Enlightenment Now その4

第1章 恐れずに理解せよ その2

ピンカーによる「啓蒙運動とは何か」.それは人間についての理解への探索であり.理性(合理主義),科学,ヒューマニズム,進歩の4つのテーマが絡んでいる.合理主義は正しい知識を求めて科学の方法に至り,科学は人間の理解を深め,それは3つ目のテーマのヒューマニズムに結びつく.

ヒューマニズム
  • 理性の時代と「啓蒙運動」の思想家たちはモラルの基礎を探し求めた.それは彼等が十字軍,異端審問,魔女狩り宗教戦争などの何百年にもわたる宗教的大虐殺を目のあたりにしてきたからだ.
  • そして彼等はその基礎をヒューマニズムに求めた.それは個人のウェルビーイングは部族や人種や国家や宗教の栄光より重いという考え方だ.意識を持ち,幸せや痛みを感じるのはグループではなく個人なのだ.それが「最大多数の最大幸福」としてフレームされるか,あるいは「他者を手段として用いるなという定言命法」としてフレームされるか,どちらであってもそのモラルへの関心の基礎は個人にある痛みと幸福への感受性にあるのだ.

この後段ももちろんベンサム功利主義とカントの義務論を指している.彼等の考え方は大きく異なるが,それでもその基礎には同じ個人の持つ感受性の重視があるということだ.

  • そして幸運なことにヒトの本性はこの呼びかけに答えることができた.それは我々に同情,あるいは慈悲の心情が備わっているからだ.一旦他者に同情できるようになれば,それは家族や部族を越えて人類全体に広がりうる.我々はコスモポリタニズムへ向かうほかないのだ.
  • ヒューマニズムは啓蒙運動思想家に宗教だけを非難させたのではない.それはその時代の世俗的残酷さ,すなわち奴隷制度,暴政,軽窃盗など取るに足らない犯罪への死刑,鞭打ち,串刺し,車裂き,火あぶりなどの残虐刑などへの非難にも向かった.そして何千年も続いていた野蛮な習慣の廃止を実現させた.だから「啓蒙運動」は時に人道主義革命とも呼ばれるのだ.
進歩

そしてピンカーの説明は「進歩」に向かう.ここはこれを否定する左派,右派の論客が多いからか力が入っている.

  • 奴隷制の廃止や残虐刑の廃止が「進歩」と呼べないなら,そもそも進歩などというものはこの世にないだろう.科学による世界の理解と同情の輪の拡大により,人類は知的にそして道徳的に進歩したのだ.現代に残存する悲劇や非合理性をあきらめる必要も「失われた黄金時代」に戻ろうとする必要もないのだ.
  • 「啓蒙運動」の進歩への信念はしばしば19世紀のロマン派の信念と混同される.ロマン派の信念とは,なにか神秘的な力,法則,闘争,運命,進化的な力などが,人類を永遠に上向きに押し上げ続けるというものだ.「啓蒙運動」の信念は「知識を進歩のために使おう」というより醒めたものだ.
  • もう1つよくある混同は,20世紀の社会改革運動との混同だ.20世紀のそれはテクノクラートとプランナーによる権威主義モダニズムだ.それはヒトの本性を否定し,美,自然,伝統,社会的親密性を感傷的に求める.それは同じ「進歩」という言葉を用いているが,ヒトの本性を(自分たちの望む)型にはめようとするものに過ぎない.
  • 「啓蒙運動」は進歩を人類の制度の中に実現させようとした.ターゲットは政府,法律,学校,市場,そして国際機関だ.
  • このような考えの中では「政府」は決して「神権による統治の認可」「国家的,宗教的あるいは民族的的魂」などではない.それは人が人の幸せのために自分たちの行動を調整し,利己的行動を抑制しようとする合意なのだ.そのもっとも有名な成果こそ(アメリカ)独立宣言だ.


