「Does Altruism Exist?」


本書は新しいグループ淘汰(以降マルチレベル淘汰と呼ぶ)の守護聖人である行動生態学者D. S. Wilsonによる利他主義についての一冊.ウィルソンの活動は行動生態学の実践から始まり,マルチレベル淘汰理論の擁護,それによる宗教の解釈に進み,さらに最近は文化進化への応用,地域社会全体を使った実証などに取り組んでいる.このあたりでマルチレベル淘汰を使って解明したかったそもそもの概念「利他主義」をキーワードにしてこれまでの活動をまとめておきたいということだろう.

書評を書く前に(本ブログをお読みの方にはすでにおなじみかもしれないが)マルチレベル淘汰についての私の見解をディスクローズしておこう.

  • マルチレベル淘汰は(一定の前提の元)数理的には包括適応度理論と等価だ.だから片方の理論で予測検証できる事象はもう一つの理論で同じように予測検証できる.
  • そういう意味でリサーチにはどちらの理論フレームを用いてもよく,特定テーマにとって有用な方を選べばよい.それはある意味好みの問題になる.
  • 有用性についてはこれまでの様々なリサーチを眺めると圧倒的に包括適応度理論の方が有用である場面が広いようだ.それは行動のエージェントである個体の最適化問題としてとらえることができるからだろう.
  • DSウィルソンは両理論の等価性は認めるが,因果の実在性という観点からマルチレベル淘汰のフレームの方が望ましいと主張する.つまりグループ間競争は実在するが包括適応度なるものは帳簿付けにすぎないとする.私には,なぜ等価な理論フレームの片方でみたものが実在してもう片方でみたものは実在しないと断言し,そして実在するもののみが重要だと主張するのか全く理解できない.
  • DSウィルソンの影響を受けたリチャーソンやハイトなどの学者はヒトの文化,道徳,宗教をマルチレベル淘汰で説明しようとするが,彼らの主張はマルチレベル淘汰の核心である「グループ内淘汰とグループ間淘汰の強弱を比較する」という視点に欠けているものがほとんどで,単純なナイーブグループ淘汰の誤謬と変わらないものになっていることが多い.また代替説明に注意を払わない傾向も顕著にみられる.
  • ウィルソンたちのマルチレベル淘汰のヒトへの応用を見ると,グループ間競争に有利なものを「利他主義」と呼び,かつ「善」であるとナイーブに扱っていることが多い.それではファシズムこそが至高の善になるが,彼らはそのあたりについていったいどう考えるのか曖昧だ.

そういうわけでやや辛口のレビューになることをまず断っておく.それではウィルソンの議論を見てみよう.


まず導入で本書の問題意識が述べられる.これまで多くの哲学的,政治的,経済的,そして生物学的な「利他主義なるものは存在しない」という主張があるが,そうではないことを進化理論を使って示したいというものだ.そして本書を書く意義について次の3つをあげている.

  • 利他主義が進化可能だということは今は議論されているが,いずれ(地動説や進化学説と同じように)当たり前とされるだろう.
  • これまでの利他主義についての考察は進化的な視点に立っていないものがほとんどだった.特に混乱の元になる究極因と至近因については進化的視点を採ることによって明確になるだろう.
  • 世界をよりよくするための利他的なゴールを実現させるためには,進化的な理論が本質的だと思われる.

なかなかの自負だ,では早速議論の中身をみよう.

第1章 機能するグループ

ウィルソンはまず,動機としての利他主義と行動における利他主義を峻別する必要を力説する.要するに多くの議論はこれを混同して混乱するのだし,世界あるいは社会をよくするには行動こそが重要であり,動機は行動に結びついて初めて意味を持つのであって動機自体をあまり問題にすべきではないということだ.
そして本章では行動としての利他主義を問題にすると宣言する.ウィルソンのフレームでは行動としての利他主義はグループレベルで機能する組織と深く関連する.機能するグループは相互扶助的な行動の上にあるからだ.
では「機能するグループ」は実在するだろうか.ウィルソンはここで航空母艦の例を持ち出す.乗組員は驚嘆すべき分業を達成している.これは中央集権型の機能グループだ.そして分権型機能グループの例としてエリノール・オストロムがリサーチして有名になった灌漑システムの効率的な運用のためのデザイン原則を紹介している.この二つの例を元にウィルソンはヒトのグループは時に単一の生物個体を比較すべきであるほど機能的になりうるのだとする.
またここでハチの群れによる集合的な意思決定の話も持ち出し,生物世界にも機能するグループがあることを示している.
しかし機能することと「利他主義」は異なる問題ではないのか.ウィルソンは行動にコストがかかればより利他主義的に見えるが,それは程度の問題で本質ではないとする.


