「行動経済学の逆襲」

行動経済学の逆襲 (早川書房)

行動経済学の逆襲 (早川書房)


本書はカーネマンとトヴェルスキーとともに行動経済学の夜明けを作ったリチャード・セイラーによる自伝的研究物語だが,同時に行動経済学の学説史兼概説書でもあるという本になる.自伝がそのまま学問の大きな部分を包括できるという創始者ならではの構成で,著者の人生,その物語性とともに行動経済学の興隆した背景,学問全体の見取り図がうまく語られている.原題は「Misbehaving: The Making of Behavioral Economics」.


まえがきでトヴェルスキーの想い出にふれた後,物語は始まる.全体はセイラーの学者としてのキャリアの区切りによって8部構成になっている.

第1部 エコンの経済学に疑問を抱く


冒頭は教え始めたばかりの頃の学生たちの非合理的な態度から始まる*1.これは経済学の前提である合理的経済人(エコン)の振る舞いにあわない.この前提についての簡単な解説の後,これは出発点としては便利であり,近似的な解を得られる場合もあるが,経済学という学問全体にとって死守しなければならない前提ではないことが説明される.そしてこの前提にあわない現実のヒト(ヒューマン)の振る舞いを取り入れた経済学が行動経済学であり,その実践は予測精度を上げるためであるが,なによりおもしろくて楽しいのだとコメントされている.

セイラーの研究生活は「命の価値」の問題から始まる.様々な設問に対してヒトは矛盾した回答を行う.いまここにいる女の子の命は抽象的な政策により救われる命より重く受け止められ,ごくわずかの確率で命を救う薬の価値は,同じリスクを引き受けるための報酬より安いのだ.そのような矛盾は様々なところで見つかった.セイラーはフレーミング保有効果の問題に気づき,そのような人々の振る舞いをリストにし始める.
このテーマをどう進めるか考えあぐねていたときにカーネマンとトヴェルスキーの研究に出会う.限定合理性,ヒューリスティックス,そしてのちのプロスペクト理論だ.これはセイラーに衝撃を与え,ヒトがどう行動するかを正確に記述した経済モデルに取り組み,それに学者生命のすべてを賭ける決心をする.セイラーはカーネマンとトヴェルスキーを訪ね,意気投合する.

セイラーはコーネル大学に採用され,そこでこの新しいアプローチを主張し始めたが,主流の経済学者たちから,強い懐疑にさらされ,様々な批判を浴びることになる.主流派の懐疑論は以下のようにまとめられる.

  • 確かにヒトは意識的に最適行動のための方程式を解いて行動しているわけではないが,結局「あたかもそのように」行動する.それはビリヤードの達人が最適な角度を見つけるのと同じだ.(これに対しては実証するしかない.そして後にカーネマンたちが実証的にそうでないことを示した)
  • 実験に使われているインセンティブ(通常数ドル)は少額すぎる.金額が大きくなればヒトはより合理的に行動するはずだ.(これは最後までくすぶり続ける懐疑論の一つになる)
  • 1回限りではそういうおかしな行動をとるとしても,ヒトは学習する.何度も経験すればだんだん最適行動をとるようになるのではないか.(セイラーはこの二つの批判は互いに矛盾していると皮肉っぽくコメントしている.ヒトは少額問題には頻繁に出会うが大金がかかった意思決定問題はまれだからだ)
  • 愚かな決定をするヒトや企業は市場においては競争に負けて駆逐されていくだろう.あるいは個別の参加者が非合理でも市場全体では合理的になるだろう.(個別参加者は非合理に振る舞っても市場から退出しなければならないわけではない.市場全体の問題は金融市場が効率的かという問題につながっていく)

セイラーはここに含めていないが,「ヒトは自然淘汰の産物なのだから最適に行動するはずだ」という懐疑論もあったそうだ.これは自然淘汰に関する誤解(進化は包括適応度最大化に向かうものであり,個人の経済的合理性に向かって進化するとは限らない)ということになるだろう.

第2部 メンタル・アカウンティングで行動を読み解く


このような主流の経済学者たちからの批判の嵐に対してセイラーは論文を量産して対抗するしかない*2.そしてその中心テーマとして「ヒトはお金についてどう考えているのか:メンタル・アカウンティング」を選ぶ.
機会費用について簡単に解説した後,セイラーは当時の思索をたどる.

