Language, Cognition, and Human Nature 第5論文 「自然言語と自然淘汰」 その10

Language, Cognition, and Human Nature: Selected Articles

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ピアテリ=パルマリーニによる「言語には恣意性がある,だから適応ではあり得ない」という議論に対するピンカーの批判の2番目は「標準化」の議論だ.

3.4.2 コミュニケーションプロトコルパリティ
  • 今あるものと異なる生物システムを思いつくことができるというだけでは,それが適応かどうかについて何も提示したことにはならない.節足動物には複眼があるからといって脊椎動物の眼が適応でないことにはならないのだ.全く同様に空想上の火星言語が受動態について異なる解決ができると言うだけでは何の結論も出せない.私たちは特定の説明がどのようにうまく支持されているのかを問題にしなければならない.
  • ヒトの言語の構造にかかる特徴の場合,ここでもピアテリ=パルマリーニは(それが適応でないと主張する理由として)全く何の説明も提示せずに,自然淘汰に関しての空想的な無能力性にすべてを依存している.
  • しかし実際にはそこに(適応だという)積極的な証拠があるのだ.言語はその恣意性自体が効果的なコミュニケーションにかかる適応的な解決策の一部であるのだ.どのようなコミュニケーションシステムも共有するためには恣意的なコーディングプロトコルが必要になる.リーバーマンとマッティングレイはこれをパリティ要求と名づけた.これは(偶然同じパリティという用語を用いるようになった)電子機器の通信設定プロトコルを用いて説明できる.プリンターのシリアルインターフェイスパリティ設定をevenにするかoddにするかに特に理由はない.PC側についても同じだ.しかしPCとプリンターの設定を同じにすることには理由がある.そうしないと通信できないからだ.要するに(コミュニケーションのためには)個別の適応的特徴よりも,標準化の方がはるかに重要なのだ.(ここで80年代に,パソコン市場では個別製品の性能やデザインよりIBM/PCとの互換性がはるかに重要だったということが説明されている)
  • 言語能力の進化においても多くの「恣意的な」特徴は,単に限界質量に達したヒトの脳の標準コミュニケーションプロトコルの一部だったから,淘汰によって選択されただけなのかもしれない.ピアテリ=パルマリーニの「yes-no疑問文を作るために主語と助動詞の語順をひっくり返すというルールにはその他の語順変更を用いるルールと比べて(効率性や優秀性で差は無く)適応性はない」という主張は正しいのかもしれない.しかし何らかのルールが必要だとするなら,他のメンバーと同じルールを用いるのは非常に適応的だ.歴史的偶然や認知過程の随伴現象や神経発達の制約などによって対称性が破れて何らかのルールに落ち着いたのだろう.しかし結果的にそれが慣習になり,生得的に獲得できるようになるならそれは適応だ.
  • パリティ要求はコミュニケーションプロトコルのすべてのレベルにおいて現れる.個別の言語の中でも恣意的でかつ共有された特徴の有用性の例として最も明らかなのは個別の単語の選択だ.イヌをdogと呼ぶのは他の人もそう呼んでいるからで,理由としてはそれで十分だ.ソシュールはこれを“l’arbitraire du signe”と呼び,ハーフォードは進化ゲーム理論を使ってそれがESSであることを示した.
  • より一般化すると,恣意性への選好は言語獲得器官に2つのレベルで組み込まれていると考えられる.まずユニバーサル文法のルールセットの一つという形で,そしてあるコミュニティの中でそのセットの中からどのルールを使うかという形でだ.
  • 今あるパリティ設定がどうなっているかを評価してそれを獲得することを目的とした学習メカニズムの利益は明らかだ.そして特に「学習メカニズムを持たずに,各自が単語の意味から内因的に推論して同じ設定にたどりつく」などの代替的な方策と比べたときにその有用性は明らかだ.意味と形にはどのような理屈づけも可能だからそれが収斂することはあまり期待できない.
  • 既に述べたように,どのような文法デバイスも同時に話し手と聞き手の要求を最適化することはできない.だからといってセルボクロアチア語でしゃべってトルコ語で返答させるようなこともできないのだ.
  • さらに,認知が,ある単一の状況を二つの見方で解釈できるに十分なだけ柔軟であれば,論理的な方法では唯一の「論理的な」文法と意味の組み合わせを「推測」することはできない.例えば「使役動詞の直接目的語は動作によって影響を受けるエンティティである」というユニバーサルな原則がある.しかしこの原則は(先ほどの推測には)使えない.少女が籠に箱を入れているとすると彼女は文字通り両方の物体に影響を与えている.箱は場所を変え,籠は空から中に何か入っているという状況に状態が変更される.箱に興味がある話し手は「filling boxes」と言うだろうし,籠に興味があれば「filling baskets」と言うだろう.何が行われているかこれでは確定できない.
  • しかしながら,異なる動詞に,異なるエンティティに対して特異的な好みを設定するなら(place the box/*basket,fill the basket/*box),そして学習者にその動詞の「好み」をリスペクトするように強いることができるなら,文法は,曖昧性を最少にしたまま,話し手には異なる動詞の目的語に置くことによってエンティティの種類を表現できるようにすることができる.おそらくこれが,異なる動詞が異なる文法特権(syntactic privileges)を持つ理由なのだろう.(ピアテリ=パルマリーニはこの現象を延々と議論している)
  • 図象性やオノマトペですら,見るもの,聴くものにより異なる.(つまりここにもパリティ要求がある)樹木を表すASLは木が風にそよぐ様子を表すが,中国手話では木の幹を描く.アメリカでブタは「オインク」と鳴くが,日本では「ブーブー」と鳴くのだ.


ここでのピンカーの主張の骨子はコミュニケーションのためには互いに同じプロトコルを用いる必要があり,そのための標準化の特徴自体は恣意的でいいという議論だ.
最初の「昆虫に複眼があるからと言って脊椎動物の眼の適応性を否定できない」というのはいかにもピアテリ=パルマリーニの議論の弱さをよく示しているが,なぜここに持ってきたのだろう.本節の冒頭にある方がふさわしい気がする.どうでもいいことだが,シリアルインターフェイスパリティ設定はなつかしい.ググってみると現在のUSBなどによる機器接続でもこのような設定は必要で,それはソフトウェア制御されているのだそうだ.