ここまで読むとウィルソンの意図はかなり明らかになる.ウィルソンは「機能するグループ」はマルチレベル淘汰を通じて進化し,それは実在する.だから「利他主義」も(行動のレベルで)実在するといいたいのだろう.定義のすり替えのような印象だが,先に進もう.

第2章 利他主義はどのように進化するか

第2章では機能するグループがいかに進化可能であるかが説明される.最初に基本的な進化原則があげられている.

  • 自然淘汰は相対的な適応度に基づいて生じる.
  • グループにとって良い振る舞いは典型的にはグループ内の行為者個体の適応度を最大化させない.
  • グループレベルで機能する組織はグループ間の自然淘汰で進化する.

適応度は元々相対的な概念なので,ウィルソンがことさらそれを強調するのはなぜだろうかという疑問が浮かぶ.一つにはグループ内淘汰とグループ間淘汰の強度を比較するためということだが,もう一つどうやらそれは経済学を批判するためでもあるようだ.この議論は第7章でなされると予告されている.2番目と3番目はマルチレベル淘汰の考え方だ.
この後マルチレベル淘汰についての基礎講義が続いていて,いくつかの生物学的な例が示される.一つ例を挙げるとウィルソンお気に入りのアメンボの話がある.これはレイプするオスと紳士的に振る舞うオスが共存していることをマルチレベル淘汰的に説明しているものだ.

  • 群れ内ではレイプをするオスの方が有利だが,レイピストのいる群はメスから忌避されて小さくなりその成功は縮小する.そして繁殖集団全体ではレイピストオスと紳士オスの適応度が等しくなり,共存する.これはグループ内淘汰とグループ間淘汰が釣り合っていると解釈できる.


当然ながら無理矢理このような利他主義的かつマルチレベル淘汰的な解釈をしなくとも価値中立的な戦略としてモデル化してゲーム理論的にESSとして同じ結論を得ることができるだろう.またこの後メイナード=スミスとサトマーリによる「進化の主要な移行」の業績を紹介し,これもマルチレベル淘汰的解釈を行っている.そして利他主義は,行動レベルでかつグループ内,グループ間の相対的な適応度として定義されれば機能するグループの進化として進化可能だと結論づけている.
まあこのあたりは予想通りの展開だ.

第3章 等価性

ここではウィルソンからみたマルチレベル淘汰の学説史,論争史が解説される.
まずダーウィンがすでにマルチレベル的に考察した上でグループ淘汰が生じうることを見通していたと持ち上げ*1,しかしそれが現代進化学で認められるまでに長い時間がかかったとその間の経緯をまとめる.このあたりはウィルソンの長年の主張で私もいろいろなところで何度も読んできたところだ.ここでも同じ主張が繰り返されている.

  • 60年代にグループ間淘汰は非常に弱いのでまず実務上問題にならないと主張され,それが精査なく受け入れられた.
  • 利他主義の進化について包括適応度理論やゲーム理論が提示されそれで十分とされた.
  • 70年代後半から上記の理論もグループ間淘汰としてみることができることがわかってきた.そしてマルチレベル淘汰理論が正面から認められるようになった.

ここから包括適応度理論やゲーム理論とマルチレベル淘汰理論の等価性に焦点が当たる.このあたりは論争を経てたどり着いたウィルソンの立ち位置ということになるのだろう.

  • 包括適応度やゲーム理論利他主義の進化についての代替的な(つまり真の実在因果を説明するマルチレベル淘汰理論に代わる)因果メカニズムを提示できないが,それらにはメリットがないというわけではない.それらは同じ因果プロセスについて別の視点を持ち込むものだ.
  • 科学は因果的説明におけるコンテストのようなものだ.そして等価性を持つ説明は共存可能であり,互いに排他的ではない.それは異なる会計法や異なる言語と同じで互いに翻訳可能なのだ.
  • それは互いに排他的な「パラダイム」と混同すべきではない.この混同が半世紀に及ぶ社会行動の進化理論を苦しめてきた.