  • (損失回避傾向があるとして)費用はいつ損失になるのだろう.効用には種類があるのだろうか.
  • そして人々が買い物するときには「得られるものから期待する効用:獲得効用」と「お買い得に買い物できた満足感:取引効用」があるのではないかと考える.だから真夏のビーチで同じ価格で買うビールについてもどこで買ったかに関心を持つのだ.
  • なぜヒトはサンクコストの誤謬に陥りやすいのか.それはいつ費用支出が損失になるかに関わるのだ.それは減価償却のように時間とともに損失に振り替わる.ヒトはメンタルにはまだ損失になっていない支出を無視できない.そして先払い支出を費用でなく投資と考えればそれは損失に振り替わりにくくなる.

セイラーはこのメンタル・アカウンティングを乗り越えるのはきわめて困難だとコメントしている.そして自分はたいていのことはエコンのように処理すべきだと考えているが,メンタル・アカウンティングについてだけはどうしようもなくヒューマンだと告白している.


このほかには以下のようなメンタル・アカウンティングが解説されている.

  • メンタル・バジェット(予算):一旦異なる予算枠に組み込まれたお金はほかの予算枠のお金と代替しにくくなる.
  • 賭けにおけるアカウンティング:途中で勝っている時には,儲けた金は別枠になって,この部分を元本に賭けるときにはよりリスク受容的になる.(賭けについてはプロスペクト理論も影響する.負けているときには,損を一気に取り戻せる可能性がないときにはリスク回避的になるが,取り戻せる可能性があると思えばリスク受容的になる:ブレークイーブン効果)


第3部 セルフコントロール問題に取り組む.


おかしな行動リストはメンタル・アカウンティングでかなり理解できたが,なお未解決のものがあった.それはセルフコントロールが絡む行動だ.エコンの世界ではそもそもセルフコントロール問題自体が存在し得ない.セイラーはこの問題に取り組む.

ヒトが近視眼的であることはアダム=スミスがすでに洞察している.ジェヴォンズピグー,フィッシャー,サミュエルソンたちの思索をたどった後,問題は割引効用関数の形にあることを解説する.割引率は最初は高く,だんだん低くなるのだ.これは「準双曲割引」問題,あるいは「現在バイアス」と呼ばれる.
そしてこれは経済学の基礎の一つ消費関数に絡む.消費関数はケインズフリードマン,モジリアーニ,バローが理論的に整備するにつれて洗練され,エコンは生涯所得を生涯消費効用と子孫の幸福への効用に従って期間ごとの消費と相続に割り振るとされた.ここにはセルフコントロール問題は存在しない.セイラーはこれは心理学者には笑い話だと指摘し,メンタル・アカウンティングを組み入れた行動ライフサイクル仮説を提唱する.

セイラーはセルフコントロール問題について,ストロッツとコミットメント戦略,ミシェルのマシュマロテスト,エインズリーの思索に沿って追いかけ,セルフコントロール問題の核が二つの自己の間の葛藤であると気づく(これはカーネマンたちの2つのシステムの概念提唱の前の話になる).そしてプリンシパル・エージェント・モデルに準拠した計画者・実行者・モデルを組み立てる.問題解決にはコミットメントが有効だが,それが実行できない場合には「罪悪感」という形でコストをかけるしかない.つまり意思力を働かせるには努力が必要になるのだ.


セイラーはここで「幕間」としてこのような行動経済学の知見をビジネスに応用してみた話をおいている.具体的には近くのスキー場の経営改善へのアイデア提供だ.実際にあまり収益のあがっていなかったいくつかのサービスをフリーにする,前払いのパック制を導入するなどはうまくいったそうだ.またGMに対してうまくいきそうな提案をする機会があったのに,まともな検討もされずに却下された顛末も描いている.なかなか楽しいエピソードだ.

第4部 カーネマンの研究室に入り浸る.


1984年,カーネマンとトヴェルスキーは本拠地をイスラエルから北米に移すことを決める.セイラーはサバティカルの期間をあわせ,彼らと1年間びっしり共同研究することになる.

当時のカーネマンの関心は「公正さ」の感覚にあった.ヒトは取引内容だけでなく,相手の動機を気にするのだ.そしてそれは利益移転状況だけでなくフレーミング,特に保有効果に影響される.セイラーはここでこの微妙なフレーミングを理解し損なった企業の失敗例をいろいろあげている*3
不公正という認識は,加罰への意思につながる.セイラーは最後通牒ゲーム,独裁者ゲーム,公共財ゲームに見られるヒトの傾向をここで説明し,経済学者にとって必要なのは多面的な人間観だとコメントしている.なかなか深い. *4

もう一つのカーネマンたちとの共同研究のテーマが保有効果になる.この効果は特に主流の経済学者をいらだたせたようで,それに対抗するための実験の詳細が詳しく解説されている*5保有効果はなぜ生じるのか,セイラーは一つは損失回避だが,もう一つは「惰性」(現状維持バイアス)だとコメントしている.