本の学校歴史教育的伝統だとここはルソーやモンテスキューから直につながり,よりすっきりと書かれているフランス人権宣言が言及されそうなところだが,アメリカの独立宣言を持ってくるのがいかにも英米経験主義の伝統にある学者らしいところだ.もっとも独立宣言の方が先に出されているし,その後の革命と独立の成り行きをみるとこの扱いもある意味当然なのかもしれない.

  • 政府の権限の中に刑罰賦課がある.思想家たちは「政府によるその市民を害することができるライセンス」について一から考察し直した.彼等は,それは「宇宙的正義の実現」ではなく「犯罪抑制のためのインセンティブシステム」だと考えたのだ.だから「それに値する」ように見える残虐刑であっても,より穏やかで確実な刑罰に比べて抑止力が高くないならそれに正統性はないとした.
  • 「啓蒙運動」はまたはじめて繁栄について合理的に考察した.考察の出発点は「いかに分配するか」ではなく「そもそも富はどこから来るのか」だった.アダム・スミスは,それは交換市場の存在によりもたらされる分業による生産性の向上から来るのだと見抜いた.経済活動はノンゼロサムゲームにおける相利的行動になる.自己利益を最大化させようとする自発的交換が全体の利益に結びつくのだ.
  • 交換市場は社会を富ませるだけでなく,より良い場所にする.なぜなら効率的市場があれば,何かを盗むより購入する方が安くて速いからだ.モンテスキューヴォルテールたち思想家たちは協調的商業(gentle commerce,フランス語でdoux commerce*1 )という理想を推奨した.アメリカ建国の父祖たちはできあがったばかりの国をこの理想をはぐくむようにデザインしたのだ.
  • これはもう1つ別の啓蒙運動の理想「平和」につながる.当時戦争はあまりにありふれていたので,人類は常にこれとともにあり,最後の審判の救済まで平和は来ないと考えられていた.しかし啓蒙運動思想によって,戦争は「神による罰」でも「勝ち抜かなければならない栄光のための競争」でもなく,いつか解決すべき実務的な問題となった.カントは「永遠平和のために」でそのことを深く考察している.カントは自由交易以外に民主的政府,相互の情報公開,征服と干渉を否定する規律,移動と移民の自由,国際的連合を推奨している.


ここまでがピンカーによる18世紀の「啓蒙運動」についての解説ということになる.現代の私たちの人道的で快適な生活の多くはこの思想の恩恵によっていることがよくわかる.日本は戦国時代の残虐の後,織豊政権の天下統一による一国平和の実現,そして徳川幕府による宗教の骨抜き,さらに17世紀後半に武断政治から文治政治への転換が図られたが,なおあくまで儒教的な上からの施しという政治姿勢に止まり,真の啓蒙運動の恩恵は明治維新以降にもたらされたということになるのだろう.


ピンカーは本章の最後をこう締めている.

  • 本書は啓蒙運動歴史記述のための本ではない.「啓蒙運動」思想家は結局18世紀の人々だ.彼等の一部は人種差別的だったり,性差別的だったり,反ユダヤ的だったり,奴隷制支持だったりした.彼等が心配した問題の一部は今では良く理解できないものになっているし,その思想の一部は馬鹿げたものだ.そして彼等は現実を理解するための鍵を知るためには少し早く生まれすぎている.
  • しかし彼等は次のことは喜んで認めるだろう.「もし理性を賞賛するなら,問題なのは思想家のパーソナリティではなく,その思考自体の誠実性だ.そして進歩にコミットしていても,それが当時すべて解明されていたとは主張できない」
  • 18世紀の啓蒙運動思想家たちは,現代の私たちが手に入れているヒトの本性そして進歩の本質を理解するためのいくつかのクリティカルなアイデアを知らなかった.それはエントロピー,進化,情報だ.


そして次章では21世紀版の啓蒙運動についての解説がなされることになる.

*1:マキアベリ重商主義商業と対立する概念ということらしい