ピンカーのハーバード講義「合理性」 その5

ピンカーの講義,合理性の規範モデルの話が終わり,ここからは合理性の記述モデル「ヒトの思考は合理性に関してはどのようなものか」に入る.第9回,第10回はトヴェルスキーとカーネマン(以降TKと略す)によって指摘されたヒューリスティックスとバイアスがテーマで,第9回でTKが示した記述モデル,第10回で進化心理学者ギゲレンツァによる議論が扱われる.

 

第9回 ヒューリスティックス,バイアスと認知錯覚

 
harvard.hosted.panopto.com
 
講義開始前の音楽はドワイト・ヨアカムの「King of Fools」
 

  • ここまで合理的に行動するにはどうすべきかという規範モデルの話をしてきたが,今日は現実にどうなっているかという合理性の記述モデルを扱う.

 

  • ヒトの合理性の記述モデルは心理学,行動経済学で発展した.特にトヴェルスキーとカーネマンはヒトの認知に様々なバイアスがあることを明らかにした.これらはその後も次々に見つかって名前がつき,Wikipediaには数百も上がっている.
  • では何故ヒトの心はこのようにバイアスまみれなのに文明はここまで達成できたのか.TKは多くのバイアスはヒューリスティックの副産物であり,ヒューリスティックは日常的にはそこそこうまくいくからだと説明している. カーネマンはこれをシステム1思考と呼んだ.これは視覚の処理と錯覚によく似ている.両方とも進化環境における問題をうまく扱うことができるが,人為的に不自然に作ったものには錯覚を起こす(視覚の処理と錯覚について説明)

 

バイアスは適応産物か
  • では報告されているすべてのバイアスは適応的認知錯覚なのか.
  • そうとは限らない.まず(計算のコストや時間などの)合理性の制限問題がある.また動機のあるリーズニング(真実追究ではなく議論に勝つ),部族主義的なメンバーシップのディスプレイである場合もある.
  • しかし中には(進化的新奇環境で生じる)適応的認知錯覚もあるだろう.確率論は18世紀から,大きなデータセットとコンピュータは20世紀からのものだ.そのような新奇環境では生態的に合理的だったヒューリスティックスが錯覚を生む.
  • TKに先立ち関連事項を研究したのがポール・ミールだ.彼はプロの直感判断と統計やアルゴリズムの判断を比較した.具体的にはいろいろな予測問題について医者などの様々な専門家の判断と単純な回帰分析の結果を比較した. 結果は圧倒的に回帰分析の勝ちだった.専門家は「回帰分析の結果を参考にして良い」という条件のもとであっても専門家の負けだった.
  • ヒトはいろいろな要因を考えに入れることは得意だが,それに適切な重みを付けるのはとても苦手なのだ.

 

  • この結果のインプリケーションはなにか.
  • それは専門家の判断は不必要に不正確であり,専門家は自信過剰(正常化バイアス)であるということだ.フィードバックがない場合は特にそうなる.そして一般人も専門家の判断を信用しすぎということになる.

 
ポール・ミールによる専門家の判断と回帰分析の比較についての本.初版は1954年だそうだ

この件についてはエアーズのこの本で詳しく紹介されている.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20071219/1198070155
その数学が戦略を決める

その数学が戦略を決める

 

代表的ヒューリスティックス
  • ここで代表的な3つのヒューリスティックスを紹介しよう.

 

  • (1)代表性ヒューリスティック
  • 目の前の状況がプロトタイプに似ているかどうかで判断する.これはベースレートの無視,「少数の法則」,証拠の強弱への鈍感さなどに現れる.
  • 刑事司法で弾道分析,バイトマーク分析,ブラッドハウンド証拠は全く価値がないことが明らかになったが,専門家はこれを受け入れない.理由を聞かれても「私はプロでこれが信頼できるとわかっている」としかいえないのだが,彼等はこれらを受け入れ続ける.
  • 合接の誤謬も代表ヒューリスティックのなせる技だ.(銀行員リンダ問題の説明)法律家はこのことをよくわかっていて,検事は犯罪の様相をできるだけ詳しく描写しようとする.その通りの犯罪があった確率は下がるはずだが,陪審の有罪心証は詳しい犯罪描写により上がるのだ.