第5部 経済学者と闘う


1985年行動経済学が初めて大規模な公開討論会のテーマになり,合理主義者と行動主義者が対決することになった.セイラーはそのときの模様を詳しく語っている.様子の詳細は大学者たちの素顔を紹介してくれているもので楽しい.
行動主義者のいわば助っ人として参加した経済理論家のケネス・アローは「合理性は優れた経済理論の必要条件でも十分条件でもなく,理論家は補助仮説を加える必要がある」と指摘した.セイラーはこれには深く考えさせられたと回想している.

会議の後セイラーは,アメリカ経済学会の発行する雑誌にヒトの行動のアノマリーを連載する機会を得る.これは経済学者に多く読まれ,大きな影響を与えた.(紹介されている個別のアノマリーの紹介もおもしろい)そしてキャメラー,ローウェンスタイン,シラーなどの次世代の行動経済学者たちが現れ始める.
心理学者たちとの協同も模索したが,こちらはうまくいかなかった.セイラーは,心理学者たちにとってアノマリーが当たり前であり,経済学者にとって興味あるヒトの行動は心理学者にとって最新のアイデアには結びつかなかったからだと回想している.

セイラーもカーネマンたちも忙しくなりすぎて,共同研究は難しくなるが,一つ「狭いフレーミング」は共通の関心事だった.これは全体では適切なリスクリターン比であっても個別プロジェクトごとにみるとリスクが高くなりすぎる(そして個別のマネージャーの判断の集積は全体の最適判断からずれる)という問題だ.これはある意味でプリンシパル・エージェント問題の一種になる.そしてこれは上司側が適切な仕組みを構築していないために生じるということになる(セイラーはこれを「能なしプリンシパル問題」と呼んでいる).

当時の主流派との議論の一つは「株式プレミアム問題」だ.これは100年程度のデータをみると株式のリターンが無リスク資産のリターンに比べて年率で6%も高く,リスク込みでも大きすぎるように見えるという問題だ.セイラーはこれを「近視眼的な損失回避」で説明した.そしてセイラーは長期投資をするならレポートを頻繁にみるべきではないとアドバイスしている.

第6部 効率的市場仮説に抗う


そして主流派との最大の論戦は金融市場において生じる.金融市場は伝統的に最も合理的だと考えられていたからだ.主戦場は「市場は効率的か」というものだ.これには二つの側面がある.一つは強い効率的市場仮説「市場でつく値段は常に合理的だ」,もう一つは弱い効率的市場仮説「投資パフォーマンスで市場に勝つことはできない」になる.
当初の学術研究は弱い仮説を巡るものだった.そしてジェンセンはそれを肯定し,根拠として大半のプロの運用成績が市場平均に勝てないことをあげている.そして投資理論が1970年代以降整備され,理論的にも効率化仮説は擁護されるようになった. セイラーは強い仮説を含めて学説史から掘り起こして解説する.かつてケインズは市場が常軌を逸しうるものであると考えていた.それは美人投票のたとえで有名だ.ここでセイラーは「1から100までの数字のうち1つを選ぶ.参加者の平均値の2/3に最も近い人が優勝」というゲームを例にあげて他人の行動の裏の裏を読み合うゲームのダイナミズムを解説している*6.実証的にはまず株式市場の取引量が強い効率的市場仮説が想定するよりも大幅に大きいことが問題になる.これはおそらく自信過剰傾向が要因だが実証は不可能だとセイラーはコメントしている.
弱い効率的市場仮説については,(その当時のデータでは)バリュー投資や小型株のパフォーマンスが市場平均をうわまわっており,さらに平均回帰が観測されていた.セイラーはこれを持って弱い効率的市場仮説を否定する証拠とする論文を書く.効率的市場派はそれはリスク要因によるのだという解釈を提示して対抗する.しかし資本資産価格モデル(CAPM)の世界ではリスクはβ値しかあり得ず,この解釈は否定された.効率的市場派は,CAPMの死亡宣告は受け入れたが市場の効率性には引き続きこだわった.論者はリスクのマルチファクターモデルで対抗しているが,セイラーは「エコンの世界ではリスクはβ値のみで,その他はエコンが考慮するはずのない要因(SIF)になるのだ」とコメントしている.
次のバトルフィールドは強い効率的市場仮説だ.1981年,シラーは100年間の株式市場のデータを分析し,配当割引価値は安定しているのに対して市場価格は激しく上下していることを示し,この変動は正当化できないと主張した.激しい論争が巻き起こったが,セイラーは1987年に起こったブラックマンデーはシラーの正しさを証明したとコメントしている.ではこの振れすぎる変動を利用して市場を出し抜けるだろうか(弱い効率的市場仮説を否定できるか).それはそれほど単純ではない.割高になっていることは指摘できてもバブルがいつはじけるかは予測困難だからだ.
さらに個別証券の価格についても市場は明らかに非合理的な価格形成を行うことがある.セイラーはクローズエンド型ミューチュアルファンドの取引価格にプレミアムが付いたりディスカウントになる現象を上げる.セイラーはこれは個人投資家がムードに左右されやすいことに要因があると考え,ディスカウント率が小型株と大型株のリターンの差と相関することをその証左とする.これも激論になるが,論争は多くの人々の注目を集めた.さらにオーウェンは会社の分割に際して1物1価に反する明らかにおかしな値付けが生じる例(これはスリーコムがパームを分割IPOしたときに生じた)を採り上げた.なぜこれがすぐに解消しなかったのかは「裁定の限界」として説明される.この値付けを利用して裁定取引して儲けるためにはパーム株の空売りをする必要があったが,市場に売り出されたパーム株があまりに少なく裁定投資家が借り株を集めることができなかったのだ.

