新設のマックスプランク研究所の人類学研究*4のリーダーの職をオファーされ,トマセロボッシュとともにそれを受ける.


ここで簡単な人類進化,出アフリカ説と多地域起源説の論争が紹介される.ミトコンドリアDNAはサピエンスの単一起原を強く支持していたが,サピエンスとネアンデルタール人との交雑問題に決着をつけるには核DNAを読むしかない.それは技術的には非常に困難だが,ペーボはそれに挑戦することに目標を定める.凍結されたマンモスでは核DNA配列の読み出しに何とか成功するがネアンデルタール人化石とほぼ同じ状況にあるホラアナグマ化石では失敗する.そしてブレークスルーをもたらしたのは次世代型シークエンサーの威力だった.

ここからの技術的な問題を含む研究物語は,大胆な目標設定の公表,他方法を推進しようとする共同研究者との論争,解読必要資金の入手の顛末,追加資料の入手をめぐる政治的な争いを含めて具体的で迫力がある.特により良いデータを得ようとする努力,データの解釈と汚染の疑いをめぐる葛藤のところは研究者の正直な苦悩とグループが一体になって一歩一歩解決していった過程がよく書かれている.このあたりは本書の最も面白い部分だ.
そしてついに2009年にネアンデルタール人の核DNAのデータが手に入る.そしてSNPに注目してそれを分析した結果は,当時のペーボの予想から見ると衝撃的な内容だった.ネアンデルタール人はアフリカ人よりもヨーロッパ人にわずかだが近縁なのだ.そしてよく詳しく調べると出アフリカ後に拡散した非アフリカ系のサピエンスはすべて同程度にアフリカ人よりもネアンデルタール人にわずかに近縁なのだ*5
ペーボはこの結果を何重にもチェックする.そして独立の3通りの方法でネアンデルタール人がアフリカ系のサピエンスより非アフリカ系とわずかだが近縁であるという結果を得る.もはや疑いはない.ネアンデルタール人はサピエンスと交雑しているのだ*6.ここでこの結果をどう解釈するかのついてのペーボの考えが述べられている.ネアンデルタール人とサピエンスの基本的な分岐は27万年前〜44万年前,その後10〜5万年前のどこかでアフリカから中東に進出し(その後絶滅したとされる)サピエンス第一波がネアンデルタール人と交雑,その後5万年前以降に(中東に渡り,その後に全世界に拡大する)「交替した」サピエンス集団は(直接ネアンデルタール人と交雑せず)その第一波サピエンス集団と交雑してネアンデルタール由来ゲノムを受け継いだというものだ.これはなお仮説ということだろう.ペーボ自身もカフゼーの第一波サピエンスのDNAが調べられればと言っている.やや5万年前の認知爆発説に引きずられているきらいはあるが,あり得るシナリオの一つだろう.さらにネアンデルタール人の核DNAの知見がサピエンスの独自性にとって意味するもの(基本的に遺伝子がどう働いているかはなおほとんどわかっていないので現時点で言えることは少ない*7)の解説があり,論文発表の学界の反応,キリスト教原理主義者の反応(詳細は面白い*8),一般社会の反応などか簡単に書かれている.