 

  • (2)利用可能性ヒューリスティック
  • あることの確率を見積もるときに心に浮かびやすいかどうかで判断する.脳のサーチエンジンの結果に頼るといってもいい.これ自体不合理とはいえない.これまでよく遭遇した物事の今後の生起確率は高いことが多いだろうからだ.
  • しかし個人的経験は世界の現実と外れることがある.そして(よく遭遇したかをを離れて)より印象的,より良く知っている物事を重視するというバイアスになって現れる.権威あるジャーナルの記述より友人の経験談を信用してしまうのはこの例だ.

 

  • これはよくリスク評価と結びついて誤謬を形成する.(様々な例が紹介される:例えば.残存PCBによる発がん確率は百万人あたり年あたり0.0001でマッシュルームによる発がん確率は同じく0.1だなど)
  • その典型的な例がテロリズムだ.テロは代表性ヒューリスティックが無ければ効果的にはならない.過去最大のテロ被害は911の3000人だが,年あたりで見て自動車事故や転落事故の方がはるかに多い.
  • リスクの過剰評価の要因はこの利用可能性ヒューリスティックのほか,中身をよく知っているかどうか,コントロールできるかどうか,自然か人工か,恐ろしい結果につながりうるかなどが影響することが知られている.

 

  • (3)アンカリング
  • ヒトは定量的に何かを見積もるときに,あるなんらかの出発点から上下するように調整を行う.このため最終の見積もりは出発点に大きく影響される.この調整方法自体はベイジアン的でおかしなことはない.しかし出発点が全く関連のない数字であってもこの効果は発動する.

 

  • これに関連してTKが提示したモデルがプロスペクト理論になる.ヒトの選好は利益か損失かで損失を重視し,確率評価において0かそうでないか,1かそうでないかを非常に大きく評価する. そして利益か損失かの判断点はフレームにより流れ動く.(アジアの疫病問題(今日的な味付けとしてコロナウイルスで表現される),大学のロゴ入りマグ実験などいくつかの例が紹介される)
  • そしてプロスペクト理論は,ヒトは期待効用理論のように判断せず,そこから利益と損失の非対称,1と0近傍で敏感な確率評価を組み入れた主観的価値で判断するとするものだ.(評価のグラフが説明される)

 

  • では何故ヒトはそういう主観的価値関数を持つのだろうか.私はそれは熱力学の第2法則からくるのだと思っている.第2法則は何もしないと物事は壊れていくことを示している. それはつまり物事が良くなる方法は限定的だが,悪くなる方法は無数にあり,そしてその程度も(死を含めて)大きい場合があるということだ.それが認知に組み込まれているのだろう.

 
トヴェルスキーとカーネマンについてはこの本が面白い.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20170806/1501980839 またこのハーバードの講義ではマイケル・ルイスその人が後にレクチャラーとして登場する.

 
またカーネマンその人による本も外せないところだ.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20130403/1364984135


第10回 合理性再考

 
講義前の音楽はThe Whoの「Won’t Get Fooled Again」
 

  • 前回のバイアスの記述モデルをより深く考えよう.
  • 基本的にはトヴェルスキーとカーネマン(TK)vsギゲレンツァの論争を扱う
  • 進化心理学者であるギゲレンツァはTKのバイアスの議論に対してヒトの合理性を擁護した.いくつかの論点に関してヒトはTKがいうほど非合理的ではなく生態的な合理性があると主張したのだ

 