ウィルソンはここから仮想的なグループ内,グループ間淘汰がある集団を提示し,それが包括適応度理論でもグループ淘汰理論でも同じ結論になることを示す.そして包括適応度理論では最終的にある特質が進化可能かどうかを見るために途中でグループ内グループ間の情報を捨象し,それがマルチレベル淘汰理論の否定という誤解につながったのだとコメントしている.


まあ論争の途中では双方いろいろな勇み足があったのだろう.しかし最後の方まである現象がマルチレベル淘汰でしか説明できないとがんばったのはむしろマルチレベル淘汰理論擁護派の方であって,このあたりもウィルソンの我田引水ぶりが目立つところだ.とはいえ本章では理論の等価性についてきちんと認めて整理しており,因果の実在や有用性についての主張も抑え気味で,マルチレベル淘汰理論を巡る行動生態学的な問題についてはある程度穏当なまとめになっていると評価できるだろう.

第4章 ヒト以外の生物からヒトへ

最近のウィルソンの興味はヒトについてだ.だからここからは本書はヒトの話題になる.
まずウィルソンは「進化の主要な移行」を持ち出す.これはマルチレベル淘汰理論で解釈できる「機能的なグループの進化」の良い例であると考えているのだ*2.ウィルソンは「進化の主要な移行」についてこうコメントする.

  • それはまれな出来事だ.
  • そしていったん生じると結果は重大だ.
  • グループ内淘汰の抑制は完全ではなく部分的に止まる.

ここでヒトのグループが「進化の主要な移行」の特徴を備えているとし,生物個体の細胞と似ているという緩いアナロジーを繰り出す.そして社会科学が方法論的個人主義(ヒトの社会的グループの特徴は個人の行動からのみ説明すべきであるというドクマ)に犯されていると非難し,ヒトの社会は「進化の主要の移行」の観点から説明すべきであると主張する.
そしてチームワークなどのヒトを特異なものとする様々な認知的行動的な特徴は,淘汰レベルが一つ上がって主要な移行が生じたために生じたという仮説を「まず協力が生じた仮説:(あるいはグループレベル機能が先仮説)」と呼んで提示する.

  • グループ間淘汰圧がグループ内淘汰圧より高くなるというまれな出来事が生じ,一気にシンボリック思考を含む行動レベルでの特徴が進化した.
  • そしてこのシンボリック思考は文化進化の道を開く.これによりヒトの社会の進化には意図的な目的指向の成分が含まれるようになった.
  • しかし基本は変異と淘汰のプロセスでそしてマルチレベルで進んだだろう.いずれにせよそれらの過程はオープンエンドであり,現時点の環境に常に反応する.そして新しい環境が開けたときには放散現象も生じただろう.
  • そして歴史は化石記録としてみるべきものだ.それは強い経路依存性を示している.


ヒトの話,文化の話になるとウィルソンは一気にスロッピーになる.私から見るとこの仮説はつっこみどころ満載だ.そもそも淘汰レベルが上がるというが,レベル(つまりグループ内とグループ間での淘汰圧の比較)は対象の特徴一つ一つについて考えられるべきものであって,全部ひっくるめて上がりましたというのは乱暴にすぎるだろう.文化的な進化についての詳細な考え方はこれ以降明らかになるが,やはりかなりぐずぐずという印象だ.

第5章 心理的利他主義

ここではまずエリオット・ソーバーとの出会いと共同して行った仕事についての回想が書かれている.彼らは「Unto Others」を共同執筆したが,ソーバーは彼のパートで西洋の利他主義についての哲学の歴史から説き起こした.それは見事な仕事だったが,先人たちが道を誤るとその後大きな影響を残すのではないかと感じたそうだ.要するにウィルソンは西洋哲学は利他主義についてその動機を問題にしすぎていると感じているのだ.この章でウィルソンは究極因と至近因という観点からこの問題をクリアーにしたいと意気込む.
そして究極因と至近因について簡単な解説を行い,ある単一の究極因に対して至近的メカニズムは複数あり得ることを指摘する.そして同じ利他的な行動を引き起こす心理的カニズムは複数あっていいし,社会を良くするという視点から見るとそれらを区別すべきではないのだとかなり詳しく力説している.

