「生態学者・伊藤嘉昭伝 もっとも基礎的なことがもっとも役に立つ」


本書は日本の行動生態学の夜明けを作ったパイオニアの1人伊藤嘉昭(1930〜2015)の功績と人柄を偲ぶためにお弟子さんたちによって企画された,生前の伊藤を知る人々による寄稿集である.時代ごと(農研時代,沖縄時代,名古屋以降)トピックごと(著作,ハチ研究,思想)に区分された57のエッセイが収録されている.寄稿の中身も,想い出を綴ったもの,業績を総説したものなど様々だ. 


私自身は伊藤とはお会いしたことも講演等でお見かけしたこともないが,その著書には大変お世話になった1人だ.80年代後半にドーキンスに触れてからいろいろな本を漁っていたが,90年代初頭に本格的に行動生態学を学ぼうとしたときに,伊藤の「改訂版動物の社会」「生態学と社会」はまず読むべき入門書であったし,特に巻末の学習者のための文献ガイドは非常に有用だった.しばらくはこの文献リストのコピーを持ち歩き,入手,読破した本をチェックして消し込んでいったものだ.
また「狩りバチの社会進化」は,膜翅目昆虫の真社会性起源はハミルトン説で決定的であるわけでもないことに気づかせてくれた本でもあったし,ウィルソンの「社会生物学」の訳者としてもお世話になった.
そういう行動生態学の解説者としての伊藤を知っていただけのときに読んだ自伝「楽しき挑戦」(2003年)は結構衝撃的だった.東京農林専門学校の学生時代から共産主義に染まり,1952年の血のメーデー事件で逮捕,9ヶ月の小菅拘留の後起訴され.当時勤めていた農業研究所から休職措置を受けて,月給4割カットで昇給なし*1という状況が1969年の無罪確定まで17年も続く.そこで猛勉強しながら論文や著書を書き,復権してからは沖縄でウリミバエ根絶事業を主導して成功させ,そして名古屋に移ってからは行動生態学の日本への導入の牽引役となるのだ.この自伝ではルイセンコ主義からの離脱,共産主義からの離脱についても書かれていて,強固なイデオロギーから逃れられた実例としても興味深いところがある.


自伝出版からさらに14年が経過して本寄稿集ということになったわけだ.読んでいくと自伝でも明らかな昭和一ケタ生まれの伊藤の気骨あふれる人生が浮かび上がり,さらに昭和30年代40年代の日本の世相,生態学周りを取り巻く熱気と思想の狂乱振り,そして行動生態学の曙時代が飛び込んでくる.印象的だったこと,私が感じたことをいくつか挙げておこう.

  • 昭和30年代40年代生態学周りにおける共産主義,左翼的思想傾向の強さはやはり印象的だ.1つにはレッドパージや学生運動の余波もあって,そういう運動に参加した学生の受け入れ就職先としては学問の世界しかなかったということもあるのだろう.そしてそういう場所ではイデオロギー的に獲得形質の遺伝を主張するルイセンコ主義が跳梁跋扈し,そこまで行かなくとも種内競争を否定した「種のため進化」理論,今西的進化観が幅を利かすということになる.当時の大学の閉鎖的な雇用慣行,講座制の運用慣行もそういうことに拍車をかけていたのだろう.本書でも若い頃の伊藤はルイセンコの毒をまき散らしていたという証言が載せられている.
  • この様子については岸由二の寄稿「嘉昭さん応答せよ」がとりわけ衝撃的だ.当時の生態学界がいかにイデオロギーと閉鎖的人間関係でぐちゃぐちゃにされていたかが,これでもかこれでもかと描かれている.
  • その中で,(それにしがみつかずに)先駆けて転向を果たせた伊藤の根性は大したものだ.それは不遇時代に海外の論文を数多く読み込んでいて視野が広がったということもあるだろうし,内向きの和文論文を少し書くだけの旧態依然とした(京大をはじめとした)旧帝大のアカデミズムへの(学歴コンプレックスも背景にした)反発もあったのだろう.
  • そしてそれでも伊藤の中には左翼的に解釈できる理論への希望が残り続けたのだろう.粕谷の寄稿には「同種個体殺しを適応と考えること」を最後まで躊躇したことが描かれているし,膜翅目昆虫の真社会性についての協同的多雌仮説にも「『血縁びいき』から社会性が進化して欲しくない」という思いがあるようだ.(なおこの協同的多雌仮説については,本書の嶋田による伊藤の業績についての総説でその後の展開が解説されている.現在では大規模な分子系統解析により基本的に否定されているということのようだ)
  • 気骨あふれる性格,型破りで強引な行動パターンをめぐる逸話も多い.そしてそれは味方も多いが,敵も多いという状況を作り出す.行動生態学を日本に根付かせるという大きな功績を生みだしながら,特定研究「生物の適応戦略と社会構造」の後継プログラムからは意図的に外され,名古屋大学の行動生態学の研究室も退官とともにつぶされるという結果になる.「理屈で勝てないときには人事で報復する」といういかにもの閉鎖的なやり口で,その悔しさはいかばかりであったかと思う.
  • そして本書で最も頻出する逸話は「英語で論文を書け」という教えだ.それはしっかりと生態学に根付き,学問のあり方を風通しの良いオープンなものに,そしてグローバルに通用するものに変えることに大きく貢献した.最終的にはそれは伊藤の勝利であったのだと評価できるだろう.


本書は学説史の基礎資料としても貴重なものになるだろう.そして「昭和一ケタ,男一匹どこへ行く」という昔の日本男児の生きざまを知るという意味で読んでいて退屈しない濃密な本だ.行動生態学に興味のある人には,自伝「楽しき挑戦」とセットで読むことを勧めたい.


関連書籍


自伝

楽しき挑戦―型破り生態学50年

楽しき挑戦―型破り生態学50年


入門書 「動物の社会」は,私の読んだ改訂版がさらに新版になってリバイズされている.


これも当時お世話になった本だ.伊藤は編者として参加

動物社会における共同と攻撃

動物社会における共同と攻撃

  • 発売日: 1992/04/01
  • メディア: 単行本


教科書

動物生態学

動物生態学


ハチについての本

熱帯のハチ―多女王制のなぞを探る

熱帯のハチ―多女王制のなぞを探る


訳書

社会生物学

社会生物学

進化生態学

進化生態学

*1:当時のインフレ状況下では非常にきつかっただろう