ギゲレンツァの主張
  • (1)(イベントが生じる)機会の把握ミス
  • TKは(連続で表が出たあとは裏が出やすいとする)ギャンブラーの誤謬を強調した.しかし実際の日常生活で遭遇する多くの物事は独立ではない.ある日の天気は前日の天気から独立であるわけではない メカニズム的に独立になっているギャンブルマシンが例外なのだ.そしてギャンブルであってもサンプル抽出後に元に戻さない場合には独立ではなくなる.カードカウンティングはこれを利用した手段だ
  • もう1つの例はこの間話したホットハンド現象だ.選手は記憶を持ち,体調が連続し,すべてのシュート確率が独立であると信じる理由はない.そしてTKの検証をより洗練した手法でやり直すとホットハンド現象はあることがわかった.ここでヒトの直感はホットハンドはあると教えていた.つまりこの洗練した検証方法と同じぐらい鋭敏だったことになる.

 

  • (2)確率の概念
  • 確率には頻度的な概念モデル,単一イベントについての主観的確率モデル,証拠から見てどこまで信じるべきかというエビデンスモデルがある.昨夜の殺人事件の犯人が君である確率は頻度的には3億分の1*1だが主観的には0になる.
  • そして単一イベントにかかる主観的確率というのは直感的には実に奇妙な性質を持つ.英国のブックメーカーのオッズを眺めるとそれがよくわかる.(いろいろ面白い例が紹介される.今年中にボノが教皇になるオッズは500:1でドーキンスなら375:1だそうだ)
  • ネイト・シルバーは2016年の大統領選挙のトランプ当選確率を40%とはじいていた.これらのオッズや予測は正しいのか.何度も繰り返して同じことをやってみないとそれはなんともいえない.だからこそ主観的確率なのだ.
  • そしてTKが挙げる多くのバイアスは,設問が単一イベントの主観的確率を問う形になっている.これらは間違っていると糾弾されるべきなのだろうか.

 

  • ギゲレンツァは人々の自然な確率概念は頻度的なものであり,設問をそういう形にするとバイアスが減少したり無くなったりすることを示し,単一イベントでフレームすると様々なヒューリスティックの誤射が生じやすいと主張した.
  • コスミデスとトゥービイはギゲレンツァの議論を進めて,稀な疾病診断問題を頻度形式で問うとベースレートの無視が大きく減少することを示した.これはベイス計算では掛け算が入るところが頻度的な計算だと足し算ですむからということでもある. これは面積グラフで示しても同様の効果がある.
  • このことのインプリケーションは何か.それは医療,法律,政治の問題には頻度形式で問題を提示した方が良いということだ.それは普通の人に,そして専門家にも当てはまる.

 

  • (3)ベースレートと事前確率は同じか「ランダムサンプリング」
  • ベースレートを事前確率と扱うためには前提がある.その1つがランダムサンプリングされたものだというものだ.
  • TKの「法律家かエンジニアか問題」を考えよう.TKは確かに設問でジャックの記述がランダムに選ばれたものだと示している.しかし被験者は「このいかにもエンジニアのような記述を設問にしているのには何か理由があるのでは」と考えるだろう. そして(被験者の推測通りに)これがなんらかの意図に基づく設問ならベースレートは関連性が薄くなる.
  • ギゲレンツァは被験者に目の前で箱から記述シートをランダムに選ばせるとベースレートが回答に影響することを示した.

 

  • (4)ベースレートと事前確率「レファレンスクラス」
  • ベースレートを事前確率と扱うには,どのベースレートを用いるのかという問題がある.前立腺がんの事前確率は全人口のベースレートか,全男性のそれか, さらにはユーロアメリカンであること,ユダヤ系であること,65歳以上であることをそれぞれ加味したものであるべきか.
  • 絞り込むほど正確になるが,サンプルが減りノイズが増える.つまりここにはトレードオフがあり判断が必要なのだ.

 

  • ギゲレンツァはタクシーの色問題で,「ある都市のタクシーの色」という記述を「ある都市で事故を起こすタクシーの色」という形に変えるとベースレートの影響が現れることを示した. そしてそれでも時刻,地域などを考えるとそのベースレートを完全に信用しないことに合理性がないとはいえなくなると主張した.