これでネアンデルタール人DNA解析物語は完結するのかと思わせておいて,ペーボはもうひとつの物語を付け加えている.それはなお謎の多いデニソワ人DNAの物語だ.ネアンデルタール人核DNA解析の作業終盤2009年の春にロシアから小さな化石骨がペーボのラボに持ち込まれる.アルタイ山脈の谷にあるデニソワ洞窟で発見されたもので,また別のネアンデルタール人個体かもしれない程度の期待で解析にかけていたところ,そのミトコンドリアDNAから読み出された配列は驚くべきものだった.後にデニソワ人と名づけられるその人類のミトコンドリアDNA配列はサピエンスから見てネアンデルタール人よりも遠縁で,分岐年代は100万年前程度と思われるものだった.残りの資料を求めてロシアまで行ってみるとそれがライバルのラボに渡っていることがわかるという衝撃のエピソードも交えつつ,ペーボはその迫真の解析物語を語っている.また別の資料も入手して核DNAも解析してみると,ミトコンドリアデータとは異なり今度はこのデニソワ人の核DNA配列はサピエンスよりネアンデルタール人と近縁であり,さらにサピエンスの中ではパプアをはじめとするメラネシア系と近縁だという結果が得られた.ペーボは,基本的にデニソワ人はサピエンスとネアンデルタール人が分岐した後に,ネアンデルタール人の枝から分岐した人類だが,サピエンスがユーラシアに拡散する途中の南アジアで交雑したのだろうと推測している.そしてネアンデルタール人,デニソワ人ともにサピエンスと交雑していることから見て,このような「漏出性の交替」こそがサピエンス拡散によって生じた一般的な現象ではないかと示唆している.デニソワ人の化石骨はなお断片しか得られておらず,その正体やサピエンスとの関係はなお謎が多い.今後の進展が楽しみだというところだろう.


全体を通して本書はリサーチ物語としても自伝としても非常に充実している.リサーチはその分野の誕生時点から当初想定できなかったような素晴らしい結果が得られるところまで描かれており,新しい挑戦の困難さ,新技術のもたらすインパクト,驚くべき新知見などが見事に描写されている.またペーボの生きざまも,汚染を恐れるパラノイア振り,ライバルラボがいい加減な結果を公表して世間受けする中での葛藤,共同研究者の妻を寝取ってしまった顛末なども含め,驚くほど率直に語られていて読者を引き付ける.迫力満点の面白い一冊だ.


関連書籍


原書

Neanderthal Man: In Search of Lost Genomes (English Edition)

Neanderthal Man: In Search of Lost Genomes (English Edition)



所用あり10日ほどブログの更新を停止する予定です.



 

*1:ここではこの結果をどの雑誌に投稿するかについて「ネイチャーとサイエンスが結果の堅牢性よりマスコミ受けを考慮する」ことへの皮肉があって面白い.論文はセルに掲載された.

*2:ペーボの提唱による信頼性の基準が説明されている.古代の抽出物なしのブランクゼロ標本との対照実験,同じ配列の2回以上の回収.DNA断片が150ヌクレオチドを超えないことだそうだ.またこの頃ペーボは古代DNA解析専用クリーンルームも作っている

*3:絶滅した地上性のオオナマケモノ.これがミユビナマケモノよりフタユビナマケモノに近縁であることがわかり,樹上生活への移行が独立に2回起きたことを強く示唆する結果が得られた.

*4:ドイツではナチの悪夢からしばらく人類学研究は避けられていた.これはドイツとして戦後初の取り組みになる.過去の蓄積はないが,逆に豊富な資金で一から研究所をデザインできる利点もあったようだ.ペーボはこだわり抜いた設計のクリーンルームを設置する.

*5:SNPのネアンデルタール人との一致を見るとおおむね非アフリカ系とアフリカ系で52:48程度となる.非アフリカ系同士ではほぼ50:50になる.

*6:人口史をモデリングすることで非アフリカ系でゲノムの1〜4%がネアンデルタール人由来だと推測されている.また領域の変異蓄積から,この遺伝子流動はほぼすべてネアンデルタール人からサピエンス側に向けてのものだと推測されている

*7:ネアンデルタール人とサピエンス間のタンパク質を変化させる遺伝子の違いは78カ所見つかっていて,そのうち5つは2つ以上のアミノ酸が変化している.うち3つは精子の運動能,皮膚の傷の治癒に関するもの,感染と毛管にあるものだったそうだ.

*8:ヤングアース論者はネアンデルタール人は完全な人間であると考え特に問題視しないが,オールドアース論者はネアンデルタール人は人間でなく動物であると考え否定的なのだそうだ