「哺乳類の生物地理学」

哺乳類の生物地理学 (Natural History Series)

哺乳類の生物地理学 (Natural History Series)


本書は増田隆一による主として日本の哺乳類についての生物地理学及び分子系統進化学的リサーチを紹介する専門書である.東京大学出版会のNatural History Seriesの一冊.

生物地理学はウォレス以来の伝統を持つ学問分野だが,近時分子的な分析手法が発達し,系統,集団の遺伝的組成,歴史的な集団動態,ヒトによる攪乱の歴史なども考察できるようになって,学際的な分野としての性格が強くなっている.そのあたりを著者自身が手がけてきた日本の哺乳類のリサーチを題材にとって解説するという趣向になっている.

第1章 生物地理学とは何か

冒頭第1章は生物地理学の概要説明.ダーウィンとウォレスから始めるかと思いきや,日本で初めて体系的に取り上げた学者として徳田御稔*1,そして六大生物地理区分を提唱したスレーターから始めている.当初は生物分布を説明する学問であった生物地理学は,DNAを利用した分子生物学的手法を得て,その歴史(種分化,分散,分断,絶滅)も取り扱うようになる.ここでは日本におけるパイオニアとして木原均が紹介されている.また著者自身の経験としてサンガー法を用いた同位体ラベルと電気泳動の時代から次世代シーケンサの時代までの技術進展も回顧されている.またこのような分子的な手法により,動物分布に与えた人間活動の影響の考察,保全における実践的応用も可能になっていることが解説されている.

第2章 進化の生物地理学

第2章も引き続き導入章.ここでは哺乳類の進化とプレートテクトニクス,適応と収斂,具体例としてのネコ科の進化系統樹,クジラの進化史がまず語られている.よく見かける解説を改めて整理しているという印象だが,このあとで食肉目の哺乳類が登場する前振りとしてネコ科の進化系統樹が詳しく解説されているのが特徴的だ.ヤマネコと称される小型ネコ類を分子的に分析すると,いわゆるイエネコ系(イエネコ,リビアヤマネコ,ヨーロッパヤマネコ)と東南アジアヤマネコ系(マレーヤマネコ,ベンガルヤマネコなど,ツシマヤマネコイリオモテヤマネコもこちらに属する)は異なる単系統群になり,大型ネコ5種(ライオン,トラ,ヒョウ,ユキヒョウジャガー)はきれいな単系統になる*2が,ピューマチータはむしろイエネコに近縁な別の単系統になることなどが示されている.
次に生物地理区分としての日本列島の位置づけについて解説がある.トカラ諸島の悪石島と子宝島の間にある渡瀬線で旧北区と東洋区に分かれ,旧北区の中では津軽海峡にあるブラキストン線が最も重要な区分線になる.
続いて日本には比較的哺乳類の固有種が多いこと,その理由(地理的隔離,更新世における陸橋の形成と水没などがあげられている)が解説され,最後に分子的に調べるとそれまで確固たる種として扱われてきた分類群が実は側系統であることがわかる場合があることについてヒグマとホッキョクグマの例を挙げて解説がある.

第3章 境界線の生物地理学

第3章は日本列島のヒグマの物語.ヒグマの分布とブラキストン線,そして提唱者たるトーマス・ブラキストン,アイヌ文化におけるヒグマの役割が前振りとして紹介される.
ここから著者は北海道のヒグマの地理的変異の形態的分析(南部から東北部に向けて大型化の傾向がある.これはベルグマンの法則と整合的),分子的に分析した場合の3重構造(道北,道東,道南に遺伝的な分化がみられる*3ことを解説し,さらに世界中のヒグマの分子的なデータと会わせ,全世界的なヒグマの動物地理について以下のように再構成してみせる.
アジアのヒグマ*4更新世において中央アジアにある(おそらく別々の)レフュージアから3回にわたり拡散した.

  • 第1波は現在北米のロッキー山脈と北海道の道南に遺存集団として残っている.
  • 第2波はアルタイ,コーカサス,東アラスカと北海道の道東に遺存集団として残っている.
  • 第3波は(アルタイ,コーカサスをのぞく)北アジア東アジア全域,西アラスカ,そして北海道の道北に分布している.

続いて著者はオホーツク文化の遺跡から出土したクマ骨の古代DNA分析結果についてもふれている.狩猟時の(成獸)クマ送りと子グマの移送飼育,異なる文化圏でのクマの交易などの様子が考察されている.