このあたりは背景がよくわからないところもあるが,おそらく哲学者を含む動機を問題にする人たちといろいろ論争があるのだろう*3.
何のために議論しているのかにもよるが,結果を問題にするなら普通は動機を区別する意味はないだろう.(もっとも通常は動機によって行動の確率や強さが変わってくるということが暗黙の前提になっているのではないかという気もするところだが)そしてそこにわざわざ至近因や究極因を持ち出す必要もないし,やや筋悪なアナロジーにも感じられるところだ.


ともあれ理論編はここまでで,ここからは個別の問題を扱うことになる.

第6章 利他主義と宗教

最初は宗教だ.まず宗教の進化的な考察の学説史が書かれている.

  • 私はテンプルトン財団のファンドで利他主義の研究をクリストファー・ボームと一緒に行った.ボームは狩猟採取民における利他主義をリサーチしていた.私はそれに刺激を受け,宗教集団の利他主義を調べ,宗教は一種の超個体でありグループ間淘汰産物だと考えるようになり,「ダーウィンの大聖堂(未邦訳)」を書き上げた.
  • その後ボイヤーとアトランが,宗教を進化的にリサーチし,それは副産物だという考察を発表した.
  • さらにドーキンスデネットたちによる新無神論が現れた.彼等は神などはいないと皆に信じさせようとし,さらに宗教は人類にとって悪いものだと主張した.

ここからウィルソンの議論はこうつながる.

  • これはある意味「宗教は有益か」という哲学的な論争を繰り返しているようでもある.しかし進化生物学者はある特徴が適応か否かを吟味できるところが異なるはずだ.つまり実証的なリサーチが望まれるのだ.
  • そしてコンセンサスができあがりつつある.それは宗教の進化にとっては文化進化の要素が重要であり,特徴の一部は副産物的だが多くは文化進化産物だというものだ.
  • そしてそのコンセンサスは本書の主張の中心である以下の主張を可能にする:多くの長く生き残っている宗教は宗教コミュニティのメンバー間の(行動で定義された)利他主義を推進している.


ここは読んでいて思い切り脱力してしまうところだ.ウィルソンがぐずぐずのグループ淘汰思考の人たちの誤謬をあえて無視して賛同者を増やしているのは知っているが,これはそのぐずぐず派閥の中だけのコンセンサスでしかないだろう.賛同者にはロバート・ライト,ニコラス・ウェイドなどの名前が記されているが,いずれの宗教本も宗教擁護しようとしたとたんに支離滅裂になっている印象が強い.

さらに議論の中身を見ると,グループ間競争で有利になるものは(コストの大小に関わらず)すべて利他主義であってそれがグループ間淘汰産物だとしている(グループ間競争で有利にならない宗教の特徴のみが副産物となる).しかしグループ間淘汰は宗教指導者がメンバーを操作して搾取しているという可能性,またミームが宗教参加者すべてに寄生しているという可能性を排除しない.グループ間淘汰産物(つまり機能するグループ)が誰の利益になっているのか,あるいは人類にとって良いものかどうかは別途個別に実証されるべき問題で,ウィルソンはここを無視している.要するにある特徴がグループ間淘汰産物か副産物かを実証しただけではその淘汰産物が人類の幸福に役立っているとは限らず,もう一段の実証をしなければならないのだ.これは冒頭でウィルソンが機能するグループと利他主義を緩く定義していることにも絡む部分だし,「(いかにもグループを機能化するような)ファシズムを至高の善として肯定するのか」という問題にも絡むだろう.(ウィルソンは「長く生き残っている宗教」に限定することによっていかにもミーム寄生的なカルトなどの宗教をオーソドックスの宗教から分離して,すべてのグループ間淘汰産物を良いもののように印象づけようとしているようだが,長く生き残っているのはその宗教指導者の操作やミームの寄生戦略がより優れているからなのかもしれないだろう.)
ここはウィルソンの議論の本質的な問題の一つだ.マルチレベル淘汰のフレームでグループ間淘汰を考えるとして,淘汰産物は利他主義だけではないし,すべての利他主義傾向が必ず正の淘汰を受けるとも限らないのだ.ピンカーがエッジの寄稿で述べていたように,より強い軍隊は利他主義のみで作られるのではない.それはイデオロギー,技術,軍事的戦略,残酷な規律などが要素になるのだ.そして同じグループメンバーへの共感や同情ですら戦争においては不利になりうる.(たとえば犠牲を伴うが勝利確率が上がる非情な作戦が遂行しにくくなるかもしれないし,人質にたいする脆弱性が上がるかもしれない)宗教も同じだろう.利他主義だけでなく,狡猾な洗脳システムもまたグループ間淘汰産物になりうるのではないだろうか.


