Language, Cognition, and Human Nature その91

第8論文 「なぜ氏か育ちかという問題は消え去ったりしないのか」 その6

 
Why Nature and Nurture Won’t Go Away  Daedalus 133(4): 5-17. (2004)
 
ピンカーによる全体論的相互主義者への批判(承前)
 

「遺伝子の効果は環境に決定的に依存している.だから遺伝は行動に全く拘束を与えない」
  • この立場を説明するために2つの例がよく取り上げられる.同条件で育てると高さが異なるトウモロコシ2系統があるとして,高い系統に水を与えなければ(水を与えた低い系統より)低くなるというもの,そして遺伝性のフェニルケトン尿症の子どもにフェニルアラニンを抑えた食事をとらせると発病を抑えられるというものだ.この例には強調すべきポイントが含まれている.遺伝子は行動をぎちぎちに決定するわけではない.教育のような環境的な干渉はヒトに大きな影響を与えうる.また遺伝子と環境は統計的な意味で相互作用する(つまり常に相加的ではなく,相乗的であったり逆に効いたりということがある)ということも強調されるべきだ.
  • しかし同時に環境の依存性を強調して遺伝の重要性を否定するのは誤解の元だ.まず環境さえうまくデザインすればどのような結果も得られるわけではない.確かにある種の遺伝子の効果は環境によって消去できるが,すべての遺伝子の効果がそういうわけではない.行動遺伝学は広い環境分散の元でもパーソナリティや知能や行動傾向に遺伝性があることを示している.フェニルケトン尿症のケースについてもフェニルアラニンを含まない食事を与えてもある程度の知能の減退効果が残ることがわかっている.
  • また遺伝子の効果を逆転させる環境があるということ自体にはあまり意味はない.極端な環境で遺伝子の発現が乱されるといっても通常環境では遺伝子は想定される方向に発現する.
  • 要するに環境により遺伝発現が影響を受けるからといって遺伝の影響が非本質的になるわけではないのだ.それどころか,遺伝子はどのような環境操作がどのようなコストの元でどのような効果を持つかを決める.これは遺伝子の個別発現から社会のような大きな現象まですべてのレベルで真実だ.20世紀の社会主義諸国は社会全体の行動を変容させることに成功したが,それには大規模な強制というコストを伴った.それは社会主義のイデオロギーが「ヒトの動機は環境操作により簡単に変えられる」という間違った仮定の上にあったからだ.
  • 逆に多くの社会的な進歩はヒトの本性の特定の側面に結びつくことによって成し遂げられた.すべてのヒトには同情心がある.残念なことに同情が育まれるモラルサークルはフリーパラメータであり,デフォルトでは家族やクランや村の範囲でしか同情は生まれない.しかし特定環境ではこのサークルは広がることができる.道徳の進歩を理解する重要な方法はこの広がりがどう生まれるかを知ることだ.有力な考えは互恵的な取引関係にあるものはサークルに含まれやすいというものだ.ヒトの本性の自明でない様相を理解することがヒトの社会を変化させる鍵になるのだ.

 
これはまさに無理筋のこじつけあるいはイデオロギーで目が曇ったときにありがちな強引な議論ということだろう.ヒトのパーソナリティや知能への遺伝子の影響を完全に打ち消せるあるいは逆転させられる環境要因が常にあるはずがない.ピンカーの最後のコメントは味がある. 
  

「遺伝子は環境に影響を受け,学習には遺伝子の発現が必要だ.だから氏か育ちかの区別は意味がない」
  • 遺伝子が常にスイッチオンになってなく,様々なシグナルで発現が制御されているのは当然だ.これらのシグナルは温度やホルモンや分子的環境などのインプットによって引き起こされる.環境に敏感な遺伝子発現の代表は学習能力そのものだろう.スキルや記憶はシナプスの物理的変化として蓄えられ,神経活動のパターンの変化がこれらの変化を引き起こすには遺伝子発現を必要とする.
  • しかしこれらの因果の連鎖が氏か育ちかの区別を無意味にするわけではない.これが意味するのは,私たちは「氏=遺伝子,育ち=それ以外すべて」という等式を考え直す必要があるということだ.生物学者は「遺伝子」にいくつかの意味が重なることを20世紀を通じて示してきた.それには遺伝の単位,特定部分の詳細,病気の原因,タンパク合成のテンプレート,発達のトリガー,自然淘汰のターゲットなどがある.
  • だから前科学的なヒトの本性の「氏」概念を遺伝子と同じと見做し,遺伝子の発現が環境依存だからといってヒトの本性は環境で無限に変えられると結論づけるのはミスリーディングなのだ.ヒトの本性は遺伝子を関連しているが,それは遺伝や発達や進化の単位として,特に脳の回路や化学反応へのシステマティックな影響として関連しているのだ.これは分子遺伝学の「遺伝子」という用語の使い方(タンパク質をコードするDNAの並び)とは異なる.ヒトの本性のいくつかの側面はタンパク質コード領域以外(細胞質発現をオンとロールする非コード領域,インプリント状態など)の情報や,自然淘汰がかかって作り上げられた母胎の環境などからもたらされる.また逆に多くのタンパク質コード領域はヒトの本性とあまり関わりのない部分(外傷の治癒,消化など)で働いている.
  • 多様な「環境」概念ももっと洗練させられるべきだ.ほとんどの氏か育ちか論争においては「環境」はあるヒトへの別のヒトからの(操作可能な)インプットのことを指している.これは両親の褒め方や罰し方,ロールモデル,教育,法律,ピアグループの影響,文化,社会的態度などを想定している.このような対人関係の「環境」と分子化学的な「環境」(特に細胞内での他の遺伝子の影響を受けた化学的状態などの伝統的には遺伝と考えられるようなもの)を混同するのミスリードに結びつく.さらに栄養状態や毒物などの別の「環境」もある.ポイントは一つの意味を優先させるのではなく,様々な環境の意味を区別して,その効果を見ることが重要だということだ.
  • 遺伝子の環境依存性がヒトの本性を否定するわけではないことについてのもう1つの理由は,ある1つの環境が生物個体に非常に様々な方法で影響を与えうるということだ.いくつかの概念的環境は「インストラクティブ」だ.(言語獲得初期の)幼児の語彙は話しかけられた単語に依存する.大人がどこに車を止めるかは「駐車禁止」の標識がどこにあるかに依存する.しかし(遺伝子に直接働きかけるような)環境の別の側面は,それ自体に概念内容の無い(条件依存的な遺伝子発現の)トリガーとして作用する.このような作用は生物の発達段階で圧倒的に多い.良い例はPax6遺伝子だ(遺伝子の発現コントロールネットワークが解説されている)

 
全体主義的相互主義者の論争からの逃げ方としてはまだ穏当な形になるだろう.ピンカーは深いところまでコメントし,遺伝と環境の影響については確かに絡み合っているが,それを解きほどいていくことは可能だし,それによってさらに物事の理解が深まることを指摘している.