最後にセイラーは現在効率的市場仮説についてどう考えているかをまとめている.弱い効率的市場仮説についての主張はかなり後退している.(理由は書かれていないが,バリュー投資や小型株の有利性は時期によっては逆転することが明らかになっていることがあるのだろう)

  • まずそれは規範的基準として非常に有用だ.
  • 記述的モデルとしての弱い効率的市場仮説はおおむね正しいと考えている.実際に大半のアクティブ運用者は市場に勝てていない.アノマリーは間違いなく存在するが,常にそれを収益化できるとは限らない.バブルがいつ破裂するかはわからないし,裁定の限界もあるからだ.
  • 同じく記述モデルとしての強い効率的市場仮説についてはかなり評価が低くなる.価格はしばしば間違い,大きく間違うこともあるのだ.

第7部 シカゴ大学に赴任する

1995年,セイラーはシカゴ大学ビジネススクールに移る.そこで法学者のキャス・サンスティーンに出会い,「法と経済学」の世界に行動主義を入れ込むというプロジェクトに注力することになる.このアプローチに対しては法と経済学の大立て者リチャード・ポズナーが最大の批判者として立ち現れる.
そして論戦は「コースの定理」をめぐるものになる.コースの定理とは「取引コストが存在しなければ,資源はそれを最も評価しているものの手に渡る」というものだ.すると誰が特定の資源についての権利を持つかという法的な争いは,どのような判決があっても結局同じ形で解決される(どちらかに権利ありとされても,その後の取引で高い評価を持っている人の手に渡る)ことになる.セイラーとサンスティーンはたとえ取引コストが0であっても保有効果があればコースの定理は成り立たないことを実験によって示す(また不公正取引への拒否によってもコースの定理は成り立たなくなる).これはこれまでの法と経済学に対する大逆罪であり,不都合な真実だった.セイラーは明白な事実に直面してもまだ既往の理論に固執する人達について,サンクコスト誤謬の明瞭な事例ではないかと皮肉っている.
もう一つの論点は,政策への行動主義の導入はパターナリズムにつながるのではないかというものだ.セイラーとサンスティーンは限定合理性と限定自制心という問題がある以上,ある人にとってどう行動すれば最善になるかについて手助けすることは可能だと主張するが,これはまさにシカゴ学派リバタリアン主義に真っ向から反するものですぐには受け入れられるはずもなかった.とはいえ,現在では行動主義的な法と経済学の研究は盛んに行われるようになっている.