ウィルソンはこの宗教の章の最後にオーギュスト・コントの思想の紹介を置き,この事実に基づいて利他主義を推進しようとしたコントの理想を敬いつつも,行動のレベルにおいて利他主義を推進できた宗教にも敬愛を持っていると結んでいる.
これは「事実のみから利他主義を推進することは難しいので,嘘に基づく利他主義の推進を行う宗教は敬う価値がある」というウィルソンの価値観の表明ということだろう.これはデネットの言う「信仰の信仰」の問題で,功利主義的に是認できるかどうかは宗教の弊害が小さいのかどうかにかかっているということになるのだろう.またいかにも「私は宗教のばかげた嘘を信じてはいないが,一般大衆には有用なのだ」と説いているようでもあって上から目線的ないやらしさも漂う印象だ.

第7章 利他主義と経済学

最初にEvoSを立ち上げた経緯があり,その後ウィルソンの問題意識が書かれている.

  • 「誰も社会全体のことを考えなくても社会はうまく回る」というのが経済学の中心テーマだ.もしこれが正しいなら動機としての利他主義は不要になってしまう.
  • これはハイエクフリードマンが推進し,レーガンサッチャーが採用し,アイン・ランドはそれに哲学的芸術的味付けをした.
  • これは18世紀のオランダの哲学者が「ハチのコロニーは一匹一匹が自分の強欲に基づいて行動しているがうまく回っている」としてヒトの社会に類推応用しようとした間違いから始まっている.そしてアダム・スミスが「見えざる手」という別の強力なメタファーを与えた.
  • スミスはヒトについてもっと現実的にとらえていたが,ワルラスは経済学を数理的にするために「合理的経済人」の仮定を持ち込んだ.
  • この仮定は真実ではないことはわかっていたがフリードマンは問題ないと強弁した.ヒトや会社は淘汰によって新古典派の仮定通りに動くようになっていると主張したのだ.さらにアイン・ランドの世界観では現実が原理主義的に歪曲されている.
  • そして強欲は正しいという世界観が広がった.

ウィルソンはEvoSを立ち上げて,経済学についてもいろいろ勉強しコメントしているようだが,この章の記述は彼が全く経済学を理解できていないかの様だ.わかっていてやっているのだとすれば,控えめにいってもフェアではないだろう.
まず「税は収奪で規制は悪だ」というまさに「強欲は正義」という主張をしているのはリバタリアンなど一部のアメリカの政治的右派であって,主流の経済学者がそう主張しているわけではない.見えざる手というのは制度デザインが機能し商取引の安全が保障されている世界で自発的に交換が起こることが前提の話であり,制度デザインに欠陥がありそれを悪用された場合に成り立たないのは当然だ.リーマンショックが合理的経済人の仮定が間違っていたために生じたかのような書きぶりだが,あれは基本的には前提にかかる制度デザインの問題(特にエージェンシー問題)だった.そして制度や規制がすべて不要だとするまともな経済学者はいない.
合理的経済人の仮定について問題にするなら,それが現実の十分良い近似となっているかどうかが吟味されなければならない.基本的にはそれは十分良い近似になっていて,うまい代替フレームは提示されていないというのが多くの経済学者の考えだろう.

ウィルソンは議論をこう続けている.

  • 社会はどのようにすればうまく機能するかという中心問題についてもう一度基礎から始めなければならない.そして進化理論は私たちを正しい道に導くだろう.
  • ヒト以外の生物でも機能するグループは生じうる.しかしそれには特別な条件が満たされなければならない.そのグループレベルの淘汰圧が(グループ内淘汰圧より)強いことが必要だ.
  • つまり「見えざる手」には社会レベルの淘汰が必要なのだ.その淘汰が働くためにはオストロムのシステム特徴,評判の機能などの信頼を有益にする条件が必要だ.
  • 私たちヒトは(進化的に経験してきた)少人数グループにおいては無意識にその条件を満たすように行動できる.
  • しかし農業以降の大規模社会においては,その条件の成就のためには文化グループ間淘汰による文化進化が重要になる.*4
  • 以上からいえることは,「自己の利益の追求は道徳的に純粋で正しく,長期間ではすべての人々の利益になる」というイデオロギーは正しくないということだ.社会レベルの文化進化産物である至近的メカニズムがあるときのみ社会は機能するのだ.そのようなメカニズムには意図的なデザインである法や憲法もある.そして意図的デザインではない淘汰産物もある.しかし個人の強欲のみでそのようなメカニズムが自発的に創発することはないのだ.