分子系統地理学においては更新世における氷期間氷期の交代とレフュージアからの拡散の話がよく語られる.ここでのヒグマの物語はなかなかドラマティックで,全世界スケールの歴史のミニチュアが北海道に現れているという点でも興味深いものだ.

第4章 固有種の生物地理学

第4章はイタチの物語.日本には9種のイタチが分布し(ニホンイタチ,シベリアイタチ,イイズナ,オコジョ,ニホンテン,クロテン,ニホンアナグマニホンカワウソ,ラッコ),うち3種(ニホンイタチ,ニホンテン,ニホンアナグマ)が日本固有種*5になる.ここでは固有種と遺存種について簡単に解説のあと,イタチの系統樹も併せて解説されている.
続いてニホンイタチの地理的変異の分子的な解析.ニホンイタチは九州四国集団,本州集団,北海道集団の3つに分化しており,遺伝的構造から前二者は,それぞれ九州と西本州にレフュージアがあってそこから最終氷期以降に広葉樹林の拡大とともに拡散したが,瀬戸内海がすでにできていたので分化したままになっていること,本州では拡散スピードが速く遺伝的に均質になっていること,北海道集団はサハリン経由で入ってきていることが推測できるとしている.またシベリアイタチとの分岐年代は古く240〜170万年前で,かつシベリアイタチも分子的にきわめて均質であることから,ニホンイタチは日本でのみ残った遺存種で,シベリアイタチは別のレフュージアから最終氷期以降に急速に拡散したものだとしている.なかなかおもしろいところだ.
次はアナグマ,ニホンアナグマはヨーロッパアナグマ,アジアアナグマから大きく分化している.各集団は長期間隔離されたあと,これも最終氷期後に分布を広げたものと推測できるとしている.なお日本内では四国集団とそれ以外の集団に分化があるとしている.
ニホンテンはこれに対して日本本土内に特に明瞭な遺伝的地理的分化がみられない.ツシマテンはホンドテンに対して分化がみられ亜種とされている.さらに調べると対馬内の上島と下島の間でも遺伝的分化がみられる.
オコジョは日本のものと大陸のものの間の遺伝的な分化がきわめて小さい.しかしイイズナは大陸内でも日本内でも遺伝的分化が大きい(日本内では東北集団で染色体転座があり染色体数まで異なっている).

これらの各種における詳細の違いはなかなか興味深いところだ.理由や経緯の解明は基本的に今後のリサーチ待ちということらしい.

第5章 ミクロの生物地理学

第5章は糞のDNA分析について.糞には腸内細菌,未消化物などに加えて消化器官の粘膜上皮細胞も含まれているために,うまく分析してやるといろいろな情報が得られ,しかも非侵襲的な方法であるために最近特に注目されいるのだそうだ.ここではサンプルの処理,狙い目のプライマー,種判定,性別判定,個体識別などについての技術的な詳しい解説が掲載されている.具体的な事例としては北海道のキツネ集団の分析事例が載せられている.また毛を使った分析のためのクマ用の有刺鉄線トラップ法の紹介もあってちょっと楽しい.

第6章 都市動物の生物地理学

最近増加している都市に棲む食肉目動物として札幌のキツネ,皇居のタヌキの分析事例が紹介されている.
ホンドキツネとキタキツネの違い(それまで調査がなかったので調べてみるとホンドキツネの方が身体が大きいことがわかった.これはベルグマン則の例外で意外だとコメントされている)について簡単に触れたあと,札幌のキツネ集団の遺伝的解析結果(交通事故などによる死体を用いたもの)が紹介されている.それによると豊平川,JR線により3集団に分化がみられるそうだ.
皇居のタヌキは皇居内の採餌環境がよいために密度が郊外と同じ程度まで高い.遺伝的には皇居内と赤坂御所で分化がみられる(糞から分析).これは濠の影響だと考えられるそうだ.*6

