Enlightenment Now その59

Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress (English Edition)

Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress (English Edition)

 

第3部 理性,科学そしてヒューマニズム

 
ピンカーは第1部で啓蒙運動の中身とその現代的意義を語り,第2部では具体的な進歩の様相をデータを駆使しながら示してきた.最終第3部は啓蒙運動の擁護そのものに当てられている.

  • アイデアは重要だ.それを最もよく示すのはマルクスだ,彼が大英博物館で書き付けたアイデアは20世紀の世界の様相と何十億人もの運命を大きく変えた.
  • ここから私は啓蒙運動の擁護を行う.そして敵はポピュリストや宗教家だけではない.驚くべきことに主流のインテリ文化の一部も大いなる敵なのだ.
  • インテリの教授や批評家や預言者やその読者たちに対して啓蒙運動を擁護するというのは(彼等は真正面から啓蒙運動を否定したりしないだろうから)ある意味ドンキホーテ的に思えるかもしれない.しかし一部のインテリたちの啓蒙運動へのコミットメントはいかにもおちゃらけたもの(squirrely*1)で,まともに啓蒙運動を擁護するわけでもなく,その考えにはしばしば権威主義や部族主義や進歩主義が入り込む.
  • ここでは大衆説得や煽動のダークな技をもてあそぶことはしない.議論を重要だと考えている人々に向けた真剣な議論を行いたい.議論は重要だ.なぜなら実践的な人々はアイデアに影響されるからだ.彼等は大学に行き,知的な雑誌を読み,クオリティペーパーを読み,TEDトークを観る.そして啓蒙された人々やダークに落ちた人々が集まるインターネットのフォーラムにも顔を出すのだ.私は,理性,科学,ヒューマニズムという啓蒙運動の理想が彼等に流れ込むことで良いことが起こっていくだろうと考えたい.

 
ここからが本書を執筆してピンカーが世間に訴えたい本題ということになる.理性.科学,ヒューマニズムの順序で擁護が行われる.

第21章 理性 その1

 

  • 理性(reason)に反対することは,定義的にも非合理(unreasonable)だ.しかしそれは反啓蒙主義者をたじろがせたりしない.彼等はハートより脳,前頭葉より辺縁系,スポックよりマッコイを好み,そしてこう言うのだ「私はここに考えるために来たのではない,感じ,そして生きるために来たのだ」.理由なしに何をか信じることには尊敬が集まり,「理性は力を持つものの口実だ」とか「現実は社会的構築物だ」とかいうポストモダニズムが人気を集める.認知心理学者ですらしばしばヒトが合理的なエージェントであることを否定する.
  • しかしこれらの立場にはみな致命的な傷がある.彼等は自分自身も否定してしまわざるをえないのだ.哲学者トーマス・ネーゲルは「論理とリアリティについての主観主義と相対主義は支離滅裂でしかあり得ない.なぜなら何もないことから何かを批判できるはずがないからだ」と指摘している.(ネーゲルの「The Last Word(邦題:理性の権利)」からの引用がなされている.)

The Last Word (English Edition)

The Last Word (English Edition)

理性の権利 (現代哲学への招待 Great Works)

理性の権利 (現代哲学への招待 Great Works)

 

  • ネーゲルはこういう考え方をデカルト的と呼んでいる(「我思う故に我あり」と似た論理だという意味だろう).「何かを主張するために理性に訴える(appeal to reason)ものは,理性の存在を示している」.あるいは超越的な議論といってもいい.「議論を行うということは,それをするための前提条件(理性の存在)を認めていることになる」 理性の存在をことさらに信じる必要はない,我々はそれを使うのだ.(ピンカーはプログラムを書くためにCPUの存在を信じる必要がないのと同じだとコメントしている)
  • 理性がすべてに先立ち,その存在を擁護する必要がないとしても,一旦理性(reason)に基づく議論を始めると,そのときに用いた特定の論理構成(reasoning)が一貫性を持って現実と整合していないと,それは打ち砕かれる.そして理性と世界が整合的であることは,我々は世界を自分たちに有用になるように変えていくこと(感染症を抑制したり,人類を月に送ること)を可能にすることを意味するのだ.
  • デカルト的議論は屁理屈ではない.極端な脱構築主義者や陰謀論者であってもみな「なんでお前のいうことが正しいとわかるんだ」とか「じゃあ証明してよ」とかいう主張が強力であることを知っている.誰も「いやそんな根拠はないんだ」とか「そうだ,私の主張はクズだ」とはいわない.みな自分の主張は正しいということを前提に議論するのだ.

 
ピンカーの理性擁護の最初の一発は「そもそも理性を否定してしまったら,何らかのまともな主張や議論ができるはずはない」ということだ.これは当然だろう.理性の否定者はまともな議論を拒否しているのと同じだ.ここから話を始めざるを得ないほど,脱構築主義などの理性否定論者が論壇やアカデミアに巣くっているということ自体が嘆かわしい限りだということだろう.

*1:リスのようだという面白い言い回しになっている