協力する種 その32

協力する種:制度と心の共進化 (叢書《制度を考える》)

協力する種:制度と心の共進化 (叢書《制度を考える》)


著者たちは内集団ひいき,外集団への敵対心(偏狭さ)が利他主義と共進化しうることについて,集団間の戦争が大きなグループ間淘汰圧になるようなモデルを構築して検討した.ここから実証的証拠が検討される

第8章 偏狭さ,利他性,戦争 その2

8.3 シミュレーションおよび実験における偏狭な利他主義


まず本章冒頭で登場したパプアニューギニアにおける第三者罰実験が採り上げられる.

  • まず,寛容な利他主義者は,内集団,外集団の成員に資源提供し,逸脱者への罰コストも引き受けるだろう.偏狭な利他主義者は内集団成員に対してより多く資源提供し,内集団成員の逸脱者に対してより罰コストを負担するだろう.
  • 実験結果(内集団成員に対してより多く資源提供し,外集団逸脱者に対してより厳しく罰を与えた)は偏狭な利他主義の存在を示しており,これは,(血縁淘汰が効くほど内集団の血縁度は大きくなく,1回限りの実験であるので)血縁淘汰や直接互恵性による説明よりもマルチレベル淘汰による我々のモデルで説明するのが妥当である.
  • では間接互恵性による説明は妥当か.ここで別のパプアニューギニアで行われた匿名かつ1回限りの2者間信頼ゲームの実験がある.偏狭な利他主義者は,内集団成員に対しては相手の返報予想に左右されずに寄託し,外集団成員に対しては相手の返報予想に応じて寄託額を変えるだろう.評判を気にする利己主義者は,内集団成員に対しては(自分がカモにならないという評判を守るため)相手の返報予想に応じて寄託額を変え,外集団成員に対しての寄託額は返報予想に左右されないだろう.
  • 実験結果は被験者は評判を気にする利己主義者というよりも偏狭な利他主義者として振る舞った.だからマルチレベル淘汰による説明が最も妥当である.


要するに,公共財ゲームや信頼ゲームではヒトはユニバーサルにまず最初には寛大に振る舞うし,その際に内集団ひいきも観察されるというだけだろう.相変わらず,他の代替説明を棄却する際の彼等の議論はスロッピーだ.マルチレベル淘汰と血縁淘汰の数理的に等価であり,1回限りと教示されたからといってそれを鵜呑みにした行動を取るとは限らない.また間接互恵性の棄却をする際の彼等の議論は意味不明だ.そもそも評判というときに問題となるのは「カモにされない」ことだけではなく,「寛大だ」という評判も大切にするはずだ.また外部集団成員とも相互作用の可能性があるなら返報予想に応じた寄託を行っても不思議はない.また内集団成員と外集団成員では返報性予測の大きさに差があると考えればかなりの部分が説明可能だろう.そしてなぜ偏狭な利他主義者は外部集団成員に対して返報性に応じた寄託を行うと予想するのだろう?


次に別の証拠が吟味される.

  • 脳内オキシトシンは偏狭さと利他性の共通の近接因であることが示されている.これはこの性質が共進化したことを示唆している.
  • 戦争や集団間葛藤によって向社会的行動が強まることがいくつかの実験によって示されている.(イスラエル軍レバノン侵攻時のその直前,侵攻中,侵攻後イスラエル市民の信頼ゲームのリサーチ,ブルンジの大量虐殺時におけるリサーチなどが紹介されている)
  • 内集団成員のただ乗りに対する利他罰が集団間葛藤に引き出されることを示したリサーチがある.(2グループで罰つき公共財ゲームを行う.グループ間で貢献量の多いグループが2倍の利益を得られるようにすると罰が増えるというもの)


近接因が共通していることは特に共進化を強く示唆するわけではないと思う.同時期に進化していればそうなっていても不思議はないだろう.また紛争時に向社会行動が広く見られるのは確かだろう.しかしこれは戦争時に勇敢に命を差し出す利他主義とは異なるものではないだろうか.これも相利的な協力として個体淘汰的に説明できるように思われる.最後の実験は利得的に見てより貢献が重要になるので,罰を行使した方が自分の利得が増えると考えたと解釈できるのではないだろうか.いずれも無理筋の証拠という感想だ.

8.4 「真っ赤に染まる牙と爪」の遺産


著者たちは本章の議論をこう結んでいる.

  • ここまでのアプローチでヒトの偏狭な利他性が戦争による淘汰圧によって生じていることを見てきた.我々は当初この不快で驚くべき結論にたじろいだが,シミュレーションと先史時代のデータから紡ぎ出された物語は説得的だ.
  • だが本当にそうだったのだろうか.過酷な自然環境の中,協力的な集団ほど有利だったのなら,それは戦争でなくともいい.
  • しかし我々はこれには否定的だ.致死的な衝突が生じていたことを示す証拠が存在しているし,より協力的な集団ほど戦争に勝ちやすいという前提は妥当だ.
  • ただし,それは逃れられない運命だと考える必要はない.寛容な利他主義は実際にしばしば観察されているのだ.


結局(ボウルズとギンタスは協力と言い換えているが)利他主義が強いほど戦争に勝ちやすいという前提が本書の評価においてキーになるだろう.そして何度も繰り返すが,私はそれには納得できない.また彼等は戦争における100人単位のグループのために勇敢に戦うことがすべての「社会的選好」を引き起こすと考えている.これは広すぎで,進化で実装可能な心理メカニズムはどのようなものかについて彼等の無理解を示しているだろう.そして実際のヒトは100人単位のグループのために命を差し出すような性質を広く持っているわけではなく,このシナリオで生じるはずの利他性に関する性差も観察されない.要するに彼等の議論は机上の空論を出ていないだろう.これはピンカーがエッジの寄稿で述べている通り「球形の乳牛」なのだ.(このピンカーの寄稿についてはhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20120801参照)