第7章 外来種の生物地理学

第7章はハクビシンの物語.そもそもハクビシンは在来種なのか,外来種なのか,外来種とすればいつどこから移入されたのかについては定説がなく,長く争われていた.後期更新世において全く化石が発掘されないこと,縄文時代以降の遺跡からも骨が出土しないこと,分布が不自然で飛び飛びであること,近年分布域が急拡大していることから外来種説が有力だが,江戸時代から雷獣として絵に描かれているという事実もある.
著者はもともとこのテーマについて強い興味があるわけではなかった.しかしあるとき東南アジアのハクビシンは顔の模様に多様性があるが,台湾のものは皆顔の真ん中に縦の強い白線があって日本のものによく似ていることに気づく.そこでミトコンドリアDNAを分析してみると,日本では5タイプ,台湾では6タイプのものが見つかり,このうち2つは共有,その他のものも皆非常に近縁だったが,東南アジアの4タイプはやや離れていることがわかった.ここからさらに詳しく調べた結果,日本のハクビシンは遺伝的多様性が低く,基本的に台湾からの移入種であり,異なる地域タイプのものが日本の異なる地域に独立に何度か移入されていることが強く推測されるとしている*7

第8章 生物地理学の課題

第8章ではまず著者の研究歴が振り返られている.北大における核型進化研究時代,ポスドクとしてのアメリカ国立癌研究所時代,そこでオブライエンに出合い,哺乳類の分子進化や集団遺伝の研究に進むきっかけになったこと,当時の手紙による論文の別刷り請求方式とそれにより研究者のつながりができていったことなどが語られている.そしてそのようなことを踏まえ,これからの生物地理学の方向性をこう整理して本書を終えている.

  • 日本列島にはまだまだ生物地理学のテーマが多く残されている.
  • 古代DNAを用いることにより動物集団の比較的短的な地域的動態が解明可能であり,ヒトの移動や文化変遷とあわせた学際的研究にも発展しうる.
  • 次世代シーケンサなどの技術進展により,より細かく,深く分析が可能になる.

本書は専門書でありながら,著者による思い出話やエピソード紹介などの様々な工夫により大変読みやすい本になっている.扱われている事例もみな民話や動物園でおなじみの身近な哺乳類であり,楽しい.そして実際に分子的に調べると何がわかるのかがだんだん浮き彫りになってくる.一方でなぜ近縁の動物で異なるのかなどのオープンクエスチョンもさりげなく提示されていて興味は尽きない.動物地理や日本の哺乳類に興味のある人には得がたい一冊になるだろう.


関連書籍


日本の動物地理についてのアンソロジー,増田は編者であり,かつヒグマの章(及び「動物地理は楽しいぞ」というこれからの動物地理学の章)も執筆している.日本のヒグマについてのストーリーは本書と同じだがまだ道南地域タイプの起源は謎だった時期に書かれている.またこの本ではヨーロッパ地域についても記述がある.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20060215

動物地理の自然史―分布と多様性の進化学

動物地理の自然史―分布と多様性の進化学

  • 作者: 浅川満彦,阿部永,石黒直隆,太田英利,大館智氏,押田龍夫,鈴木仁,高橋理,永田純子,前田喜四雄,増田隆一,松井正文,松村澄子,馬合木提哈力克,渡部琢磨
  • 出版社/メーカー: 北海道大学出版会
  • 発売日: 2005/05/25
  • メディア: 単行本
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*1:最近では,徳田の名はルイセンコ説を信奉し,イデオロギー的に日本の進化学,生態学を歪めた学派の総本山として取り上げられることが多いので,肯定的な業績紹介としてやや貴重なものかもしれない.日本では生物地理学についてのまとまった本は徳田の「日本生物地理学(1941)」以降,著者自身が執筆陣に加わった「動物地理の自然史(2005)」までなかったそうだ.

*2: この中で分布域が広いのはトラとヒョウになるが,微妙に分布域が異なっており,おそらく別々の起源地から広がったのだろうとされている.なおユキヒョウの近縁種がヒョウではなくてトラであることついてにはふれられていない.

*3:なおこれはミトコンドリア遺伝子の分析結果であり,メスの方が移動範囲,移動傾向が小さいので明確に検出されているという解説がある

*4:ヒグマは60万年前に東系統と西系統に大きく分かれる.ここでのアジアのヒグマは東系統(ただしチベットのヒグマは34万年前に分岐した古い別系統になる)になる.西系統はヨーロッパ,アラスカABC島,ホッキョクグマからなる

*5:ニホンカワウソについては固有種という説とユーラシアカワウソの亜種という説があり,著者は後者を採っているのだと思われる.

*6:天皇陛下の研究も紹介されるかと期待して読んだが,特に参照されていなかった.ちょっと残念だ.

*7:具体的な移入経緯は不明というほかないが,静岡,高知,千葉などで飛び飛びにハクビシンが多く見られること,新聞記事などから,遠洋漁業の船員が愛玩動物として台湾で購入し持ち帰った可能性が示唆されている