シカゴ大学ブースビジネススクールの新棟への移動に伴う研究室スペース割り当て騒動の逸話(シカゴ学派の巣窟であってもこれは効率的に解決できない問題だったという皮肉も効いているし,なによりそのドタバタ振りが傑作)を紹介した後,当時のNFLチームのドラフトの意思決定に絡むリサーチが説明されている.このリサーチは,「かかる金額が大きくなるとヒトは合理的になるのではないか」という批判にかかるものだ.ドラフト順位のトレード価格とその後の選手の価値を調べ,セイラーは,ドラフト1巡の高順位は明らかに割高にトレードされていること,またある年の順位と翌年の順位のトレードでは時間割引率が高すぎることを発見する.背景にはオーナーやGMの自信過剰,そして特にオーナーの「今すぐ勝ちたい」という現在バイアスが強いことがある.セイラーはワシントン・レッドスキンズにアドバイスする機会を得るが,結局スナイダーオーナーの土壇場の心変わりで助言とは真逆の行動に出てしまう*7.セイラーはこれも「能なしプリンシパル問題」の1つだとコメントしている.当時既にこのようなトレード条件の非合理性はスポーツコラムなどでかなりよく指摘されているところだった*8が,今でも毎年のドラフトではやはり同じようなことが繰り返されている.なかなか「今すぐ勝ちたい」オーナーの業は深いようだ.
またセイラーはNFLフォースダウンギャンブルが少なすぎる問題も採り上げている.コーチの決断の成功報酬と失敗時の解雇リスクの非対称性からの説明はよく聞くところだが,セイラーは,コーチにとってはチームメンバーのマネジメントこそが重要で,戦術の選択はそれほどでもないのかもしれないと指摘している.なかなか深いところだ.

やはり「かかる金額が大きくなるとヒトは合理的になるのではないか」という批判にかかる面白いリサーチはテレビのゲーム番組の参加者の行動リサーチだ.「ディールオアノーディール」というゲーム番組では何百万ドルもかかった判断であっても参加者ははっきりメンタル・アカウンティングの影響下にある行動を見せる.また囚人ジレンマゲームをチープトーク込みで実現させた「ゴールデンボールズ」では賭け金が一旦1000ドルを超えるとそれ以降10万ドルにあがっても協調率はあまり変わらないのだ*9

第8部 意思決定をナッジする

行動経済学はそれまでアノマリーの発見記録,理論の構築を目指していた.そしてセイラーは,3つ目の目標にも取り組む,それは「行動経済学を使って世の中をよくすることはできないか」という問題だ.
出発点は人々に適切な老後のための貯蓄を可能にするような制度設計という問題だった.エコンの世界ではヒトは最善な貯蓄をするはずだが,実際にはそうならない.貯蓄を増やすために伝統的な経済学で取りうる政策は貯蓄にかかる税制の変更だけだ.しかし標準理論では年金貯蓄に対して減税しても(貯蓄総額は増えるにしても)実際の投下元本が増えるのか減るのかすらはっきりしないのだ(当時実証データはなかった.理論だけでは有利な貯蓄として元本を増やすのか,老後のために貯蓄額は変わらないので元本を減らすのかわからない).
減税の還付金の支払時期(申告時期に手元現金があると貯蓄額を増やしやすい),源泉徴収率の変動(還付金と追加納税は異なるメンタル・アカウンティングで処理される)という手法の他に,大きな影響を与えるのはデフォルトの設定,そして(昇給の際の)自動増額プログラムだった.これを論文にした結果,またしてもパターナリズム批判が生じた.しかし貯蓄の収益率を事前に見積もるのは難しいし,老後になってみて貯蓄が過剰ならいかようにでも調整できるが,過小であればどうしようもない.そして政策への姿勢として,あくまで個人の意思決定権限は奪わずに,しかしエラーを減らし自分の目標を達成する方向に意思決定するように後押しするというリバタリアンパターナリズムへの方向性が固まる.これは効果的な選択アーキテクチャーの設計がキーになる.
セイラーはサンスティーンと一緒に論文を書き,「ナッジ:Nudge(邦題:実践行動経済学)」を執筆する.それが出版され,セイラーは英国のキャメロン政権のアドバイザーとなって(サンスティーンはオバマ政権のアドバイザーとなって)まさにナッジを実践することになる.このあたりの経験談もなかなか面白い.

最後にセイラーは今後の経済学に期待することをまとめている.ここは含蓄があって深い.

