Language, Cognition, and Human Nature その89

第8論文 「なぜ氏か育ちかという問題は消え去ったりしないのか」 その4

 
Why Nature and Nurture Won’t Go Away  Daedalus 133(4): 5-17. (2004)
 
典型的な「遺伝も環境もそれぞれ部分的に」論者の言い分を見たところで,ピンカーはこうリマークする.
 

  • このような態度はしばしば「相互主義」「発達主義」「弁証法」「構築主義」「エピジェネティック」などの用語で表され,「遺伝子」「行動」「出生前環境」「生化学的環境」「家庭環境」「学校環境」「文化環境」などのラベルがついた図が伴っている.
  • 私はこのような教義を「全体論的相互主義」と呼ぶ.この教義にはかなりの訴求力がある.それはいくつかの非の打ち所がないポイントを押さえている.例えば氏と育ちは排他的な問題ではないということ,遺伝子は行動を直接駆動するわけではないということ,因果は双方向に働きうることなどだ.さらにそれは穏健主義,概念的洗練,最新の生物学的知見の飾りを持っている.トゥービイとコスミデスはこれを「現代のアカデミックライフと政治的地雷原についての安全通行票だ」と評している.

 

  • しかしこの全体論的相互主義が訴求力を持つことは憂慮すべきことだ.どんなに相互作用が複雑でも,構成要素と相互作用を分解することによってのみそれを理解できるのだ.全体論的相互主義はそういう努力を阻害する.デネットはこう皮肉っている:「確かに氏か育ちか問題ははるか昔に解決されたことをみんな知っている.どっちのサイドも勝つことはできず,すべてはごちゃ混ぜの混乱で複雑で,だから(そんなのほっといて)別のことを考えようってことだろ.」
  • ここから私はこのような全体論的相互主義を吟味し,この立場が最初に見えるように合理的なものではないことを示していきたい.

 
これでこの論文の目的が示された.ここからは徹底的な全体論的相互主義への批判が,彼等の典型的な言い振りへのコメントという形で繰り広げられている.ここがこの論文の中心部分になる.
 

「今日誰も心が空白の石版だなどと信じているわけではない.」
  • これが科学者にとって正しいかどうかは別にして,少なくともそれ以外のインテレクチュアルライフに関しては全く事実とは異なっている.著名な人類学者であるアシュレイ・モンタグは20世紀の社会科学の共通理解を1973年にこう要約している「幼児が突然の保護の打ち切りや大きな音に対してみせる本能的な反応を例外として,ヒトは全く本能を持たない生物だ.ヒトは,本能を持たないからこそ,学習したもの,文化,ヒトの作った環境から形作られるからこそ,ヒトなのだ」.多くの人文科学において支配的なポストモダニズムと社会構築主義は「ヒトの感情,概念カテゴリー,行動パターンは社会的に構築されたものだ」と高らかに宣言する.ポストモダニストでない人文科学者さえも「生物学はヒトの心や行動について何の洞察ももたらさない」と力説する.批評家のルイス・メナンドは最近「人生のすべての側面には生物学的基盤がある.それは生物学的に可能でなければそれは存在し得ないというということだ.その後はどのようにでもなる」と書いている.
  • そしてこの空白の石版の信念は科学者の間に全くないわけでもない.リチャード・ルウォンティン,レオン・カミン,スティーヴ・ローズは「Not in our Genes」という本の中で「ヒトの本性についていえることは,それは自然の「中」で自分自身を形作るということだけだ」と,スティーヴン・グールドは「脳はあらゆる範囲の行動を起こすことができ,どのような先天的な傾向も持たない」と,アン・ファウスト=スターリングは性差の起源についての共通理解として「キーになる生物的事実は,男の子と女の子は異なる性器を持っているということであり,これが大人が男の子と女の子を違って扱う原因となっている」と主張しているのだ.
  • これらの見解はリサーチや政策に浸透している.子育てに関する多くの科学的コンセンサスは両親の行動と子どもの行動の相関を見る研究に基づいている.子どもを叩く親の子は暴力的だとか権威主義的両親の子はより行儀が良いとかよく子どもに話しかける親の子は言語能力に優れるとかだ.これは両親の行動が子どもの特徴を形作るということを皆が前提にしていることを意味している.相関が遺伝子の共有によって生じている可能性には言及されず,もちろんテストもされない.
  • それ以外の証拠もたくさんある.多くの科学組織は「暴力は学習された行動だ」というスローガンを掲げている.そして生物学の素養のある科学者も暴力を栄養不良や感染症のような公衆衛生問題として捉えがちだ.戦略的な暴力の使用が他の霊長類でそう考えられているようにヒトの進化における淘汰産物である可能性は無視される.職業における性差(例えばエンジニアに男性が多いこと)の要因は偏見と隠された障壁だけに限定される.女性がそのような職業をあまり選好しない傾向を持つ可能性には決して言及されない.ポイントは,我々は皆進化や遺伝がこのような現象の説明に関連があると知っているが,それは言ってはいけないタブーとして扱われているというところにあるのだ.

 
まだまだ「ほぼ環境だけ」論者はイデオロギー的な論者や生物学恐怖症患者を含めて大勢残っているということだ.これはラリー・サマーズ学長事件やGoogleメモ事件を見ても明らかだ.
 
 
関連書籍
 
ピンカーがブランクスレート派としてあげている論者の本

まずルウォンティン達の本

Not in Our Genes

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グールドのコメントはこの最初のエッセイ集の「遺伝的可能性と遺伝的決定論」というエッセイの中にある.  
アン・ファウスト=スターリングの本
Myths Of Gender: Biological Theories About Women And Men, Revised Edition

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