 

  • (5)ベースレートと事前確率「世界の安定性の前提」
  • 世界が安定的なら,サンプルした時期のベースレートをこれから生じることの事前確率として使えるが,もし今朝世界が変わったならそうすべきではない.
  • TKは「ボルボかサーブか問題」でコンシューマレポートより昨日近所の人が遭遇した事故を重視する態度を非合理的とした.ギゲレンツァは設問を「子どもをどこで遊ばせるか」「過去100年の事故」「昨日川でワニが子どもを襲った」という形に変え手見せ,再考を促した. 100年間ほとんどいなかったワニが昨日現れたなら,それまでのベースレートを重視すべきではなくなるということだ.

 

  • (6)言語の解釈:ポール・グライスは人々の会話では協調的な解釈が行われると論じた.法律文書は異なるが,まさにそれはそこに利害対立があるという例外的な状況があるからなのだ.
  • そして論理学の用語と日常用語は異なって用いられる.
  • これを勘案するとTKの提示例は別の解釈が可能になる.
  • リンダ問題では「リンダがフェミニストand銀行員である確率」と書かれている.20%の被験者はこれを「リンダが銀行員である場合に,フェミニストである確率は」という意味だと解釈した. また「リンダが銀行員である」を「リンダはフェミニストではない」という意味だと解釈した被験者もいた.
  • アジア疫病問題も「200人が死ぬ」「200人が助かる」というのは「少なくとも200人が死ぬ」「少なくとも200人が助かる」という意味だと解釈可能だ.であれば彼等の選択は極めて合理的だということになる.

 

論争の意味
  • ではこのTKとギゲレンツァの論争はどっちの勝ちだったのか.この設問は不適切だ.彼等は多くの点で意見を一致させている.
  • 「ヒトの統計把握は不正確になりやすい.ヒューリスティックは役に立つが,新奇環境では誤射することがある.認知の錯覚は感覚の錯覚と似ていて適応メカニズムの副産物だ」というのが一致点だ.

 

  • TKとギゲレンツァが対立しているのは,「ヒトはこの錯覚から逃れられず,システム2に頼るしかない(TK)」「これは生態的に合理的であり,提示の仕方や前提の明確化で錯覚から逃れられる(ギゲレンツァ)」というところだ.
  • では論争のインプリケーションは何か
  • TKの立場からはナッジが正当化される.ギゲレンツァの立場からは教育や問題提示の工夫によりそのようなパターナリズムは不要ということになる.

  
この論争については先ほどのルイスによる本にも描かれている.トヴェルスキーはギゲレンツァの指摘に怒り心頭だったようだ*2が,結局論争自体はすれ違いに終わったようだ.この論争でピンカーがここに示している論点については私が見る限り対立点は相対的な問題で,設問の状況によってどちらも正しいということではないかと思う.
しかしギゲレンツァの主張振りは実はもっと過激で,多くの局面において期待効用最大化など戦略より単純化したヒューリスティックスの方が実は優れているとかなり強く主張している*3.それはピンカーの言う「合理性の制限」を含めた議論であると解釈可能だが,言い回しとしてはトヴェルスキーが激怒するような表現だったこともあるのだろう.
  
ギゲレンツァは一般向けにかなりくだけた本をいくつか出している.

*1:何故ピンカーが世界人口でもボストンの人口でもなくアメリカの人口を使っているのかはよくわからない.これはあとで出てくる「どのベースレートを使うべきか」問題とも関連する

*2:トヴェルスキーの第二次世界大戦時のユダヤ人としての記憶とギゲレンツァがドイツ人であったことが影響したのではないかとルイスはほのめかしている

*3:例えばどこまで顧客にカタログ送付し続けるかという問題の場合に,顧客情報を利用して期待効用最大化アルゴリズムに従うより「中断ヒューリステックの方が優れている」と言い切っている