結局この章でウィルソンが言いたいのは,リバタリアンアイン・ランドの「税や規制をなくしてすべての自己利益追求を認めると幸福な世界が訪れる」という主張は誤りだということだ.しかしそれは正統的経済学で十分説明できることだ.ここに無理矢理文化進化を持ち込む必要はどこにもない.そして持ち込むならもっとも面白そうな部分,つまり「意図せざる文化進化産物で現代の大規模社会を有益なものに導いている特徴にはどのようなものがあるのか」については何も触れていない.
さらにウィルソンがここであげているような現代の問題については,きわめて新規な環境下で過去の淘汰産物では役立たないし,悠長に文化進化過程を待つわけにもいかない.要するに文化進化を議論する意味はあまりない部分だ.そしてまさに経済学を駆使した意図的な制度デザインが有益であり,合理的経済人の仮定が厳密に正しくないとしても十分良い近似になっていれば実務的には十分だということだと思う.
進化理論を生かして人々の幸福に役立ちたいというウィルソンの動機はよくわかるが壮大な空回りを感じずにはいられない部分だ.

第8章 日常の中の利他主義

ここでは前著で説明されていたビンガムトンプロジェクトがまず解説されている.

  • 主に行動ベースに基づく各個人の向社会性スコアを定義し,計測し,地図上にプロットする.そこには明確なパターンが現れ,多くの人の行動が条件依存的に変わるものであることが浮かび上がる.向社会性は周りが向社会的であるときに適応的になるらしい.そしてどのような環境においてより向社会性が高まるかはデータでとらえることができる.

ここでウィルソンはこの条件依存性,つまり環境依存的行動傾向についてエピジェネティックスから説明できるのではないかと示唆している.いかにもヒトに関するといきなりスロッピーになるウィルソンらしいところだ.
ともあれ,これらの知見を利用すれば,よりよい社会を実現しやすくなるのではないかとウィルソンは熱く説いている.それが「進化」といえるかどうかはともかく,データを用いて社会をよりよくしようとする試みは実際に価値あるものだろう.そしてその初期の試みの成功に興奮を隠せないウィルソンの熱い語りは読みどころだ.

第9章 利他主義の病理

この章は利他主義の暗黒面を取り扱っている.ウィルソン流に言うと利他主義はマルチレベル淘汰を通じて生じる淘汰産物であり,当然それはよいことばかりではない.
ではウィルソンが認める利他主義の暗黒面とは何だろうか.ウィルソンが最初に指摘するのは,本来利他主義的行動の適応性は環境条件依存的であるにもかかわらず,その条件を無視した利他行動特性だ.向社会性が高くない社会環境で利他的に振る舞って周りに手ひどく裏切られる話がいくつも具体的に語られている.また利他的なグループが別のグループから搾取される例も取り上げる.これはウィルソン流に言うとあるレベルでの高い適応度を持つ行動傾向が別のレベルでは低い適応度になってしまう問題ということになる.そしてこれらの悲劇を防ぐには搾取からの保護と調整が必要だとまとめている.


この章も私にとっては非常に不満足なものだ.ここで述べられているのは適応が完全でないために条件依存的に(あるいは正しいレベルで)反応できないという問題にすぎない.マルチレベル淘汰産物の暗黒面はこれにとどまらないはずだ.ウィルソンは「機能するグループ内の行動傾向を利他主義と呼ぶ」とするかなり無理矢理な定義を使ってこの問題をごまかしているだけだ.第6章のところで述べたように,グループ間淘汰は人権を無視する全体主義的傾向,ミームや権力者のための狡猾な洗脳システムを有利にする可能性がある.そして実際に人類の歴史は専制国家やカルト的宗教集団にあふれている.それを全く無視して仲間や他人に対する優しい気持ちが搾取される問題だけを取り上げるのは(ごまかしでないとするなら)おめでたいとしか評価できないように思う.