  • 行動学的アプローチが最も深い影響を与えている経済学の分野はファイナンスだ.それは厳密な理論が定式化されていたこと,素晴らしいデータデットがあったことが大きい.現在,CAPMでは株価の動きを適切に記述できないこと,リスクをβ値のみと説明することも適切ではなさそうなことが理解されている.この領域は「科学的根拠に基づく経済学」に向けて収束しつつある.リサーチャーは特に「裁定の限界」に注意を払うべきだ.
  • 行動学的アプローチを取り入れて欲しい(つまりこれまであまり行動学的アプローチが影響を与えていない)分野としてはマクロ経済学が挙げられる.ケインズはそのような学問を構築しようとしたが,その伝統は一旦途切れてしまっている.これはマクロ経済学の予測は容易に反証できず,データも少ないことが影響している.ランダム政策比較実験は政治的に実践が困難だ.これがリーマンショックのようなときにどう行動すべきかについてマクロ経済学者の間に合意がないという状況につながっている.特に取り組むべきマクロ経済政策のテーマとしては減税の効果,特定事業活動の促進策*10がある.
  • ファイナンスと並んで行動経済学が大きなインパクトを与えている分野は開発経済学だ.途上国でランダム政策比較実験が可能だったことが大きい.これから必要になるのは科学的根拠に基づいた経済学だ.(プロスペクト理論はそのようにデータから生まれたが,期待効用理論はそうではなかった)新しい理論を生みだすには新しい事実が必要になる.開発経済学に続いてそのような実験が行われつつあるのは教育の分野だ.
  • これまで行動経済学の創設にかかわってきて様々な基本原則を学んだ.そのうち3つを挙げると,「観察する」「データを集める」「主張する」になる.経済学の未来は明るいと信じている.現在では特に行動経済学を名打たずになされる行動主義を取り入れた経済学のリサーチが増えている.すべての経済学者が合理的モデルではSIFとされるものでも重要な変数をリサーチに組み込むようになれば,行動経済学という分野は消滅するだろう.

本書は,伝統的主流経済学者という明白な敵役を設定した上での分野の創始者の自伝的ストーリーに沿って,行動経済学の概要が解説されている.そして興味深い行動経済学の知見がそこかしこに盛り込まれいていて,読者を最後まで飽きさせない.そして楽しみながら読み終われば行動経済学のエッセンスがよくわかるという作りになっている.カーネマンの「ファストアンドスロー」とあわせて読めば,行動経済学の全体像を理解する上で非常に役立つだろう.またキャリアを振り返ってのまとめのところも深くて読み応えがある.効率的市場仮説についての現在の見解は興味深いものだし,マクロ経済学に応用が進んでいかないことの説明部分はまさに私の行動経済学への不満とも重なるものだ.行動経済学に興味がある人には広く推薦できる.


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*1:学生たちは100点満点のテストの平均点が72点だと低すぎると文句を言うのに137点満点で平均100点だと満足したそうだ.

*2:カーネマンやトヴェルスキーがすでに名声が確立した心理学者であるのに対して,セイラーはこれから学者としての信用を得なければならない若手経済学者だった

*3:ここでは特にウーバーのサージ料金制についていろいろ議論していておもしろい.

*4:なおここでは最後通牒ゲームで50%の提案をするプレーヤーが必ずしも正義感からのみ行動しているとは限らないことについてもコメントしていて深みがある.

*5:ここではなぜこの実験にマグカップを使うようになったかの裏話もあっておもしろい.

*6:ナッシュ均衡は0になるが,この参加者集団がどのぐらいまで深く読むと予想するかが真の問題になる.実際にいろいろな集団でやってみた結果が示されていて興味深い.ある程度知的レベルの高い集団でやると大体平均で4段階から5段階読むあたりになることが多いようだ.回答者のアンケートも紹介されていてなかなか面白い.

*7:これは2012年のドラフトでレッドスキンズが莫大な代償を払ってトレードアップしてRG3を指名したときの逸話だ.

*8:2014年にはこのテーマで「ドラフト・デイ」という映画にもなっている.

*9:ここでは秀逸なチープトーク戦術も紹介されていて面白い.ある参加者は「自分は絶対裏切るが,外側で絶対に半分返すから協力してくれ」と持ちかける.散々迷った相手が最後に意を決して協調を選ぶと,その参加者も協調を選んでいたそうだ.(この番組のゲーム利得は「自分が協調,相手が裏切り」でも,「双方裏切り」でも利得は0で変わらない.これがこの参加者の説得戦術のキモになる)

*10:新規事業への促進政策については決まって成功報酬への限界税率の緩和が議論される.しかし実際にはリスクを取って失敗したときのダウンサイドリスクへの対応の方が重要である可能性が高い.