Language, Cognition, and Human Nature 第5論文 「自然言語と自然淘汰」 その7

Language, Cognition, and Human Nature: Selected Articles

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ピンカーは言語が複雑なパーツを持つ適応産物であることを示す指摘を行った.(当時のアメリ東海岸認知科学業界の環境下では)ここでグールド派から来る「なぜなに物語だ!」という批判に答えなければならない.

3.2 言語デザインの議論は「なぜなに物語」か

適応的な主張が「なぜなに物語」だと攻撃された場合,現在の行動生態学者の基本的な対応は,後付けの観察から適応仮説を立てること自体に何ら問題はなく,それが正しいと主張するときにきちんと検証されているかどうかを個別に検討すればいいと反論するものになる.ピンカーはどう扱っているだろうか.

  • まず最初に,私たちの言語ユニバーサルとその意味論的機能に関する主張は,何か特別に巧妙であったりねじ曲がっていたり風変わりなものではない.どれも言語学の教科書に書いてあるものばかりだ.「語句構造ルールは修飾と述語項構造を示すのに有用だ」という主張する動機が進化理論から生まれたと言うことはまずあり得ない.

こはちょっと変わっている.要するにこの議論が進化適応を主張するためのでっち上げではないということは最初に断っているのだ.ここから始めなければならないというのはなかなか大変だ.

  • 第2に,機能の基礎について,デザインと適応起源の両方を推察することが,常に許されないというわけではない.それはエンジニアリング視点から見た機能の複雑性によるのだ.もし誰かが「ジョンはXを日よけあるいは文鎮として使っている」と聞いたならXが何かを推察することは難しい,なぜならほとんど何でもその機能を果たしうるからだ.しかし「ジョンはXをテレビ放送を映し出すために使っている」と聞いたなら,それはテレビ受像器かあるいは似たようなデバイスであり,それはそのためにデザインされているだろうと推測するのは理にかなっている.それはテレビ番組を受信して映し出すためにデザインされていないものがその機能を持つことはほとんどあり得ないからだ.そのために必要なエンジニアリング的な要求は(デザインされていないものがその機能を持つには)複雑すぎるのだ.
  • この手の考察がコウモリのエコロケーション能力などのハイテック能力に関して使われるのはよくあることだ.私たちはヒトの言語能力は類似ケースだと主張する.これは決してメガネを乗せるための鼻ではない.ヒトの言語は,ねじ曲がりくねったソープオペラのプロットから宇宙の起源の理論まで,とてつもなく複雑で精妙なメッセージをコミュニケートできるデバイスなのだ.

ここでは対象考察物(言語)の特性が,適応産物でしか説明できないものであることが強調されている.なかなか強い主張だ.検証という文脈で当てはめると,適応産物である(いわばベイズ的なフレームワークでの)事前確率が高いという主張になるだろうか.

  • 第3に,「言語が命題構造のコミュニケーションのためにデザインされている」という議論は論理的真実からかけ離れている.特定の代替理論を定式化した上で(その議論を)否定することはたやすいのだ.
  • 例をあげよう.「言語は論理計算のための内的知識表現の媒体だ」ということはよく主張される.しかし「思考のための言語」あるいは「メンタリーゼ」と呼ばれる言語類似の知識表現媒体が(言語とは別に)あるかもしれない.そしてそれは英語な日本語などの自然言語ではあり得ない.自然言語をこの機能の観点から見ると欠点だらけだ.それは,シリアルで,曖昧性に満ちており(会話ならそれでいいが内的論理表現には適さない),談話にとってのみふさわしいような構文交替(alternations)にあふれ,論理性には何ら貢献のない音韻論や語形論のようなデバイスによってとっちらかされている.
  • 同様に,文法の詳細をよく見ると,「言語が思考の表現のためにある」という主張を行うことは難しくなる.もし「表現」が思考の具現化を意味するなら,言語がそれを聞く相手の存在を前提に成り立っていること(音韻論やフォネティックスは聞き取る側が曖昧性を排除しやすいように組み立てられている)や,会話の主題や発話内行為や先行詞をエンコードする実践的なデバイスの存在は説明できなくなる.
  • 特定の言語デザインの実践的な性質についてもう一つ例をあげよう.言語にはデザインされた特別の表現能力がある.それはヒトがコミュニケーションしたがるようなすべての情報に同じように対応しているわけではない.だから文法がどんな表現を可能にしているかは完全に実践的なリサーチ課題になる.そしてリサーチしてみると事前には予想できないような結果が得られる.文法は感情の微妙なパターンを伝えるには欠点だらけであり,顔の表情や声のパターンの方がはるかに情報豊富だ.文法は,連結,接触,内包などの粗いトポロジカルな位置情報は伝えられるが,正確な位置座標情報を伝えるには向いていない.簡単な図一つが何千語にも勝る.

この部分は背景がよくわからない.ピンカーは「言語が思考の表現のための完成されたデザイン特性を持つ」という議論を批判しているが,これは適応仮説とは別の話のようにも思えるところだ.当時の言語適応否定説と言語思考表現デバイス説には何らかの連結があったということなのだろうか.

  • 最後に,ジョージ・ウィリアムズは,収斂進化,ヒトによるデザイン産物との類似,エンジニアリング的な直接的な効率性評価は,よい適応の証拠だと示唆している.もちろんヒトの言語においてこのようなテストは実際には難しい.収斂進化は観察されていないし,同じ機能を持つ人工的なシステムは(単に既往言語を寄生的に真似したエスペラントのような言語を除くと)まだ作られていない.そして実験には倫理的な問題も生じうる.とはいえ,いくつかのテストは原理的に可能であり,それだけで循環論法批判を退けることができる.
  • 例えば,コンピュータ言語やシンボル論理などの非常に限られたドメイン用に作られた人工言語であっても,ヒトの言語の文法といくつかの類似点を見せている.それらの人工言語は離散的なシンボル,主題と賓辞という構造,埋め込み,スコープ,数量化(すべての,いくつかの,一つの・・・),真理値表現を持ち,記号列の中のパターン,階層的連結,相対的線形順序,特定の特別なシンボルなどを区別できる統語的システムで問題を解決する.もちろん似ていないところも膨大にある.しかし「言語」「統語論」「主題」「賓辞」などが人工言語においても明確な意味を持つという事実は,(ちょうど眼とカメラに似た)偶然を超える何らかの平行があることを示唆している.そして原理的には人工言語をコンピュータシミュレーション上の実験に使えるだろう.

ここが検証できればいいというポイントになる.人工言語との収斂を用いるというアイデアが渋いところだ.