「竜宮城は二つあった」


本書は東海大学出版部の「フィールドの生物学」シリーズの一冊.今回はウミガメの生活史の研究者の自伝的研究物語だ.
物語は著者の兵庫県での生い立ち,北海道での大学生活から始まる.大学で生化学系の学科に属し,スポーツに打ち込むが,就職時期になり,このまま家畜・家禽関連の食品会社の就職する気にならず,ウミガメの研究者の道を選ぶ.


ここで現生7種のウミガメ,その生活史の簡単な解説がある.ウミガメは海に面した砂浜で産卵し,孵化した小亀は海に入り,その後海で育つ.オスは終生海で過ごし,メスは自分が生まれた浜に産卵に戻ってくる.ウミガメの中には浅海のみで採餌するもの(ヒラタウミガメ),外洋のみで採餌するもの(オサガメ)のようなタイプもあるが,大半のウミガメは浅海でも外洋でも採餌している.本書の中心となるアカウミガメでは,浅海ではエビやカニ,外洋ではクラゲなどを食べている.


ここからは著者の調査研究物語になる.和歌山県の南部(アカウミガメ屋久島(アカウミガメ北太平洋最大の産卵場だそうだ)小笠原(アオウミガメ)が著者の主な調査フィールドになる.それぞれのフィールドの調査作業はそれぞれにハードなものだが,著者はその様子を,当時の様々な出来事や調査地のNPOやボランティの人々との交流振りを交え淡々と描いている.その描写の中に短く乾いた感想が随所に差し込まれていて,いわく言い難い独特の味を醸し出している.また世界各地の学会の参加体験が,体当たり貧乏旅行風の楽しい紀行エッセイとしてコラムとして挟み込まれ,インターミッションとして楽しい.


そういう日々の中で著者は南部で標識をつけたアカウミガメの再捕獲データを見ているうちに,再捕獲地域と個体の大きさにある傾向があることに気づく.産卵を終えたカメは主に東シナ海に向かうのだが,時に日本列島沿岸で再捕獲されることがある.そして東シナ海で再捕獲される個体は,日本列島近辺で再捕獲される個体よりサイズが大きいのだ.著者は,もしかしたらウミガメには生活史に多型があるのではないかと考える.そしてそれはその後の著者のリサーチを貫く大きなテーマになるのだ.

著者のこのテーマに沿って何年も何年もかけて粘り強く様々なリサーチを積み上げる.まず,卵を用いた安定同位体食性解析,人工衛星を用いた個体追跡データの積み上げ,餌となる海洋生物の収集と安定同位体解析により,アカウミガメの生活史パターンに多型があり,太平洋で外洋型の浮遊生物を食べるものは小型個体で,日本列島沿岸や東シナ海の浅海で甲殻類などの底生生物を食べるものは大型個体であることを明らかにする.つまり竜宮城は2つあったのだ*1.またこのような生活史多型はアオウミガメでも確認される(ただしアオウミガメの場合には両タイプで個体の大きさには差が無い).著者の発見以降世界各地のアカウミガメ,アオウミガメで同様の発見がなされていて,このような生活史多型はこれらのウミガメに広く見られるものであることが明らかになっている.(なおこれは若い個体が外洋に出て,成長とともに浅海に移っているのではない.アカウミガメは性成熟後は成長しない.また著者は初産個体と経産個体のデータから,繁殖経験が同位体比を変えないことも確認している.)

ではこの多型は遺伝的に分化しつつある2集団があることから生じているのだろうか.著者はこれも何年もかけて,ミトコンドリアDNAのハプロタイプ,核染色体DNAのマイクロサテライト解析などを用い,両タイプ間に遺伝的な分化がないことを確認する.
またこれも執念のデータ集積により,両タイプのエネルギー収支,適応度の推定を行っている.これによると日本のアカウミガメ集団では両タイプ間に大きな適応度差異があり,浅海採餌大型タイプの方が,外洋採餌小型タイプより2.4倍も高い適応度を持つのだ.これは外洋採餌の方が栄養条件が悪いこと,産卵に戻るための回遊距離が大きいことから生じていると思われる.適応度差があるなら,この生活史タイプが遺伝的に決まっていることは考えにくくなる.著者はここであまり明確な解説を置いていないが,遺伝的に両タイプが分離していなくても頻度依存淘汰により遺伝的な多型が保たれることはあり得る.しかしその場合には両タイプの適応度は等しくなければならない.だからこのウミガメの生活史多型はいわゆる「条件付き戦略」であると考えられる.著者はこれは「初期成長条件に応じた生息域選択仮説」として提示している.


著者のこのテーマに沿ったリサーチは現在も続いている.初期成長条件とはどのようなものか,一腹卵数と卵の大きさはどう決まるのか.著者の見つけたこの竜宮城にはなお解明すべき謎が残っているのだ.


この本書で提示されたウミガメの生活史多型は大変興味深い.私の感じた疑問をここに記しておこう.

  • (世界各地ではこれより低いデータもあるようだが)この2.4倍の適応度差というのは非常に大きく,なぜ皆浅海型にならないのか不思議だ.同じような初期成長条件による条件付き生活史戦略を持つヤマメとサクラマスの場合は,希少資源である渓谷での定着をめぐってオス個体間で激しい争いがあり,負けたオスが追い出され,仕方なく川を下っていくのだと説明できる.しかしウミガメが広い海でそのような追い出し型の競争を行うことができるとは思えない.産卵個体数が回復しても浅海型と外洋型の個体比が変わっていないということも,これが追い出し型の競争で生じていないことを示唆しているだろう.一体どのような初期成長条件が「浅海採餌しようとすることが(2.4倍の適応度比を覆すほど)かえって不利になる」という状況を引き起こすのだろうか.大変興味が持たれる.
  • 一腹産卵数と卵の大きさの問題も面白い.著者によるとアカウミガメの外洋採餌型小型個体は一腹産卵数が少なく,卵の大きさは一定であるのに対し,浅海型大型個体は一腹産卵数が多く,より大型の個体ほど大きめの卵を産む.また卵の大きさには浅海採餌型と外洋採餌型で有意差はない.理論的には,一腹卵数と卵の適応度に相関がなければ,卵の最適な大きさは一定にあるはずであり,負の相関があれば(つまり密度効果があれば)一腹卵数が大きくなるにつれて卵が大きくなるだろう.なぜこの相関が浅海型と外洋型で異なるのだろうか.一定の一腹卵数を越えたところから密度効果があるとするなら両タイプの卵の平均サイズは異なってくるはずだ.これも興味深いところだ.

この興味深い謎の解明のためにも,著者の今後のリサーチの充実を祈ってやまないところだ.

*1:これがタイトルの由来になる.なお著者は浦島伝説についても本書の随所でいろいろ語っていて面白い.