第10章 惑星規模の利他主義

最後の章はまとめだ.冒頭でウィルソンは利他主義はマルチレベル淘汰を通じて進化できるともう一度主張する.そしてグループ全体のことを考えた意図的な行動戦略や政策の採用という形もグループ間淘汰の重要な要素であるが,動機にとらわれては真の理解を妨げるとここまでの主張を繰り返す.
次に農業革命以降はマルチレベル文化進化の比率が大きくなり,その適応産物はより多様化し,そして現在さらに社会が複雑多様化し,意図的な行動戦略や政策採用の重要性が増していると説く.そしてその中では「強欲は正しい」としてすべてを任せずに,スケール依存性に気を配りつつよりよい方向に社会が進化できるように政策を考えていくことが重要だと主張して本書を終えている.

ウィルソンの最近の取り組みはデータを重視した実証的な社会実験であり,大変興味深い取り組みで社会的意義も高いと思う.しかしこれのどこが「進化」そして「マルチレベル」なのだろうという素朴な感想は振り払えない.私の印象ではここで取り組まれているのは「進化」というより「環境やインセンティブにヒトがどう反応するか」という問題だろう.そしてそれに対して意図的な政策採用が重要であれば,それはどんどん進化理論の応用範囲から離れていくだろう.普通に制度デザインを考えれば良いだけではないだろうか.

結局本書はこれまでのウィルソンの主張の総まとめという趣旨で書かれているのだろう.だから「利他主義」というキーワードを共有して統一しようとしているが,行動生態学としてのマルチレベル淘汰の擁護の部分と宗教をマルチレベル淘汰的に良いものとしてとらえたいという部分とデータ重視の制度デザインの主張の部分の3部に分割されていてその間の(著者の熱意は共通でも)理論的関連は薄いように感じられる.というわけで本書を読んで私のウィルソンへの評価は変わることはなかった.ウィルソンファンのための一冊ということになるだろう.


関連書籍


ウィルソンによる宗教をマルチレベル淘汰的に解釈しようとした一冊.

Darwin's Cathedral: Evolution, Religion, and the Nature of Society

Darwin's Cathedral: Evolution, Religion, and the Nature of Society

EvoS,ビンガムトンプロジェクトなどの最近の活動についての一冊.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20111014

The Neighborhood Project

The Neighborhood Project




 

*1:ダーウィンは確かにヒトの道徳性についてグループ淘汰的な説明を行っていて,そこで部族間闘争における非常に大きな利益という言い方をしている.しかし明確にグループ内淘汰との強さを比較しているわけではないし,その他の部分では基本的に個体淘汰的だ.いつもの通りの我田引水ぶりというところだ.

*2:もちろんそもそもこの「主要な移行」はメイナード=スミスによって包括適応度的に説明され提唱されているものだ.理論の等価性からいってマルチレベル的にも解釈可能ということだが,ウィルソンの書きぶりはあたかもマルチレベル淘汰の考え方からのみ「主要な移行」が導き出せると主張しているようでいただけない.

*3:この後の第6章ではこれに関連して,ある哲学のカンファレンスの議論が題材になっていてちょっと面白い.その会議では宗教の「良い行いをするといずれ行為者にとっても良いことがある」という教えは結局「利他主義」とはいえないのではないかが問題になったそうだ.ウィルソンはこれは進化的視点をとって至近因と究極因(「いずれ良いことがある」という言い方には機能的な理由がある.そしてそれは事実である必要はない)と考えると矛盾なく解決できるのだと説明している.おそらく要するに「結局宗教の言ってるのは善は善で報われるというだけで利己主義じゃないか」という議論に反論しているのだろう.

*4:ここでマイケル・ルイスのフラッシュボーイズの例が引かれている.欺瞞的高頻度取引を抑えようとするヒーローの銀行員の試みがうまく行かないのは自発的加罰者数が進化的に新しい環境下で少なすぎるということをいいたいようだ.しかしこれは制度デザインがテクノロジーの進展に遅れた隙間をつこうとした意図的な欺瞞行動であり,単に規制当局がテクノロジー音痴だった,あるいはわかっていて利益誘導に屈して黙認したことが問題なのであって,参加者の自発的な加罰行動を文化進化でとらえる良い例とは思えない.